一難去って
謁見する機会も多いルーカスは、ここ数日の国王の挙動を不審に思い、密かに国王の行動に目を光らせていた。
すると、人目を盗んで王宮を抜け出す王の姿があって、こっそり後を追った結果、滝の奥に隠された岩の扉の前でバイロンに連れ拐われる瞬間を目にしてしまった。
それからバイロンに気づかれないよう中へ潜り込むことに時間を要し、その結果、岩の扉を開けられずにうろうろするユーリと遭遇した。
どうやら天性の幸運か野生の嗅覚で出口まで辿り着いたらしいユーリから事情を聞き、急いでアリアたちの元へと駆け付けたわけなのだが。
……そんな説明を口にする雰囲気が、今はなかった。
「ア、アリア……」
王宮へと瞬間移動で帰還するや否や、大声でユーリの名を呼んで飛び付いてきた華奢な身体に、ユーリはどうしたものかと目を泳がせていた。
「ユーリッ、ユーリ……!」
無事で良かった、ありがとう、と、肩を震わせて泣き出したアリアの身体を軽く受け止めながら近くにいるシオンへと目を上げれば、シオンはただ小さく肩を落としただけで目を逸らす。
「……アリア……」
心配かけてごめんね、と謝れば、ふるふると胸の中で金色の髪が舞い、それと同時に甘やかな女の子らしい薫りが広がった。
「……泣かないでよ……」
困った、と眉の端を引き下げて、それからユーリは一瞬迷うように空を仰いだ後、アリアの背中へと手を回していた。
「だって……っ」
「オレの行動は全部オレの責任だから」
涙の雫を落としながら震える華奢な背中を、ユーリは宥めるようにポンポンと叩いてみせる。
婚約者でもない男の胸に、婚約者の前で飛び込むという行為はいかがなものかとも思われたが、この二人ならば仕方ないかと誰もが諦めてしまうのは何故だろうか。
「だから泣き止んでよ」
ね?と涙の溢れる瞳を覗き込んで零れ落ちる雫を拭ってやれば、ますます涙が溢れ出して、ユーリは動揺してしまう。
「アリア……」
少し力を込めれば折れてしまいそうに細い身体は、それでも女の子らしくとても柔らかい。
その柔らかさも甘い香りも女の子特有のもので、ユーリは困ったように苦笑する。
「アリア」
せっかくの役得を満喫しなければ損だと少しだけ強い力で胸の中に収まっている身体を抱き締めて。
「あんまり可愛いことしてるとキスしちゃうよ?」
ユーリは、悪戯っ子のような瞳でその耳元へと囁いた。
「……え…っ?」
途端、驚いたように見開かれた瞳から涙が消えていき、ぐいっと強制的に二人の身体は離されていく。
「シオン?」
ぽすっ、と頭がその胸元に当たり、アリアは斜め後ろへと振り返る。
その顔がどこか不機嫌そうに感じるのはアリアの気のせいだろうか。
首を傾げるアリアと、なにか物言いたげな瞳を自分へと向けてくるシオンの反応を前にして、ユーリは耐えられないとでもいうかのように、ぶっ、と息を吹き出していた。
「シオンッ、お前、オレにまで嫉妬し始めたら終わりだろっ?」
とても楽しげに腹を抱えてケタケタと笑い、そう言ってシオンを指差すユーリの姿に、アリアはただひたすら訳が分からないという表情を浮かべていた。
*****
その日は王宮に留まるようにと一人ずつ部屋が用意される中、本格的に身体を休める前にと、ユーリはシオンの元を訪れていた。
「ちょっとお前に聞いておきたいことがあって」
少しは慣れてきたとはいえ、権威の象徴である王宮の客室は相変わらず豪華で庶民のユーリには目に眩しい。
所々で輝く金模様を見回しながら早速話を切り出せば、
「なんだ」
こちらはその高級な空間に全く違和感なく馴染みながら、どさりとソファに腰かけていた。
「……アリアが王妃とか、リオ様の妃に、とか、なに?」
最近、時々自分の耳に入ってくる、よくわからない単語の羅列。
