失恋
シオンとは同じ家……、というよりも、ほぼ同じ空間で暮らしているはずなのだが、あまり顔を合わせることがない。
アリアに気を遣っているのか、それとも仕事に追われているのか、シオンは朝早くに家を出て遅く帰る生活を続けている。
「……シオン様? 少しお時間をいただいてもいいでしょうか」
少し前にシオンが帰宅した気配を察したアリアは、シオンの部屋の前でコクリと一つ息を呑み、恐る恐る目の前の扉を叩いていた。
「……シオン様?」
ノック音を響かせてから数秒後。返ることない応えに、アリアの瞳は迷うように揺らめいた。
聞こえていないだけならば、もう一度声をかけるべきか、少し時間を置いてから出直すか。
もし聞こえているにも関わらず無言を通しているのなら、別の機会を待つべきなのかもしれない。
けれど、アリアとて、散々思い悩んだ末での決死の行動だった。今を逃せばもう勇気は出ないかもしれない。
「……シオン……、様……?」
とても信じがたいことではあるが、シオンとアリアは"夫婦"なのだ。
しばらく迷った後、アリアはゆっくり扉を開けるとおずおずと室内を窺った。
「お邪魔、します……」
部屋と部屋を隔てるものはたったの扉一枚だけだというにも関わらず、一歩足を踏み入れただけでふわりとシオンの空気に包まれて、アリアは思わず動揺する。
どこになにが置かれているのか、しっかりと詳細まで記憶にあるというのに、感覚としては初めて訪れた気持ちだった。
「シオン、様……?」
静まり返った部屋には、一見しただけではシオンの姿が見つからず、そんなはずはないとアリアの視線は彷徨った。
と。
「……シオン、様」
ベッドの上。おそらく眠るつもりはなかったのだろう。布団に入ることもなく、王宮に上がったままの格好で身体を横たえているシオンの姿を見つけ、アリアの動きはぴたりと止まった。
話をしたいと思っていても、寝ている人間を起こしてまで自分の我が儘を通すつもりはない。
今夜はもう諦めようと静かな吐息をつき、アリアが扉のほうへ踵を返しかけた時。
「……ぅ……」
小さくくぐもった声が聞こえたような気がして、アリアは反射的に振り返っていた。
「……シオン様?」
気配に敏感なシオンのことだ。もしかして起こしてしまっただろうかと申し訳なくなるアリアの前で、けれどシオンの瞼は閉じたまま、その眉間には苦し気な皺が寄る。
「……っ……」
なにか、嫌な夢でも見ているのだろうか。
明らかに魘されているシオンの寝顔に、アリアはどうするべきかと判断に迷う。
シオンが寝ているところに勝手に足を踏み入れてしまった罪悪感もある。シオンはアリアに寝ているところを見られたくなかったかもしれない。
だが、苦しんでいるシオンをそのまま放って部屋を出ていく決断もできなかった。
アリアはその場に足を固めたまま、祈るように手を組み、息を呑む。
「く……っ」
「シオン様!?」
そうして意を決すると、ベッドサイドまで駆け寄り、声をかける。
「シオン様……!」
普段はすぐに目を覚ますであろうシオンは、今日に限って深い眠りに囚われているのか、アリアの呼びかけにも瞼が開かれることはない。
「シオ……」
無理矢理にでも起こすべきかとアリアの手が遠慮がちにシオンへ伸びた時。
「アリア……!」
荒い呼吸でアリアの名を呼んだシオンが勢いよく身体を起こし、今の状況を把握しようとすぐにその瞳は室内を見回した。
「……アリ、ア……?」
「はい」
存在を確認するかのような問いかけに、アリアはほっと胸を撫で下ろしながら静かに頷く。
「よかったです」
悪夢から覚めれば分析力に優れたシオンが現実に帰るのは早く、いつもの冷静沈着な姿を取り戻していくシオンの様子に安心の微笑みが浮かぶ。
「魘されていたのでどうしようかと思いました」
「……あぁ」
その妙な間はなんだろうか。
静かに話しかけるアリアを見つめたシオンは、一瞬にして無表情となり、すぐにベッドから立ち上がる気配を見せる。
「大丈夫……、ですか?」
「あぁ」
床に足を下ろしたシオンに声をかければ、感情のこもらない応えが返ってきて、アリアはきゅっと唇を引き結ぶ。
他人に不調を悟らせることなどないシオンからは、もはや先ほど魘されていた余韻など見当たらない。
だが、だからこそ思うことがある。
「……もしかして、ここ最近よく眠れていなかったりしますか?」
「大丈夫だ」
即答を、信じられればいいのかもしれない。
きっぱりと断言したシオンの答えを鵜呑みにできないアリアは、純真ではない、ということになるのだろうか。
けれど、考えなくともわかる。
大丈夫なはずがない。
アリアもアリアで苦しんでいるが、最愛の妻だったというアリアを突然失い、平静を保っていられるほうがおかしいのだ。
「……私に、なにかできることはないでしょうか」
それは、ここ最近ずっと考えていたことだった。
みな、アリアのせいではないと優しい言葉をかけてくれるけれど、それらはむしろアリアに疎外感を感じさせた。
腫れ物に触れるかのような周りの態度は、アリアがアリアではないがゆえの扱いだ。
みんなが求めているのはアリアだ。
――アリアは、必要とされていない。
そのことを思い知らされると苦しくてたまらない。
「大丈夫だ」
「……シオン様……」
拒絶は、アリアになにも求めていなければ期待もしていない証だ。
そんなシオンの態度はなによりもアリアを傷つけ、絶望させる。
「……私は、シオン様の妻なんですよね?」
目を覚ましたアリアが、なによりも驚いた現実。未だに信じられないが、自信なさげに問いかけたアリアへ、切れ長のシオンの目が向けられる。
「……あぁ」
そこにある一拍の間には、どんな葛藤が秘められているのだろう。
「シオン様」
勝手に溢れそうになる涙を必死で堪え、アリアは立ち上がったシオンの顔を見上げる。
「……お慕いしています」
一目惚れだった。
ウェントゥス家の庭で初めてシオンの姿を見た瞬間に恋に落ちた。
想いを伝えるかどうか悩んだが、言葉にせずにはいられなかった。
「貴方のことが、好きなんです」
だからこそ、力になりたいのだ。
なにかできることはないかと迷い、自分にできることがあるのなら、言ってほしいと願うのだ。
けれど、シオンは。そして、みんなは。
「……オレ、は……」
アリアの突然の告白に、さすがに少しだけ驚きの色を覗かせたシオンは、手の横で作った拳をぐっと握り締める。
「オレが、好きなのは……」
その顔は苦し気に歪み、らしくなくアリアから視線が逸らされた。
「……オレが愛しているのは、"お前"じゃない……」
「――っ!」
わかっていたこととはいえ、辛そうに口にされた答えに、アリアの顔もまた泣きそうに歪んだ。
「……返してくれ」
絞り出すような願望に胸が締め付けられる。
「神を敵に回そうが、それで世界が滅びようが関係ない」
シオンにとって、唯一の女性。
「アリアを、返してくれ」
「……っ」
それは、誰に向かっての願いなのか。
決して自分のことを見てはくれないシオンの拒絶に、アリアは涙を零すこともできずにただただ言葉を失っていた。
やっと伏線(?)が回収されはじめて感無量です(涙)。
引き続き回収作業頑張ります……!