奇跡への道 2
なにもする気が起きず、アリアはぼんやりとソファに座っていた。
いつもは誰かしらが遊びに来てくれているのだが、今日はみな用事があるらしく、こんなに長時間を一人で過ごすのは初めてではないだろうかというくらい暇を持て余していた。
室内の静けさを意識してしまえば、自分がどれだけ周りのみなに気を遣われているのか、そしてアリアがどれだけ大切にされていたのかがわかって胸が痛んだ。
テーブルに置かれたティーカップの中身は、とうの昔に熱を失くしてしまっていた。
淹れたての時でさえ味気なかったそれを飲む気になれず、数口分だけ傾けて放置されたままだ。
――『……オレが愛しているのは、"お前"じゃない……』
「……っ」
シオンに言われた苦悩の声が頭の中に甦り、アリアは痛みが走った胸元を服の上からぎゅっと握り締める。
あれは、紛れもなくシオンの本心に違いない。
さらに言うならば、シオンだけでなく、誰もが思っている残酷な現実だ。
みんながアリアに優しくしてくれるのは、アリアがアリアだったから。
アリアがアリアではなく、最初からアリアでしかなかったなら、きっとこんな未来は訪れていなかっただろう。
みんなが好きで。みんなが求めているのは今のアリアではない。
ならば、アリアではなく、自分が消えるべきだったのだ。
「どうしたら……」
泣きそうに顔を歪ませながら、アリアは唇を震わせる。
アリアの記憶はアリアにはない。
これほどまでにみなに愛され、シオンにまで愛し抜かれているアリアは、いったいどんな人物だったのだろう。
そうは思ってもアリアのことを知る手段はなく、アリアはぼんやりと室内に視線を彷徨わせる。
なにか……、なにか、ないだろうか。
その時。
「そういえば……」
ふいに思い出したものがあり、アリアは急いで自室の扉を開けると、机の一番上の引き出しを引いた。
決して隠しているわけではないけれど、それでもひっそりと引き出しの奥にしまわれているものを確認する。
「日記……」
日記、と言っても、律儀に毎日書いているものではない。なにか思うことがあった時だけ、どちらかと言えばメモのように使っているものだ。
そのため、分厚い日記帳はシオンと初めて会ったあの日より前から書かれているにも関わらず、まだ一冊に収まっている。
「なにを書いたのか覚えていないなんて、ね……」
日記を手に取って、アリアは自嘲の笑みを零す。
最初の頃のページは、今のアリアにも記憶があるものだ。だが、途中からなにが書かれているのかまったくわからない。
アリアはぺらぺらと日記帳を流し見し、くすりと悲しそうな笑みを浮かべた。
「……自分で書いたものなのに読めないなんておかしな話ね」
これを書いたアリアは、いったいなにを考えていたのだろう。
暗号のように並ぶ文字たちは、筆跡こそ自分のものだというのに、まったく読むことができないものだった。
日記を読めばほんの少しでもアリアのことを理解できるのではないかと期待したのだが、その前の時点で挫折せざるを得ない状況に、がっかりと肩が落ちてしまう。
「いったい、どんな暗ご……」
どうしたら読み取れるのだろうかと、半分諦めながら独り言ちた時。
「……古代……文字……?」
まさか、と目が見開いて、アリアは紙の上に綴られた一文字一文字をじっくりと追っていく。
「どうして……、古代文字なんて……」
ありえない現実に、呆然とした呟きが洩れる。
古代文字など、記憶にある限り見たこともない。
だが、なんとなく、そこに書かれた文字が古代文字であることがわかった。
「リオ様だったら読めるのかしら」
誰よりも勉強熱心で、聡明で有能な皇太子。リオであれば一度や二度古代文字に触れた経験があるだろうと思ったが、アリアはすぐにふるふると首を横に振る。
「無理ね」
古代文字の存在はみなが知るところだが、遥か古い時代のその文字が解読されたという話は聞いたことがない。
「でも……」
たとえ読み解くことができなくとも、この日記の存在はなにか救いになったりしないだろうか。
書かれた日付だけはわかる日記は、その日なにが起こったのか知っている者が見たならば、なにか思うものがあるのではないだろうか。
「……アリア、ごめんなさい」
これから自分がしようとしていることに罪悪感が湧き上がり、アリアは胸の中でぎゅっと日記を抱き締めると懺悔する。
日記は、書いた者の胸に秘められているものだ。この日記ももちろん、誰かに見せることを想定して書かれてはいないだろう。
けれど、もう、縋るものはこれくらいしかないのだ。
「どうか、貴女の心の中を覗かせて……っ」
罰が必要ならば、すべて自分が受けるから。
どうか……、と心の中で祈り、懇願し、アリアは部屋の外へと日記を持ち出したのだった。
*****
シオンが帰ってくる気配を感じ、アリアの心臓はドキドキと緊張の鼓動を刻んだ。
これから自分が行おうとしていることは、シオンにとってきっと吉と出るだろうと思いながらも、後ろめたい気持ちが拭えない。
シオンのことを思ってシオンに少しでも喜んでほしいと思って動くことは、結局自分のエゴなのではないだろうか。
