月に願いを 星に祈りを
――ココン……ッ
湯浴みも済まし、あとは寝るだけ、という状態で少しだけ寛いでいたアリアは、ふいに届いた扉を叩くノックの音に、どうしたものかと悩ましげな顔をした。
こんな時間に自分を訪ねることのできる人物など一人しかいない。
外には王宮警護の近衛兵たちがいる。仮にも公爵令嬢の宿泊する部屋へと安易に人を通したりはしないだろう。それが許されるとすれば、王族の"誰か"か婚約者だけ。
とはいえ、相手が王族だとしても訪問を伺う程度の声はかけられるだろうから、顔パスでここまで辿り着ける人物はといえば、消去法で一人しか思いつかなかった。
「……シオン」
おずおずと扉を開け、どうしたの?と室内へと招き入れながらその長身を見上げれは、シオンはなんともいえない表情になって呆れたように肩を落とす。
「……無防備にも程があるだろう」
闇の者から散々下卑た目で見られておいて、なんの警戒もなく"男"を部屋へと招き入れたアリアに、まだ懲りないのかとその姿を上から下まで眺め遣る。
就寝前ということもあり、アリアは着心地のいい上質な夜着を纏っている。
眠りやすい楽な格好は、逆に言えばそれだけ無防備だということも意味するから、どうぞ襲ってくださいと言っているようなものだ。
「……でも、シオンだろうと思ったし……」
確かに、夜着で出迎えるのはどうかとも悩んだが、それならばそもそもこんな時間に訪ねて来る方もどうかと思う。それを思えばお互い様だとも言いたくもなって、アリアは言い訳じみた声を上げる。
相手を確認せずに扉を開けたことは誉められた行為ではないが、王宮内の来客室で不審者などはありえないだろう。
訪問者がシオンだと思えば、目まぐるしくいろいろあった後で、なにか話でもあるのだろうかと応対してしまうのも仕方のないことだろう。
そう思ってソファへと掛けることを勧めれば、シオンは「そういう意味じゃない」とアリアに聞こえるか聞こえないか程度の声で呟いて、溜め息混じりに近くの別の椅子へと腰を下ろしていた。
「……シオン?」
困ったように微笑うアリアを見つめながら、本当にコイツはなんなんだと思ってしまう。
自分だと思ったからなんの警戒もなく扉を開けたことはもちろん、それ以上に、夜着の自分の格好を理解した上で"男"を室内へと招き入れるという行為がもたらす意味を、この少女はわかっているのだろうか。
それとも、そうなっても構わないと無意識にでも思っているとすれば…、などと考えて、それだけはないだろうという結論へ至ってしまえば、人畜無害な相手だと思われているようで苛立ちさえ覚えてしまう。
なぜここまで無警戒に絶大な信頼を自分に置くことができるのかと理解に苦しむ。
いつだってアリアは、シオンを疑ったりしない。
「婚約者だからな」
「……?」
この部屋への訪問を告げても、警備兵の誰一人としてシオンを止める者はいなかった。それだけ二人の婚約関係は公にも知られているということの証明でもあり、婚約者であれば夜の訪問を咎められることはない、という証拠でもある。
だからアリアが訪問者がシオンであると確信したのは当然だと先のアリアの言い訳じみた言葉を肯定すれば、アリアは不思議そうに小首を傾げていた。
「……だから、付き合ってくれるの?」
この訪問は、昼間の怒涛の出来事に関してなにか話があるのだろうと思えば、いくらここまでの流れが大体"ゲーム"をなぞらえた展開になっているとはいえ、シオンがアリアの無茶にここまで付き合ってくれるのは、仮にもアリアが"婚約者"だからなのだろうかと不思議にも思ってしまう。
本当に、一日でいろいろなことがありすぎて、シオンとこうして向き合って話す時間など取れなかった。
ユーリ奪還の一件一つにしても、アリアが知っていることに関して、シオンがなにを考えているのかわからない。
"ゲーム"の中では、一週間ほどの時間を費やしたはずの出来事は、アリアの記憶というイレギュラーのせいで一日で終わってしまっていた。
(本当に、いろいろありすぎて……)
と、思いを馳せ、アリアは突然フラッシュバックしてきた光景に思わず顔を朱色に染めながら、頭の中でそれを掻き消すように首を振る。
シオンには、本当に感謝している。
アリア一人だったなら、冷静にユーリの行き先を推理することなどできなかっただろう。
拐われたユーリの悪夢を思って取り乱し、周りなど見えていなかった。
……けれど。
(……忘れさせて……!)
