決戦前夜 ~抱擁~
それからしばらくして、リオから訪問の許可を求められ、アリアは慌てて身支度を済ませていた。
「こんな時間にごめんね」
「いえ……っ」
本当に申し訳なさそうに謝るリオへと、アリアは慌てて首を振る。
もう、完全に寝る時間帯。
時間はもちろんのこと、女性一人の部屋へ足を運ぶことの非常識さなどわかっていて、それでも今を逃したらいつ時間が取れるかもわからずに、リオはアリアへと許可を願っていた。
アリアと二人で話したいと思っていても、とにかく皇太子としての業務に忙殺されていて、自由になれるのはこんな時間帯くらいしかない。
「……もしかして、シオンといた?」
なんとなく、アリアの雰囲気が少し違う気がして、リオは緩い微笑みを浮かべる。
本当に、ほんの少しだけ。甘い色香の残り香のようなものが漂った気がした、ただの勘だった。
「……え?」
けれど、途端"なにか"を思い出したのか、動揺と共に仄かに頬を赤らめたアリアへと、リオは自分の勘が正しかったことを知る。
あの時、シオンもすぐ傍にいた。
それについて、シオンにも思うところはあるだろう。
「……アリア」
ソファへとかけることを薦めてくるアリアの方へと向き直り、リオは柔らかな金髪を指先で掬う。
「抱き締めてもいい?」
皇太子という公な立場から、"リオ・オルフィス"という一人の人間へと切り替わる。
「……え?」
返事を待つことなくその華奢な身体を抱き寄せて、リオはぎゅっと目を閉じる。
恐らくは、少し痛みを感じるくらいの強さで抱き締めて、リオは少女の存在が確かにここにあることを確かめていた。
「リオ……、様……?」
突然の抱擁に動揺しかけたアリアは、けれど自分を抱き締めてくるその身体が僅かに震えていることに気づいて、おずおずと顔を上げる。
「……よかった……」
生きてる……。と、益々強く抱き込まれながら震えるような安堵を洩らされ、どうしたらいいのかわからなくなってしまう。
「……リオ、様……」
「ちゃんと、心臓が脈打ってる」
抱き締められたことに少し緊張しているのか、アリアの僅かに早くなった鼓動が聞こえる。
本当は、その胸に耳を押し当てて確認したいくらいの衝動を懸命に抑え込み、リオは少女の感触を確認する。
ちゃんと無事なことなど、見ていればわかるのに。それでもこうして触れてみなければ安心できないほどの衝撃を味わった。
「……どうして君はあんな無茶をするんだ」
震えるような声色で言葉を紡ぐ。
ここに来るべきでないことはわかっていた。
けれど、確認しなければ居ても立ってもいられなくて。
"皇太子"としての姿を保つことで、なんとか平静を装っていたに過ぎない。
「……君を手にかけたあの瞬間、心臓が止まるかと思った」
思い出してもゾッとする。
あんな恐怖、これまでも、これから先も、一生ないと断言できる。
あの時の恐怖を現す言葉を、リオは持っていない。
「……どうして……っ」
ぐっと力の籠った抱擁は痛いくらいだが、今にも泣き出してしまうのではないかと思えるほどのその叫びに、アリアは自分が取ってしまった行動の軽率さを思い知らされる。
「……リオ様……」
神剣は、魔族以外に効果はない。
それを、アリアは知っていたけれど、知らないリオからすればどれほどの恐怖だっただろう。
尤も、知っていたとしても、その恐怖が少し和らぐことがあったとしても、ほとんど同じ結果になっていたであろうことまでアリアは考えが及んでいない。
「……ごめんなさい……」
ただ謝ることしかできなくて。アリアはその恐怖を少しでも払拭させてあげたくて、リオの腰へとそっと自分の手を添える。
「……本当に、ごめんなさい……」
いくら効果がないとはいえ、従妹のアリアをその手にかけるなど、優しいリオになんて残酷なことをさせてしまったのだろうと思う。
「……君には、シオンがいる。君を守るべきはシオンで、ボクじゃない」
自分へと言い聞かせるように呟いて、リオは最後にもう一度腕の中の存在を強く抱き締めるとゆっくりと体を離していく。
それでも、守りたいと、思ってしまう。
願いは、一つだけ。
「……もう、二度と。こんな思いはさせないでくれ」
*****
「望んでも、いいと思いますが」
「……ルイス」
アリアの部屋から自室へと戻る途中。部屋まで付き添うとふいに姿を現したルイスに部屋の扉を閉めた瞬間そう言われ、リオはなんとも言えない複雑な表情を浮かべていた。
「貴方はこの国の皇太子で、将来の王となる身です。妃を複数持つことはむしろ普通でしょう」
その尊い血を繋ぐ為、王にはできるだけ多くの子を持つことが望まれている。
リオほどの力がある王ともなれば、それは一層求められることだろう。
「……君がボクの側近になった時に言ったはずだ。ボクは、妃は一人と決めている」
それは、マリベールが婚約者に決まり、その実兄であるルイスが側近になった時。ルイスに開口一番で語った"誓い"だ。
「……マリベールには、不誠実なことをしたと思ってる」
きちんとした婚約者がいる身でありながら、他へと目を向けてしまったこと。
こうして夜中にも近い時間帯に他の女性を訪ねてしまったこと。
潔癖とも言えるリオにとってはそれは許されてはならないことで、「今後は気をつける」とでも言いたげなリオの態度に、ルイスは小さな吐息を洩らす。
「……それは、仕方のないことでしょう」
赦しを乞うかのようなリオの清廉さは単純に好ましいとも思うものの、もう少し自分に甘くなってもいいと思う。
「この世界は、政略結婚は当たり前です。お互いに想い合って婚姻する方が珍しい」
あのアリアとシオンとて、最初は親同士の決めた婚約から関係は始まっている。好き合って婚約したわけではない。
「マリベールには想う男はいませんが、貴方との間にあるものだって、信頼と同盟でしょう」
将来は王子の妃にと、幼い頃からよく躾られた妹は、ルイスの目から見ても本当に"将来の王妃"としてよく弁えた淑女に育っていた。
王族である自分の夫に一人や二人の側室ができたとしても、醜い嫉妬などしないだろう。
「いつでも正しくあろうと、誠実であろうとする貴方の姿は美徳ですが、少しくらい我が儘になってもいいのでは?」
「……まさか君の口からそんな発言が出るとはね」
本気で言っていることがわかるルイスの発言に、リオは僅かに目を見張りながら「君もあの子に感化された?」と少しだけからかうような瞳を向ける。
今までのルイスからすれば、俄には信じられない発言だ。
「……ありがとう。少し肩の力が抜けたよ」
静かな微笑みを浮かべ、リオは柔らかな空気を醸し出す。
けれど、それでも。
「……あの子の幸せがボクの隣にないことはわかるから」
わかっていて、傍には望めない。
この気持ちが昇華するにはまだ時間がかかるかもしれないけれど。
それまでは。守りたいと、そう思う気持ちを形にしても許されるだろうか。
――あの笑顔を守れるならば、それだけで。
最後まで掲載を悩んだお話です。
そのうち消すかもしれません…。