17.いとしいひと
「……来てくれて本当にありがとう」
「遅くなってしまってすまない」
「むしろあのタイミングでの登場ってすごいわよ」
「ああ、店に男女の二人連れがいただろう」
苦笑しながら言われて思い出す。
最近たまに見かけるようになった、今日真っ先に店を出たあのカップル。
「ええ、なかなか初々しい感じの。どうして知ってるの?」
「男の方が部下なんだ」
「そうなの!?」
「それでリカルドが来たことを知らせに来てくれた」
「そうだったの……でもそれはそれですごい偶然ね」
なるほどそういうことだったのか。ありがとう部下の人。あなたのおかげで私は一発殴られただけで済みました。あとでライアンに山ほど焼き菓子を持って行ってもらおう。
「いや、その、」
心の中で感謝の気持ちを捧げていると、なぜかライアンが私から目を逸らして言い淀む。
「……実はリカルドがキミの行方を探っているという噂を聞いて、部下の何人かに休日はなるべくこの店に様子を見に行ってくれと頼んでいたんだ」
なんだかとっても気まずそうだ。
私に内緒で監視みたいなことをしていたのが後ろめたいのだろうか。
正直なところ、そんなに気にしてくれて嬉しいとしか思わないのだけど。
「全然気付かなかったわ」
むしろさりげない配慮に感心してしまう。
言われてみれば新顔の若い男性客がちらほら増えていたかな、という程度だ。
押しつけがましくない親切に、ライアンの有能さを垣間見て嬉しくなる。
「職権乱用だ。嫌な上司だろう」
「私はお客様が増えてありがたいけど。言ってくれれば良かったのに」
「リカルドのことは出来るだけキミの耳に入れたくなかったから」
不安にさせてしまうだろう、と言って短くため息を吐いた。
「知らないままならその方がいいと思って。この前あいつの話をした時、もう気にしていなかったようだったから」
「そんな……気遣わせてばかりでごめんなさいね」
「むしろ勝手なことをしてすまない」
「え? なんで?」
ライアンが申し訳なさそうに言うのに首を傾げる。
今回彼がしてくれたことで、私にマイナスのことなんてひとつもない。
謝られるようなことは何一つないのだ。
「その、仮にも元恋人だろう。もしかしたら戻りたい気持ちも、」
そこまで言って、私が心底嫌そうに顔を歪めているのに気付いたのか言葉を止める。
「世界に二人きりになったとしてもあいつだけは選ばないわ」
むしろさっさと殺して最後の一人になった方がよっぽどマシだ。
「慰謝料返せとか死ぬほどかっこ悪い」
「ぶはっ」
口をひん曲げながら言うと、ライアンが思い切り噴き出した。
「……っ、いやすまない、キミが大変な思いをした時だと言うのに……くくっ、」
頬に触れたままの手が小刻みに震えている。
余程ツボに入ったのだろう。
「……あいつ私に払った慰謝料に対して『ぼくちんのお金なのに―!』ってダダこねてたわ」
「くッ……! もうやめてくれフローレス……!」
追い打ちを掛けるようにいらん情報を追加すると、ライアンが苦し気に喘いだ。
なかなか笑いの波が引かないようだ。
本当に可愛い人。
ううん、もう分かってる。
可愛いなんて言葉で誤魔化して見ないふりをしていた本当の感情を。
それらはすべて「愛しい」だったのだ。
彼の表情、彼の言葉、彼の仕草すべてが愛しくて、「可愛い」という言葉に包んで隠した。
そしてそれがこのまま続いていくのだろう。
「……ありがとう。守ってくれていたのね」
「ちっとも守れていない」
頬の熱が消えて、魔力の気配がなくなっても、ライアンの手は離れなかった。
腫れの引いた頬をそっと撫でて悔しそうな顔をする。
「やはり腕の一本も切り取ってやるべきだった」
「物騒なこと言わないで」
本気の表情に思わず苦笑してしまう。
「国を守るための大事な手があんなのの血で汚れなくて良かったわ」
労わるように頬の手に自分の手を重ねる。
温かい手だ。
無意識に頬をすり付けたら、びくりとライアンの身体が強張った。
「あっ、ごめんなさい、つい」
「いやっ、いいんだ」
お互い慌てて手を離す。
気まずい沈黙が流れて思わず俯く。
まずい、これではただの変態だ。
自覚してからの恋の病の進行が速すぎる。
「……とにかく、これ以上リカルドがキミに手出し出来ないようにしっかりと対策をするから」
「う、うん、ありがとう。あ、そうだこれ」
言ってエプロンのポケットをごそごそと探る。
コインほどの小さなものを、ライアンに差し出した。
「はい」
「? これは?」
「録音ツール。リカルドが来た時からスイッチ入れっぱなしにしてたの。役に立ちそうだったら使って」
婚約破棄の時にもお世話になった、愛用のマジックツールだ。
リカルドが来てからのやりとりを、クリアな音声で保存してくれているはず。
にこっと笑ってライアンの手に置くと、彼の目がぱちぱちと瞬いた。
ああ愛しいな。それでやっぱり可愛い。
「……フローレス、キミって人は本当に……」
「最高?」
「ああ、とても」
今にも笑い出しそうにライアンが目を細めて言う。
その表情に満足して私も笑った。
いつだって転んでもタダでは起きないつもりだ。