小話 ~其の、後~
ウェントゥス家からの帰り際。
「アリア」
後方からかけられた、声だけ聞けばシオンとよく似た低い声に、アリアは声のした方へと振り返っていた。
「ラルフ様?」
アリアの帰宅を察してわざわざ出てきたのだろうか。
さりげない仕草でアリアを背中へと庇いながら牽制の目を向けてくる弟へと、ラルフはくすりという自嘲気味の笑みを漏らしていた。
「少し、時間を貰えないか?」
話がしたい。と、至極真面目に伺いを立ててくるラルフへとシオンの眉根がぴくりと動く。
「なにもしない。信じてくれ」
それはアリアに向けて、というよりも、どちらかと言えばシオンに向けての言葉なのかもしれない。
「……えっと……、シオン?」
そんなに遅い時間でもないし、アリア個人は構わないと思うけれど、やはりここはシオンの許しがなければ頷いてはいけない気がして、アリアは頭一つ分以上高いシオンの顔を見上げる。
「本当に、少しだけで構わないんだ」
今までの関係を鑑みればシオンのこの反応は当然のことで、ラルフは困ったように苦笑する。
「お前の婚約者を少しだけ貸してくれ」
そう乞うラルフの瞳は思いの外真摯的だ。
「……シオン……」
どうしたものかと、アリアもまた困ったように眉の端を引き下げる。
「…………」
無言で落とされた小さな溜め息。
それは、了承の意だろうと理解する。
「ありがとう」
昨日まであればあり得なかったであろう、低く響いたラルフのその言葉に、アリアはなんとなくくすぐったい気持ちを覚えていた。
あくまでも、シオンの目の届く範囲内で。
けれど風魔法でも使わない限りは恐らく声は聞こえないであろう距離感で、ラルフは目の前のアリアへと向き直る。
「もし、始めから君のような人が傍にいたなら、きっと違ったんだろうな」
手入れの行き届いた、玄関にほど近い庭園の一角で、ラルフは眩し気な顔をする。
「……アイツだって……。全て君のおかげなんだろう」
いつからだろうか。
他人のことになど興味なく、ただただ硬質だった弟が、少しずつ変わっていくような気がしたのは。
「私は……、ただ、羨ましかっただけなのかもしれない」
"天才"と詠われるようになった弟が憎かった。それでも平常心を装うことができていたのは、弟には絶対的に欠落している部分があったからだ。だからこそ、父親もシオンのことは認めつつも、その仲は冷めたものだった。
それが、いつの頃からか。
「君を手に入れられれば、全て変わる気がした」
シオンを変え、あの厳しい父親に認めさせた原因の少女。
その原石を手にすることができたなら、自分も全て手に入れることができるのではないかと思った。
「……私は……、そんな大それた人間なんかじゃないです」
困ったように微笑するアリアへと、ラルフはそっと手を伸ばす。
「……そうだな。君がそんなだから私も、アイツも……」
「……ラルフ、様……?」
耳元へと伸びた指先がアリアの髪を鋤いて、何処か遠くをみつめる瞳がアリアの姿を映し込む。
「……これ以上は、アイツが許しそうにないな」
くすっ、と静かに微笑ったラルフの視線の先を追えば、そこには遠くから睨むような双眸を向けてくるシオンの姿。
「時間を取らせて悪かった」
その言葉に背中を押されるようにシオンの元へと戻りながら、アリアは一度振り返る。
「少なくとも私は、ラルフ様は大人の魅力溢れる素敵な男性だと思いますよ?」
それは、紛れもない"アリア"の本音。
ふんわりと微笑ったアリアに呆気に取られたように目を見開きながら、ラルフもまたおかしそうな笑みを漏らしていた。
*****
後日。
「あんなやつには愛想つかして、早く私に乗り換えなさい」
ウェントゥス家で偶々会ったラルフからからかうように声をかけられ、アリアはすぐに反撃する。
「カミア様と仲睦まじいって聞きましたけど?」
あの一件以来、ラルフとカミアの甘々ぶりは、社交界でも噂になっている。
どうやらカミアのあの性格を正確に理解したらしいラルフは、日々意地っ張りな婚約者を甘く苛めるのが楽しいご様子だった。
今や社交界でもお似合いの2人となっている。
「アイツに知られるのは恐ろしいな」
他の女に軟派な声をかけているなど、カミアが知ったらどうなるだろうと、それすら面白そうにクスリと笑ってみせるラルフからは、すでに年上の余裕が垣間見える。
「でも、君を手に入れたいと思っているのは本当だ」
だから、いつでも大歓迎だとアリアの手の甲へと軽い口付けを落としてくるラルフはとても魅力的で、うっかりツボに入ってしまったアリアが動揺に頬を紅潮させるのと、シオンが兄の手を叩き落とすのはほぼ同時の出来事だった。