act.7-3 Maiden's Prayer
「ん…っ、ぅ…っ」
口の中へと流れ込んできた少量の液体を反射的に飲み込んでしまい、アリアは苦しげに喉を鳴らした。
鼻に流れたその香りは、どこかで覚えのある甘い香り。
それは、いつ、どこで嗅いだのだろうかとぼんやりと頭の奥で考えを巡らせて。
「…ここ、は…?」
アリアは、目を覚ました。
まず目に入ったのは、高さのある白い天井。
四角いフレームからは薄いレースが垂れ下がっており、自分が寝かされている背中の感触から、ここが天蓋付きベッドの上だということを知る。
「なん…っ?」
その状況を把握して、驚きに目を丸くしたアリアは勢いよく起き上がろうとして。
「…っつぅ……っ!」
その反動で手首が思い切り引っ張られ、予想だにしない痛みに顔をしかめていた。
「お目覚めかな?」
痛みの原因が頭上で拘束された両手首の細い縄のせいだと理解するよりも早く、ふいに耳に届いた不快な声色に、アリアは顔だけを横へと傾ける。
すると。
「手荒な真似をしたことは謝ろう」
口元をニヤつかせた40代半ばの男が、数人の男たちを従えた姿で大きな椅子へと腰掛けながら、横たえられたアリアの身体を上から下まで眺めていた。
「貴方は…」
"ゲーム"のビジュアルで見覚えのあるその顔は。
"成金"の文字をそのまま人の形へと変えたかのような趣味の悪いきらびやかなスーツに、濃い紫色の髪には数本の白髪が光る、好色そうなその男は。
「初めまして、というべきかな?」
緩んだ口元はそのままに、呆然と自分を眺めてくる少女の肢体へと、男は満足気な笑みを浮かべる。
「近い未来の君の夫だよ」
それは、アリア、ではなく、ジゼルの。
醜男というわけでもなければ太っているというわけでもない、まさに小悪党に相応しいその男は、ジゼルを婚約者として買った人物だ。
「……」
ニヤニヤとした不快な笑みを止めない男の顔を、アリアは無言で睨み付ける。
金に物を言わせ、淡い恋心を育てていた少女の人生を台無しにした男。
もしここでアリアが人違いであることを主張したら、信じて貰えるだろうか。よもや間違えたその相手が公爵家の令嬢だと知れば、自分達の命さえ危うくなる事実に気づくだろうか。
「お断りよ…っ」
両手首を拘束する細い縄程度、魔法を使えばどうとでも対処できる。
アリアはジゼルの代わりにきっぱりと男を拒絶して、静電気のような刺激で縄を切ると、男たちの足下へと蔓のようなものを出現させてその身体を横転させる。
「な…っ!」
「…んだ、これは…っ?」
小悪党の取り巻きである五人の男を次々と地に沈めると、アリアはベッドから足を下ろして立ち上がっていた。
「…ジゼル嬢は魔法が使えたのか」
それは情報として聞いていなかった、と、驚愕に目を見張る男へ向かい、アリアはどうしてやろうかと考える。
このまま公爵令嬢誘拐未遂としても充分な罪にはなるだろうが、それでは一瞬でも少女の恋心を踏みにじったことへの怒りが収まらない。
「大人しい令嬢だと聞いていたんだがな…」
大の男たちが地に投げ出された様を目にしても特に動じることなくぶつぶつと呟く男の態度に、なぜか嫌な予感が胸を満たす。
心なしか、心臓が高鳴り、その音が耳を響かせている気がする。
の瞬間。
「…な…っ、に…?」
くらり、と頭が回り、足許をふらつかせながら、アリアはベッドの端へと手をついて、なんとか転倒を免れる。
「やっと効いたか」
高い金を払わせて、即効性だと聞いていたんだがな。と小さな溜め息を洩らす男の言葉は、アリアには上手く理解できない。
(…なに、これ…っ?)