ルイスがアリアをリオの妃にしたいと言っていた時には他のことに気を取られていてそのまま忘れてしまっていたが、国王の口からその言葉が飛び出した時には、いくら瀕死の状態といえ……、否、そんな状況だったからこそ、己の耳を疑った。
「……そのままだが」
眉を潜め、それでもあっさりとユーリの懸念を認めたシオンに、ユーリの瞳が大きく見開かれる。
「え?でも……」
アリアはシオンと婚約しているはずだ。
二人の婚約は公にも認められている上に、一般市民さえ知るところだろう。
誰もが認める婚約者同士。それがユーリの認識だったのだが、驚きの回答に挙動不審になってしまう。
「王家に正式に望まれれば断れないだろう。ただの妃ならばまだしも、将来の王妃だ」
ただ王家に嫁ぐだけならばまだ話は違うかもしれない。けれどアリアが望まれているのは、将来の"皇太子妃"で、ゆくゆくは"王妃"となることだ。
王に次ぐ権力者。そこに娘をと望まれて、拒否できる家などあろうはずもない。
「……お前はそれでいいのかよ?」
一般庶民の自分には上流階級の事情などはわからない。けれど、将来を約束し合った婚約者同士を引き離すのはなにか違うのではないかと眉を潜めれば、
「オレたちは臣下だ」
なんの感情も読み取れない淡々とした事務的な口調で返されて、ユーリはますます顔を険しくさせていた。
「……お前って、権力とか身分とか気にするタイプだっけ?」
いつからそうなった、と冗談混じりに付け加えながら、ユーリは納得いかないとばかりに口を尖らせる。
「どっちかって言うとかっ浚って駆け落ちとか平気でするタイプかと思ってたけど」
臣下として必要最低限の礼は払いつつ、納得のいかないことに対しては断固として首を縦に振ったりしない。
慇懃無礼、大胆不敵、の四文字はシオンの為にあるのではないかと思っていたくらいだと不貞腐れるユーリへと、シオンは大きく息を吐く。
「……それは、相手にその気があればの話だろう」
浚って逃げる程度のことはできたとしても、駆け落ちとなると相手の同意が必要だ。
「……いや、まぁ、それはそうだけど……」
浚うにしても、決して大人しく浚われてはくれないだろう少女を思って、ユーリは乾いた笑みを洩らす。例え上手くいったとしても、隙を見て自ら抜け出しそうだ。駆け落ちなんて論外だろう。
「……でもまぁ、お前にその気があることがわかれば、オレはそれで充分かな」
とりあえずは妥協点だと肩を落とし、ユーリは続ける。
「リオ様のことは好きだし感謝してるし尊敬もしてるけど」
アリア自身に相応しい地位はと言われたら、もしかしたらそれは「王妃」という立場なのかもしれない。
民を想い、民に慕われる。
もしアリアが王妃となれば、過去も未来にも類の見ない歴代最高の"国母"になれるかもしれない。
国王となったリオと、王妃となったアリア。
一般市民としては、それはとても素敵な未来だとも思うけれど。
「それならオレは、お前の味方でいてやるよ」
ニヤリと笑い、ユーリは言う。
リオの隣に立つアリアの姿を想像すれば、それはとても「綺麗」だと思う。けれど、アリアには。シオンの傍にいるアリアの方が、「らしい」と思ってしまうのだ。
奔放に行動するアリアと、それに振り回されるシオン。今までずっとそうだった二人の姿を思い浮かべて、ユーリは「それにしても」と意地の悪い笑みを貼り付ける。
「やっと認める気になったんだ?」
アリアが自分の身を危険に晒す度に苛立って、それをぶつけて。
どうしてそこまで意固地に自分の気持ちを認めたがらないのかとずっとヤキモキしていたが、ついにその感情の正体を認めることにしたらしい親友に、ユーリはカラカラ笑う。
「お前、オレのこと好きだろ?」
恋愛感情込みで、と、からかうように悪戯っ子な瞳を向ければ、シオンの瞳が見開かれる。
「……よく気づいたな」
