奇跡への道 3
次の日の午後には、ジゼルが遊びに来ていた。
正しく言うならば、アリアの話相手をしてほしいとお願いしたのだが、急すぎる頼み事だったにも関わらず、一も二もなく飛んできてくれたジゼルには感謝しかない。
中庭でジゼルとお茶をしているアリアは、女同士、少しは楽しいひとときを過ごせているだろうか。
きっと、ジゼルが遊びに来たことの意味を察しているだろうアリアを思えば、悪いことをしているわけでもないのに罪悪感で胸が痛んだ。
今のアリアは本当に受動的すぎて、遠慮する必要のない立場を弁えすぎている。
そんなことを思いながら、ユーリは隣に座るシャノンとともに、テーブルを挟んで向かいのソファに腰かけたシオンの顔をじっと見つめていた。
「シャノン。お前に“視て"もらいたいものがある」
前置きもなにもなく、単刀直入に用件を口にするシオンは相変わらずすぎて、今さら文句を言うつもりもわざわざ突っ込んでやる優しさもない。
淡々とした態度を崩さないシオンに向き合いつつ、チラリと隣の反応を窺えば、シャノンは気乗りしない様子で眉間に皺を寄せた。
「……ものにもよる」
シャノンが己の精神感応能力を忌み嫌っていることは今さらだ。
ここまでその能力で多くの事件を解決に導いてきたにも関わらず、精神感応能力は他人の心に土足で踏み入る行為だという罪悪感を抱き続けている。
潔癖なシャノンにとってそれは仕方のないことだとは思うのだが、その能力で助けられた人々がたくさんいることも間違いないのだから、ユーリとしてはもっと胸を張ってほしいと思っている。
不可抗力で視てしまうことはあっても、シャノンは決して己の能力を悪用したりしない。
シャノンだからこそ持つことを許された、きっと、選ばれるべくして選ばれた能力だ。
「これだ」
なにも置かれていないテーブルに、シオンが一冊の本らしきものを差し出した。
よくよく見れば、タイトルも表紙らしきものもなにもない、そのシンプルな装丁は。
「日記?」
「あぁ」
眉を顰めて確認を取るシャノンに、シオンは静かに頷いてその問いかけを肯定する。
「誰の……、って……」
いったいどこからそんなものを持ってきたのだと問いかけて、ユーリはハッとなって顔を上げる。
「アリアか?」
「あぁ」
その日記はとてもシンプルな装丁をしているが、その分見目が綺麗で、持つならばやはり女性的だ。
つまり、この状況でシオンが持ってくるなど、アリアのもの以外ありえない。
そして、それがアリアのものだと知った途端、シャノンからはうろたえる様子が伝わってきた。
「日記は……、ちょっと」
心なし身を引く動作を見せるのは、うっかり視てしまわないように少しでも距離を取ろうとするシャノンの気持ちの表れに違いない。
精神感応能力という特殊な力を持たないユーリでさえ、それに触れることを躊躇してしまうのに、シャノンであればなおさらだろう。
だが、シオンは。
「見てくれ」
「ちょ……っ」
問答無用で開かれた日記に、ユーリは思わず手で目を隠しかける。
けれど、チラリ、と視界の端に映り込んだ文字らしきものに、目を覆いかけていた手を外し、逆にまじまじとそれを覗き込んでしまう。
「……なんだこれ。なにが書いてあるんだ?」
おそらく形状からして文字ではあるのだろうが、見たこともないその文字は、なにが書かれているのかまったくわからない。
つい好奇心に負けてしまい、何ページか捲ってみるものの、やはり並ぶ文字はユーリの知らないものだった。
「古代文字だ」
「古代文字!?」
端的に正体を告げられて、ユーリはぎょっと目を見張る。
「え? これ、アリアの日記だよな?」
「あぁ」
動揺するユーリにもシオンは淡々と頷くだけだ。
いつか、シオンかリオだかから聞いたことがある。
世界中に点在する古き文字は、未だに解読されていないのだと。
それなのに。
「てことは、この古代文字を書いたのはアリア、ってことか?」
この日記がアリアのものであるならば、当然そこに並んだ文字はアリアが書き綴ったものだということで。
信じられないと大きく見開いたユーリの瞳に、相変わらずなにを考えているのかよくわからないシオンの顔が映り込む。
「アリアだからな」
どういう理屈だと言いたくもなるが、理由としては常識もなにもかもを飛び越えて説得力のあるもので、ユーリは言葉を失った。
「今のアイツは書くことはもちろん、読むこともできないだろうが」
「……あぁ」
すべて、納得する。
今のアリアにはできなくとも、自分たちがずっと見てきたアリアならばできるに違いない。
出会った時からずっと、不思議な力を持っていると思っていたが、アリアには"異世界"の知識があったのだ。
この世界では解読不能な文字も、アリアの持つ異世界の知識をもってすれば、読み書きは簡単なものだったのだろう。
「日記の中身自体はどうでもいいんだ。読もうとは思わない」
日記に書かれていることを調べようとしているのかと思ったのだが、決してそうではないらしい。
「ただ」
と、シオンはわずかに表情を曇らせて、膝の上に作った両手の拳を強く握り締める。
「アイツがずっとなにを考えてなにを思っていたのか……、それが知りたい」
アリアはずっと。消える最後の最後まで、真実も本心も隠し続けていた。
日記に書かれている内容などどうでもいい。知りたいのは、アリアの"本当の心"だけ。
そう願うのは、夫であるシオンだけでなく、アリアの周りにいる者たちの総意だろう。
「……それで、俺の能力か」
シャノンの精神感応能力であれば、日記の中身そのものを読むのではなく、そこに込められたアリアの想いを掬い上げて視ることができる。
「あぁ」
「正直日記なんて、一番人のプライバシーに関わるようなもの、避けたいところだけどな」
シオンから真っ直ぐ向けられる視線を受け、シャノンは苦々しく眉間に皺を寄せると顔を横に背けてしまう。
「シャノン……」
かける言葉が見つからず、ユーリはただ切なげな双眸をシャノンへ向ける。
精神感応能力で苦しんできたシャノンを知っているからこそ、安易にそれを使うことを嫌うシャノンの思いはよくわかった。
強制はできない。強制どころか、本来は"お願い"も控えるべきだと思っている。
それがどれほどの善意に繋がろうとも、他人の心は覗いてはならない領域だ。
「正直にいえば、この家にいる時は常に感覚をシャットアウトしているくらいだ」
かつては精神感応能力の制御に苦しんでいたシャノンだが、ここ最近は、体調不良などのよほどの事情がない限り、きちんとコントロールできるようになったのだと聞いている。
にも関わらず、ここでは完全に能力を封じていると細く深い溜め息を吐き出して、シャノンはそっと室内を見回した。
「アイツの場合、視もうと思わなくてもうるさいからな」
アイツ、というのは、言うまでもなくアリアのことだ。
以前からシャノンは、アリアの思考はダダ洩れだというようなことを言っていた。
それを不快だと思わせることなく、呆れた溜め息一つで許されているアリアは、アリアがアリアたるゆえんだろう。
「今だって、ここにはアイツの残留思念がうるさいくらいに残ってる」
強い理性でもって感覚を遮断しているだけで、少しでも油断すればアリアの残留思念を視んでしまいそうだと疲れた吐息を零すシャノンに、ユーリはなにか引っかかるものを覚えて動きを止める。
「え……?」
「なんだ?」
眉を顰めるシャノンの視線を受け、ユーリは今自分が思ったことを正直に口にする。
「それって、アリアがまだココに存在してる、ってこと?」