絶望のはじまり 4
「アリア……ッ!?」
ノックもなく扉が開け放たれ、慌てた様子のシオンが顔を覗かせた。
「どうした……!」
その顔には、いつも冷静沈着なシオンらしからぬ焦燥の色が浮かんでいる。
「!? シオンさ……」
アリアは思わず顔を上げ、シオンへ救いを求めるような目を向けようとして……。
「っ!? きゃぁぁぁ~~っっ!?」
ほぼ全裸に近い今の自分の姿を思い出し、真っ赤になってその場に座り込む。
先ほど自分の瞳に映った光景も衝撃だが、シオンにほぼなにも身に纏っていない姿を見られてしまったことも、それ以上の衝撃だった。
「…………悪い」
そんなアリアの反応に一瞬驚いたように目を見張ったシオンだが、すぐにいつもの無表情を取り戻すと、洗面台の横に置いてあったバスタオルへ手を伸ばす。
「……い、いえ……」
「それで、どうした」
しゃがみ込んだまま首を小さく横に振ったアリアへバスタオルを肩からかけ、シオンは静かに声をかけてくる。
「……あ、いえ……、その……」
シオンに支えられるような格好でゆっくりと立ち上がりつつ、アリアは動揺に瞳を揺らめかせる。
「……その……、身体に……」
なにをどう言ったらいいのかわからず、しどろもどろと視線を彷徨わせるアリアを、シオンの冷静な瞳が見下ろした。
「身体に?」
「……なにかの病気かもしれなくて!」
もはや涙目になってアリアは訴える。
先ほどアリアが自分の身体に見つけた“異常”。それは。
「なにがあった」
「それが、その……」
なんとなく言い出し難く、アリアはおどおどしながらそれでも消え入るような声色で口を開く。
「身体中に小さい斑点みたいなものが……」
「斑点?」
「はい……」
どうしたらこの“異常”をシオンへ正確に伝えることができるだろうか。
しばし考えた後、アリアは言葉で伝えるよりも実物を見てもらう方が理解が早いと結論を出し、シオンが身体に巻き付けてくれたバスタオルの胸元部分に手をかける。
「……その……、こ、これ……」
異性に肌を晒すなど、とても恥ずかしい行為だ。
羞恥心と闘いながら、これくらいならば許容範囲だと自分自身へ言い聞かせ、アリアは胸が見えないギリギリラインまでバスタオルを引き下げる。
デコルテライン程度であれば、肩が大きく開いたデザインのドレスを着た時などには公共の場で見せている。
「こ、こういう痕が身体中に……」
それでも羞恥で顔を赤く染め、俯きがちにソレを示してみせたアリアへ、アリアの白い胸元へ視線を落としたシオンは動きを止めた。
「……」
「……っ」
沈黙が落ち、すぐに返ってくることのないシオンの反応に、アリアは耐え切れず唇を引き締める。
羞恥と、不安と。
じわり、と涙が滲み、どんな感情からか、バスタオルを握り締める指先が小さく震えた。
服を着ている時にはわからなかった、胸元に浮かんだ斑点のような痕は、自分の肌へ視線を落とせば、身体中に広がっていた。
「……昨日も抱いたからな」
アリアの肌を見つめ下ろしたシオンは、独り言のような声色で呟いて、そっとアリアの胸元へ指を伸ばしてくる。
「ん……っ」
白い肌に浮かぶ斑点のような痕をそっと撫でられ、アリアの肩がぴくりっ、と震えた。
「シ、シオン様……?」
アリアにとっては不気味でしかない痕を、どこか愛おしそうな、懐かしむような目で見つめてくるシオンに、アリアは戸惑いの疑問を向ける。
――“昨夜も抱いた”。
その言葉の意味が理解できるようでいてわからない。
「オレが付けた」
「え?」
アリアの肌を撫でる手を止め、その痕をじっと観察しているかのようなシオンに、アリアはきょとん、とした顔を向ける。
「そういう記憶……、知識もない、か?」
「……え……」
そういう記憶、というよりも知識。
「……」
「……」
しばらく動きを止めて考え込んだアリアは、一つの可能性に辿り着き、驚きでみるみると瞳を見開いていく。
「……あ……」
記憶はなくとも得た知識は残っている。
とても信じられないことではあるものの、アリアとシオンは結婚していて、しかも新婚だ。
嫁いだ女性は、入った家が高貴であればあるほど、世継ぎというものを求められる。
まだ若すぎるとはいえ、子供ができるのは早ければ早いほど喜ばれることは間違いない。
つまりは。
「……あっ、あの……っ、その……っ、それは……、その……っ」