一人頭の中で混乱しながら、アリアはどうかと本気で願う。
一度思い出してしまえば、恥ずかしすぎてシオンの方へと顔が上げられない。
なぜ、あんなことを、と、思わなくもないが、それを直接シオンに聞くことも憚れる。
とにかく忘れてしまうことが一番で、いつの間にか顔へと赤身の差した、羞恥で少しだけ潤んだ瞳をシオンへ向ければ、真摯な瞳で射抜いてくるシオンの姿がそこにはあった。
「婚約者、だ」
その意味がわかるか?と、不意に腰を上げたシオンの言葉に、アリアは思わず身構える。
シオンから醸し出される雰囲気が。
今すぐ、その場を離れなければと、アリアへと忠告を促してくる。
決して恐いわけではない。
ただ。
ダメだ、と本能が告げてくる。
「シオ、ン……?」
思わず逃げ出しかけたアリアの肩を掴み、シオンはそのまま背後のソファへとその華奢な身体を押し倒す。
「シオ……ッ」
「婚約者、だ。もしここでオレがお前に手を出したとしても、誰にも咎められる謂れはない」
「……っ!」
――『君は、この中の誰かのお手つきだったりするのかなぁ?』
――『他のヤツらは殺しても、君だけは殺さずに手元に置いて、たっぷり可愛がってあげるからね?』
その時、不意にシオンの頭の中に過ったのは、これ以上なく不快で嗜虐的な嗤い声。
なぜこんな時間にここへ足を向けようとしたのか、正直シオン自身もよくはわかっていなかった。
だが、もしかしたらこれが原因かと思えば、無防備すぎるアリアに対して苛立ちさえ覚えてしまう。
――『だったら、これ以上手を出すな』
キズモノになれば、ルイスも諦めるだろうか。
奪ってしまえば、ほんの少しだけでも、冷静を保つことができるだろうか。
「待っ……」
夜着の胸元は本当に簡易的なもので、紐の先を少し引いてやれば簡単にほどけてしまう。
自分へと覆い被さるシオンの身体を押し退けようと思わず伸びた腕は、そのまま一纏まりにされて頭の上で縫い止められていた。
「シオン……ッ!」
ふわっ、と薫ったシオンの匂いに一度目を見開いてから、肩口にかかった熱い吐息に、アリアはぎゅっと目を閉じる。
「……ぁ……っ」
鎖骨の下。胸元辺りをなにかを確認するかのように生暖かい舌先が舐め取ったのを感じて、アリアはびくりと肩を震わせ、反射的に目を開ける。
「……ん……っ」
けれど、そのまま唇で挟まれるようにその場所を甘噛みされ、アリアは再び閉じた睫毛を震わせていた。
ちゅ……っ、と、そのまま音が出るほど強くきつく吸い上げられ、アリアの顔に僅かな痛みの色が浮かぶ。
「……いたっ……」
キツい痛みにビクリと身体を震わせれば、その反応に満足したようなシオンの気配があって、ジンジンと痛みを帯びるその場所を宥めるように、再度生暖かな感触が這わされる。
ぴちゃり……っ、と響いた音が酷く官能的で、瞬時に顔へと熱が籠る。
「シオ……」
「……今回の件についてはこれで許してやる」
最後にちゅっ、と確認するかのように甘くその場所を吸い上げると、シオンはアリアの身体を解放していた。
「なん……っ?」
真っ赤になったアリアの身体に残されたのは、少しでも胸元の空いた服を着れば見えてしまうような場所に位置する、明らかな鬱血の痕。
誰が見てもわかる、それは他でもない所有の証。
「……な、んで……」
「消すなよ?」
己に刻まれた印に顔を真っ赤に染め上げながら、茫然とするアリアの呟きに、シオンはしっかりと釘を刺す。
人為的に付けられたソレは、言ってしまえばただの鬱血だ。
回復魔法をかけてしまえば、一瞬で消えてなくなってしまうもの。
「次に無茶した時にはしっかりお仕置きしてやるから、忘れるな」
アリアの胸元で存在を主張する、自分のモノだという印を眺めれば少しだけ溜飲が下がった心地がして、シオンは意味深な笑みを浮かべると低くその耳元へと囁いていた。