絶望と。救済と。 2
久しぶりに心地の良い眠りだった。
時々悪夢に魘されたような気もするものの、その度に大丈夫だからと優しく触れる幻を見た気がする。
ここのところあまり良く眠れていなかったアリアは、窓から差し込む柔らかな朝の陽光に誘われ、ゆっくりと目を開ける。
目を開けて……。
(……えっ!?)
見慣れない光景に、勢い良く起き上がる。
(なんで……!?)
記憶の片隅にある部屋の中は、シオンの私室である寝室だ。
慌てて眠りにつく前の記憶を手繰り寄せるも、曖昧でよく覚えていない。
リオの転移魔法でここまで送り届けられた。
それから……。
ベッドの上。ふわりと鼻に馨った慣れた匂いに、アリアは思わず赤面する。
ここは、普段シオンが眠っている場所だ。
全身にシオンの馨りが染み込んでいる気がして、まるで抱かれた後みたいだと思ってしまえば、頬が熱くなるのを感じる。
――ココン……ッ
ふいに扉を叩く音がして、本来のこの部屋の住人が顔を覗かせた。
「起きたか」
「シオン……」
気分はどうだ?と尋ねられ、アリアは思いの外すっきりしている頭に驚きを隠せない。
ここ最近の、常に靄がかかったような重い思考は綺麗に晴れていて、なにをそこまで思い詰めていたのかとさえ思ってしまう。
「迷惑かけてごめんなさい」
とりあえず謝罪は必要だろう。
申し訳なさそうに緩い微笑みで顔を上げれば、シオンからは無言の返事が返ってくる。
それがいつも通りアリアを受け入れてくれたことだと思えば、胸に仄かな暖かさが広がった。
「朝食を用意させた」
家には連絡をしておいたから心配するなと気遣われ、アリアは一見傍若無人に見えるシオンの優しさを再度実感させられる。
「……ありがとう」
そして、ベッドから抜け出しかけたアリアの耳にバタバタとした騒がしい音が届き、後はお決まりのパターンで。
バターンッ!と勢いよく扉が開かれ、
「シオン……ッ!お前っ、休日のこんな朝っぱらから……!」
呼び出すんじゃねぇよっ。
と、お怒りモードで現れたユーリの瞳が、ベッドの上にいるアリアの姿を映して、きょとん、と数度瞬いた。
「……アリア?」
なぜこんなに朝早くからアリアがここにいるのかと思えば、アリアがいるのはシオンのベッドの上で、その事実を認識したユーリの顔がみるみると赤らんでいく。
「……泊まり?」
元々二人は婚約者同士なのだし、アリアがよければオレは別に……、いやっ、でも……、わざわざなんでオレを呼び出す必要が……?などとぶつぶつ呟くユーリの混乱に、アリアもまた赤面する。
「ユーリッ、違うのっ、違うから……っ!」
誤解しないで……っ!と、アリアは必死に弁解の言葉を放っていた。
「頼んだ」
ポンポン、と頭を軽く叩かれて、信頼を置かれているその言葉と子供扱いのその仕草のギャップに、ユーリはなんとも言えない表情を浮かばせる。
自分は別室で朝食を取るから、二人はここで、とシオンの自室へ取り残されて、仮にも婚約者を他の男と二人きりにしていいのかとも思えるが、それだけ自分が頼りにされているのかと思えば、嬉しいと思う気恥ずかしい気持ちと共に、むぅ、と唇を尖らせたい気分にもなっていた。
「……それで?」
目の前に用意された朝食は、パンにサラダにポーチドエッグ、フルーツジュースにスープ付きで、デザートには小さく切られた季節の果物が数種類。
庶民のユーリからしてみれば朝から豪勢すぎるそれに思わず眉を潜めながらも、遠慮せずにそれへと手を伸ばす。
「なにがあったわけ?」
この前から気にはなってたけど、と、ここ最近シオンとアリアの間に流れていた重たい空気を指摘して、ユーリはわざとらしい溜め息を洩らしてみせる。
「ルーカス先生を助けたこととなにかある?」
「……え……」
いただきます、と手を合わせ、綺麗な動作でサラダを食べ始めたアリアの手が一瞬止まって、動揺の色を窺わせる。
「それくらいわかるよ。セオドアとルークだって、アリアがまたなにかやらかしたなぁ、くらいは」
アリアが隠そうとしていることがわかるから、誰もそこに触れたりはしないけど、みんな、なんとなく程度には気づいている。
「言いたくなければ別に無理して言う必要はないし」
誰にだって人に言えない秘密の一つや二つあるものだし、とジュースを飲みつつさらりと言われた大人びた意見に、アリアはじんわりとした感動が胸を満たしていくのを感じる。
「シオンだって、別に吐かせたいわけじゃないだろ?」
パクパクと、食べ盛りの男の子らしくかなりの早さで朝食を平らげていくユーリに、なんでもないことのように目すら合わせずそう言われ、本当に自分がなにを思い悩んでいたのかとさえ思わせられる。
「全部わかってるぞ、ってことを言いたかっただけで」
あいつ、わかりにくいからな、と仕方なさそうに苦笑するユーリは、シオンとの付き合いはアリアよりよほど浅いはずなのに、アリアよりもよっぽどシオンのことを理解している。
「わかってるから、こそこそするな、って、そういうことでしょ」
ごくん、とパンの最後の一欠片を飲み込んで、やっとユーリの目がアリアへ向く。
言われてみれば、アリアが自分自身を危険な目に合わせたことを怒られても、シオンを巻き込んだことに対して怒られたことはない。
「アリアがなんでもかんでも一人で抱え込もうとするから怒ってるんだよ」
一人で解決しようと悩んでいないで、頼ればいい。単純に、それだけのこと。
「なにがあったか知らないけど」
恐らく、いろいろあったのだろうけど。
「アリア、頭でっかちになってない?」
らしくない。そう思う。
逆に、アリアを「らしくなく」させるほどのことがあったのかと思えば、その華奢な身体にどれだけのことを抱えているのかとも思うけれど。
「アリアだってそれくらいのこと、ちょっと冷静になって考えればわかるだろ?」
全て、なんでもないことのように諭されて、アリアは急速に胸の靄が晴れていくのを感じていた。
「ユーリ……」
――やっぱり、ユーリは偉大な"主人公"だ。
その瞳に強い光を取り戻し、アリアはユーリの存在を心強く思っていた。
*****
「助かった」
嘆息混じりにわかりにくい謝礼をされ、ユーリはじろりとした眼差しをシオンへ向けていた。
「これくらいのこと、自分でどうにかしろよ」
朝早くから使い魔のような鳥に叩き起こされ、休日の惰眠の楽しみを奪われたユーリはご立腹だった。
しかも、呼び出しを受けたその中身はといえば、他人に頼らず自分で解決しろと言いたいもので、ユーリは呆れを隠し得ない。
「……それができれば苦労しない」
自分の不得手をあっさり口にしてみせるその潔さは認めるが、それに巻き込まれる立場としては堪ったものではない。
とはいえ、不器用な友人が取った「他人を頼る」という選択肢は、この友人にとっては最善手だろうと思えば、溜め息一つで許すしかないのだけれど。
「オレはキューピッドとか御免だからな?」
唯一それだけは許容できないと嘆息し、ユーリは目の前の親友へと苦笑いを向けていた。