指先が痺れるような感覚があって、ベッドの端へと縋るように伸ばした手が震えた。
身体の奥が急速に熱くなる。
思考が上手く回らない。
魔法の行使にはそれなりの集中力が必要で、異常回復の魔法を紡ぎ出すことも叶わない。
ベッドから手が滑り落ち、ぐらり、と身体が傾いた。
「とても質の良い媚薬だそうだ」
先日手に入れたばかりだから、是非君で試そうかと思って。と愉しげに囁かれるその言葉に、アリアは先ほどの甘い香りの正体を思い出す。
過去、一度だけ嗅いだ覚えのあるソレは、仮面パーティー潜入時に、あの妖しげな空間で炊かれていたお香の匂い。
(…なんでそれがこんなところに…)
上手く回らなくなった思考の中でそれだけを理解して、アリアは熱くなった胸を抱えて大きな吐息を吐き出した。
「…おい」
それから、やっとアリアの攻撃で受けた衝撃から立ち直った取り巻きの男たちへと、男はくいっと首だけで指示を出し、それを理解した男たちは、ベッドサイドで膝をつくアリアの腕を取ると、アリアの身体を再度ベッドの上へと引き戻していた。
「手間かけさせやがって」
「この礼は後できっちり身体で払って貰うからな」
「…ゃ……っ」
今度は膝立ちとなった格好で、両手首を各々天蓋付きベッドのフレームに括りつけられた縄で拘束され、アリアの口から微かな悲鳴が上がる。
「君はね、売られたんだよ」
抵抗を失ったアリアの姿を満足気に観察し、男はくつくつと喉を震わせて酷く愉しげに笑う。
「男爵家は貧窮していて、家の存続の為に私に買われたんだ」
男の言葉が決して嘘ではないことをアリアは知っている。
けれど、それは。
「…ひと、ちがい、だわ……」
沸騰する頭の中で、なんとかそれだけを口にして、アリアは男の反応を窺い見る。
だが。
「この状況で、よくそんな嘘を思い付いたものだね」
むしろ感心するとでも言いたげにわざとらしく洩らされた男の吐息に、周りの男たちも便乗する。
「この期に及んでそんな言い逃れができると思っているのかよ」
「金髪に水色のドレス。アンタだろう?」
ニタニタと卑下た笑みを口元へと浮かべながら、男たちは下品な態度で笑い合う。
この男たちも、アクア公爵家の令嬢の容姿くらいは耳にしているかもしれないが、そもそもその令嬢が今日ここに来ていることは主催者以外誰も知らない。
ジゼルとアリアが同じ金髪で、偶々同じ色のドレスを着ていたことから人違いが起きたのだ。
今日初めて会う男にしてみても詳しいジゼルの容姿までは知らないのだから、アリアの人違いだという主張は、この場を逃れる為の嘘だとしか思わないだろう。
「私は自分で言うのもなんだが、ちょっと特殊な趣味をしていてね。君のような境遇の子であれば遠慮なく好きにできる」
「……ぃや……っ」
立ち上がり、ぎしり、と、スプリングを軋ませて男がベッドの上へと乗り上げてきて、アリアは背筋を凍らせる。
「せいぜい楽しませておくれ」
薬のせいで、思考が上手く回らない。
熱に犯された頭の中は、魔法の構築の邪魔をする。
さすがにこの状況はマズい、と、背中に冷や汗が滲んだ。
ジゼルに万が一があった時、自分が助ける立場になることを想定してはいても、まさか人違いで自分が窮地に立たされることになるとは全く想像もしていなかった。
(…誰、か……っ)
上手く回らなくなった思考の中で、記憶が下りてきて以来、誰にも伸ばしたことのない手が伸ばされる。
来られたら来る、と言っていた素っ気ない姿を思い出す。
もはや正常な意思を保っていられなかった。
アリアの脳裏に思い浮かんだものは一つだけ。
(…シオン……ッ!)