ほんの少しだけでも、自分のことを見てほしくて。好きになってほしくて。そんな汚い気持ちから来ているような気がして、急速に指先が冷たくなり、震えた。
――カチャリ……ッ、と。
扉が開き、アリアはソファから立ち上がる。
「おかえりなさいませ」
駆け寄るようなことはしなかったが、待ちわびるようにしてシオンを出迎えたアリアに、シオンは少しだけ驚いたように反応し、すぐにいつもの冷たさを取り戻す。
「……あぁ」
自分を見つめるシオンからは相変わらずなんの感情も読み取れないが、どうかしたのかとアリアを待ってくれている気がするのはアリアの願望からくる錯覚だろうか。
「……」
「……」
互いに口を閉ざしたまま、無音の時間が流れていく。
その場に留まり、自室に向かおうとしないシオンに、今日に限ってどうしたのだろうと動揺する。
話がしたいと思っている以上、立ち去られてしまっても困るのだが、そんなふうにじっと待たれても焦りが募る。
「あの……っ、シオン様」
緊張で震えてしまいそうな身体を叱咤して、アリアは一度小さく呼吸を整えると意を決してシオンを見上げた。
「なんだ」
とてもあたたかいとは言えない瞳がアリアを射貫く。
怒っているわけでもなく、苛立っているわけでもない、これがシオンの通常運転だとはわかっているが、どうしても遠慮がちになってしまう。
「これ……」
コクリと息を呑み、アリアは手にした日記をおずおずとシオンの前へ差し出した。
シオンの眉が不審そうに顰められ、アリアはシオンの顔を真っ直ぐ見つめる。
「日記です」
「日記……?」
シオンの視線は差し出されたアリアの手元に移り、その存在を確認する。
それがいったい誰のものなのか、頭の回るシオンであればすぐに想像がついただろう。
「日記と言っても時々しか書かれていませんけど。私が書いたものです」
アリアが告げた"答え"に、シオンがわずかに息を呑む気配が感じられた。
――アリアが綴った日記。
今や、唯一アリアに触れることができる遺留品かもしれなかった。
「見てみてください」
日記を手に取るように促せば、シオンからはさすがに躊躇するような動揺が滲み出た。
いくら夫婦関係にあるとはいえ、日記の中身はかなり繊細な問題だ。
たとえそれが故人のものだったとしても、勝手に見ていいはずがない。
今回の場合、アリアの許可は、アリア本人の許可であってそうではないのだから。
「大丈夫ですから」
いくらなんでもそれはできないと拒否の意思を垣間見せるシオンに、アリアは穏やかな微笑みを浮かべると、適当なページを開いてみせる。
「っ」
そこまでされてはさすがに少しは見てみるべきだと思ったのか、それともさすがのシオンも好奇心には勝てなかったのか、戸惑いつつもシオンの視線が開かれた日記に落ちた。
そうしてそこに綴られた文字を目にした瞬間、シオンの瞳は驚いたように見開いていった。
「……古代文字……?」
すぐにそれが古代文字だと認識したシオンは、さすがだとしか言いようがない。
驚きと、わずかな動揺が見えるシオンに、アリアは静かに頷いてみせる。
「はい。ですから読めないんです」
読めないのだから、日記を見ても罪悪感に駆られることはない。
せいぜいが、日記を勝手に持ち出してしまったことを謝罪するくらいのものだ。
「でも、だからこそ、なにかが見つかる気がして」
アリアには、なにもわからない。
けれど、なにもわからないアリアだからこそ、思うものがあった。
アリアがこの日記を開き、わざわざ誰にも読めない文字を書き綴った時。アリアはそこにどんな思いを込めていたのだろう。
その思いを、このまま仕舞い込んでしまっていいのだろうか。
「だが、誰も読めないものに意味は……」
日記を受け取り、文字の表面をそっと指先で撫でながら、シオンは眉間に皺を寄せる。
読めない文字をいくら眺めても、アリアの思いが見えるわけではない。
そこにアリアの思いが込められているとしても、日記がなにかを伝えてくれるわけではないのだから。
だが、その時。
「! シャノン……ッ」
シオンの目がハッと見開いて、アリアの日記を唯一"視める"かもしれない人物の名を呼んだ。
無機物からそこに込められた感情を読み取ることのできる、精神感応能力を持つシャノンであれば。
「これをどう使うかはシオン様にお任せします」
アリアのものであってアリアのものではない日記。
元から所有権を主張するつもりはない。
アリアだった者として、今のアリアが望むことは一つだけ。
「私にはわかります」
救いは、ある。
それがどんなに困難な道のりだったとしても。
「きっと、大丈夫ですから」
なによりも、きっと、アリア自身がここに戻ってきたいと願っている。
「……借りていくぞ」
「はい」
少しだけ悩む様子も見せつつも確認を取ってきたシオンに、アリアは柔らかな微笑みを浮かべて頷いた。
シオンのために――、アリアの周りにいる優しい人たちのために――、今のアリアにできることはこれくらいだ。
「なにか突破口が見えるといいですね」
心の底からそう思い、真摯に願う。
――誰もが、幸せな未来を。
きっとそれは、アリアの願いでもあるだろうから。