「夫婦なんだ。当然だろう?」
顔を真っ赤にしながらしどろもどろと浮かんだ推測を口にしかけたアリアへ、シオンからは淡々とした肯定が返ってくる。
シオンが認めた、その意味は。
「――っ!」
知識はあってもなにも知らないアリアは、想像と違いすぎる現実を目の前にして言葉を失った。
つまり、不気味すぎるこの痕は。
なにかの病気かと思った斑点のようなものの正体は。
たとえそうだとしても、いくらなんでも驚くべきほどの数に、混乱と動揺が広がっていく。
――それは、俗に言う“キスマーク”。
鬱血の原因がわかっても、身体中に広がる痕跡の意味がわかるようでわからずに、思考回路が停止する。
――そこからは、“執着”のようなものが見えて。
それが、シオンがアリアへ向けたものだと思えば、俄かには信じ難いこともあってふるりと身体が震えた。
そんなアリアになにを思ったのか、小さな吐息を落としたシオンは、淡々とした声色で告げてくる。
「安心していい」
胸元で緩んだバスタオルをしっかり元の形に戻し、シオンはアリアから手を離す。
「なにもしない」
「え……」
「そういう意味では指一本触れないから安心しろ」
アリアを見下ろすシオンからは、なんの感情も読み取れない。
そこにはただ、無感動の瞳があるだけだ。
「……え、えと……、その……」
安心しろ、というシオンの言葉の意味。
指一本触れない、という言葉から見えるシオンの想い。
「だからゆっくり入って休めばいい」
一人でゆっくり湯に浸かり、心身共に疲れを癒して一人でぐっすりと眠りにつく。
そう告げてくるシオンが心の中でなにを思っているのかわからない。
それでも、今のアリアにはなにをどうしたらいいのかなど全くわからなくて。
「驚くのは無理ないが、病気ではないから大丈夫だ」
脱衣所から出ていく気配を見せるシオンに、アリアはおずおずと首を縦に振る。
「は、はい……。私の方こそ驚かせてしまってごめんなさい……」
そうしてアリアへ一瞬だけ視線を投げ、無言で扉の向こうに消えたシオンを見送って、アリアは胸元のバスタオルを握った手へ、無意識にぎゅっと力を込めたのだった。
なんとか落ち着きを取り戻し、まずはシャワーを浴びようと浴室を進んだアリアは、そこにある鏡に映った自分の姿に、再度目を見開いた。
「――っ!?」
アリアの全身に残されたシオンの痕。
先ほど、充分すぎるほど驚き、動揺したけれど。
「……う、そ……」
改めて鏡に映った一糸纏わない自分の姿を見つめてもう一度言葉を失った。
「なに、これ……? ほんとう、に……?」
アリアの肌に残されたシオンの印は、胸元や腹部に留まらず、内股の際どい場所にまで広がっていて。
「え……」
いわゆる“情事の痕跡”というよりも、別の事実が信じられずに動揺する。
「……全部、シオン様が……?」
唇が、震える。
あのシオンとそういうことをした記憶など当然ない。
けれど、この情況がなによりも現実を語っている。
「……っ」
アリアは真っ赤になり、鏡の中の自分の姿を凝視した。
恥ずかしくて堪らないのに、自分自身から目が離せない。
身体中に散りばめられた所有の証。
つまり、それは。
鬱血の残るそこに、シオンが一つ一つ口づけたということだ。
シオンが、そこに触れて。キスをして。
アリアの白い肌に、シオンの唇が這っていって……。
「~~~~っっっ!」
耐え切れず、シャワーのノブを捻ると全てを振り切るように頭から水を浴びる。
けれど、一度頭の中に浮かんだ想像はそんなことでは消えてくれなくて。
「…………嘘」
今のアリアにはなにもない。
シオンに愛された記憶も。愛されている自信も。
――『そういう意味では指一本触れないから安心しろ』
それは、シオンの優しさか。
「っ」
息を詰め、アリアはふるふると否定の方向へ首を振る。
「……違う」
わかっている。
それくらいのことはすぐに理解した。
「シオン様が好きなのは“私”じゃない……」
シオンが愛している相手は、アリアであってアリアではない。
今はここにいない、アリアの知らない女性。
「……なにが……、どうして……」
わからない。
わからない。
なにがどうなり、なぜこうなっているのか。
「……っ……」
アリアの瞳から零れ落ちた一粒の涙も呟きも、降り注ぐ水の中へ溶けていった。