小話 ~花暦~
次の日の朝。
帰り支度を整え、各々が帰路に着く前に、アリアたちはルーカスの元を訪れていた。
「みんなお揃いで」
どうしたんだい?と微笑うその瞳は、いつも通り意味もなく意味深な色を湛えていて、相変わらずのその艶めきに、アリアは思わず苦笑を洩らす。
「ご挨拶してから帰ろうかと思いまして」
昨日は本当にバタバタしていて、一応の経緯などは聞いたものの、きちんとした話も御礼もできていなかった。
とはいえ、今もそれほど時間があるわけではないから、結局は"挨拶"だけで終わってしまうのだけれど。
「ルーカス先生には、本当に……」
けれど、口にしかけた言の葉は、ふいに唇へと触れてきたルーカスの人差し指の先にストップをかけられる。
「"ルーカス"」
「え?」
「"先生"、はいらない」
「……え……?」
相変わらずの色香を纏わせて告げられた、囁きのような静かな声色に、アリアは「でも……」と戸惑うような様子を見せる。
"先生"と呼ぶようになったのは入学してからのことだが、その前だって"様"付けだった。仲のいい同級生ならばまだしも、年上の、しかも国の中枢を支える師団長に向かって呼び捨てるなど、とてもできるものではない。
「どうせ君の"先生"をしている期間なんて極僅かなんだから」
むしろ身分で言えば君の方が上だしね。と、そう微笑するルーカスのその表情が、なぜか少しだけ寂しそうに見える気がするのはアリアの気のせいだろうか。
「まぁ、"先生"呼びも、禁忌な香りがしてそれはそれで捨てがたくはあるけどね」
「っ!」
くすっ、と微笑いながら耳元でそう囁かれ、アリアは反射的に赤くなる。
また!と上目遣いで睨むような視線を向ければ、
「……っ?」
ぐい……っ、と。
時間切れだとでも言いたげなシオンに後方へと引き寄せられ、アリアはぽすん、と頭をその意外に逞しい胸元へとぶつけていた。
「シオン?」
「まだまだ子供だと思ってたんだけどね」
そんなアリアの顔を見つめ、ルーカスは何処か遠い目をして苦笑する。
「出会った時は本当に"子供"だったのに」
その"子供"に誘い文句をかけてきたのは一体何処のどちら様でしょう?と言いたくもなるが、本当に懐かしげに語られるその言葉に、アリアは静かに耳を傾ける。
「女の子の成長は早いよね」
子供から少女へと。そして、「女」になる。
子供と大人の間の危うさを纏う「少女」の時期はほんの一瞬だ。
「これくらいの年の女の子は日々変化するからね。目まぐるしく成長しすぎて、昨日まで固い蕾ばかりだと思っていても、突然満開の花を咲かせる」
「……ルー、カス……?」
迷いを見せながら。けれど、結果的に"先生"も"様"も付けずに呼ばれた自分の名に、ルーカスは一瞬だけ驚いた顔をしながらもにっこりとした笑みを浮かべていた。
「まぁ、花が咲くには光も水も必要だけど」
それこそ、大輪の花を綺麗に咲かせる為には、愛情を持って手入れもして、時々栄養も与えなければならないけれど。
「……害虫を駆除したり、な?」
ふいに背後からなぜか耳を塞がれて、アリアはシオンの方へと振り返る。
「……自分が与えて咲かせてみせるって?」
挑戦的な瞳を向けたルーカスのその言葉は、聴覚を奪われたアリアの耳には届いていない。
二人の間でしばしの睨み合いが続いたが、後方へと視線を向けていたアリアがそれに気づくことはなく、アリアが両耳に当てられたシオンの掌を外す頃には、ルーカスはおどけたような仕草で空を仰いで溜め息を洩らしていた。
「君は、どんな風に花開いて見せるのかな?」
全く懲りることなく頬へと伸ばされかけた指先は、背後で威嚇のような鋭い視線を放ったシオンの瞳を前に途中で断念される。
――『君が、どんな風に花開くのか、僕に見せてよ』
ふいに、アリアの脳内へと甦った記憶は。
その時の、艶っぽいルーカスの表情に、かぁぁぁ……っ、と頬へと熱が籠る。
それは、"ゲーム"の"ルーカスルート"で。"主人公"へと迫ったルーカスが囁く言葉。
突然、思い出す。
全員の秘め事の顔を、アリアは知っている。
制服のネクタイで手首を拘束し、目隠しまでさせたのは"ルーカスルート"。
恐る恐る触れながら、それでも途中から男の顔を覗かせる、そのギャップ萌えの"ルークルート"。
シオンへの嫉妬から、やや強引にコトを進めてしまい、途中から優しくなる"セオドアルート"。
最初から最後までただ優しく甘いのが"リオルート"で。
「さすがにこれくらいの意味は君でもわかるか」
真っ赤になったアリアの反応になにを思ったのか、くすくすとからかうような笑いがルーカスの口から溢れ落ちる。
「……っ!」
実際はルーカスの言葉の意味を悟ったわけでもなく、ふいに頭に過った過去の映像に戸惑ってしまっただけなのだけれども。
「アリア」
もう行こう?と、呆れたような様子で促してくるユーリの背後にルークとセオドアの姿を見つけてしまえば、今しがた思い出してしまった各々の艶めく一枚画に、全員の顔が直視できなくなってしまう。
そうして結局は、碌に挨拶もできないままその場を後にしてしまい、ルーカス相手にはいつもこうだなぁ、などと、アリアは溜め息を洩らすのだった。
「……情けないね」
外へと引っ張り出されるように帰っていったその後ろ姿を見送って、ルーカスは一人自嘲する。
「触れるのが怖い、なんて、初めて思ったよ」
広げた己の指先へと視線を落とし、くすりという笑みが洩れる。
今まで数多の人間と逢瀬を重ねてきて、触れることに躊躇したことなど一度もない。
もっと奥深くまで入り込み、散々一夜限りの関係を楽しんできたというのに。
たった一人の少女に、指一本触れるだけでも驚くほどの緊張感に襲われる。
「……本当に厄介だね……」
触れたいのに触れられない。
尤も、彼女の場合、その前に独占欲を剥き出しにしてくる婚約者の存在があるのだけれど。
「……参った」
思いの外重症らしいと、ルーカスは己の顔を手で覆っていた。