そういうことには鈍そうなのに、と言外に含みを感じれば、それは違いないかもしれないと納得もしてしまう。それでも、と、思うところのあるユーリは、「うーん、」と小首を傾げてみせる。
「……まぁ、お前がオレのこと、本気で恋愛対象として見てたなら、逆に気づかなかったかも」
時々、自分を見るシオンの瞳に、「友人」以上のものを感じることがあった。
ただ、それは不思議と不快なものではなく、なぜだか妙に納得すらしてしまいそうなもので。
その原因が、幼い日のとある出来事に関係しているのだと気づいた時には、いろいろなことが腑に落ちた。
これは、あくまでユーリの勝手な見解に過ぎないけれど、"彼女"のことを好きだと認めたくなくて、わざと自分のことを好きだと思い込ませているような感じがした。
なぜそんなややこしいことを、と、理解には苦しむけれど。
「でも、それ以上にアリアが好きだろ?」
意味深な瞳ではっきりとそう告げてやれば、シオンは諦めたように大きく息を吐き出した。
それがシオンの取れる最大限の肯定の意だと思えば、仕方ないなという苦笑が漏れるのが止められない。
「……本当に、お前には敵わないな」
全てを見透かされている気がして、シオンはあっさり敗けを認めてみせる。
同じ公爵家の少女が婚約者に決まったと言われ、最初はなんとも思わなかった。現国王の愛孫ということで、政略的にはこれ以上ない縁談だと納得したくらいだ。
そして実際会ってみてからも、少し不思議な人種だと思ったくらいで、感情まで動かされたりはしなかった。
"偽装婚約"を提案され、都合がいい相手だと少しだけ気が緩んだのは確かな事実。少女は自分に、他の令嬢たちが望んでくるような愛情を一切求めてこなかった。時々訳のわからないことに巻き込まれはしたが、常に別の"なにか"に夢中らしい少女といることは不思議と不快ではなかった。
振り回されることもあるものの、楽だ、と感じるようになったのはいつの頃からだろうか。
"初恋の少女"と再会し、どこか二人が似ていると思えば、"初恋の少女"に似ていたから気になるのであって、あくまで自分の気持ちはあの幼い時のままだと思っていた。
それが、いつの日か。
平気で自分を犠牲にする少女に腹が立った。
他の"誰か"に傷つけられることが許せなかった。
それならばいっそ、"誰か"に先を越される前に、自分のこの手で、と思うことすらあった。
歪みすら感じる自分の負の感情を、初めて恐いと思ったかもしれない。
認めたくなかった。
幼い日の思い出に気持ちを寄せている方が楽だった。
それなのに。
――あの瞬間、アリアを選び取った自分がいた。
驚くほど明確に。初恋の少女ではなく、婚約者を。
ユーリのことは、絶対に助けると誓った。
けれど、アリアは。
一瞬でも、自分の傍から離すことに恐怖を覚えた。
大切な存在なのだと、思い知らされた。
もう、手離せない。
……けれど。
そんなシオンの想いを簡単に流してみせて、少女は"偽装"だと微笑う。
掴もうとする手をすり抜けて、他の場所へ行こうとする。
"誰か"に心を囚われることがこれほど恐ろしいものだとは思わなかった。
無理矢理にでも、腕の中に閉じ込めてしまいたいと思う。
「……恐いな……」
握り込んだ掌を見つめ、ぽつりと洩らされたシオンの呟きに、ユーリは仕方がないなと苦笑する。
「じゃあ、今日のこの時点から、友達以上恋人未満、で」
それから、と、ユーリはニヤリと意地の悪い顔で小悪魔の尻尾を覗かせる。
「恋敵ってことで」
爽やかに笑って宣言したユーリの言葉に、シオンは僅かに目を見張る。
それから反論を諦めたように嘆息し。
「……相変わらずカッコいいな、お前は」
「惚れ直したか?」
ふふん、と偉そうに鼻を高くする"心友兼恋敵"に、眩しげな瞳を向けていた。
「……オレの初恋はお前で間違ってなかったと思っただけだ」
初恋は、仄かに甘く溶けていった。