絶望のはじまり 3
シオンに初めて会った時のことは鮮明に覚えている。
ウェントゥス公爵の好意で、中庭を散策させてもらっていた時のことだ。
人の気配を感じて振り向いた。
その瞬間――。
「――――!」
一目惚れ、に近かった。
空から差し込む陽の光が、シオンの黒髪を黄金に輝かせ。
これほどの美貌の持ち主がこの世にいるのかと思った。
まさに、神の最高傑作と呼ぶに相応しい美少年。
一瞬にして目を奪われた。
けれど。
「――――!?」
その直後、脳を直接雷で撃たれたような感覚に襲われた。
――我が愛し子よ……。
グラリ、と身体が傾いた。
ハッとなったシオンの様子が目に入り、その手がアリアへ伸ばされて……。
――面白い世界を見せておくれ……。
世界が暗転し、アリアの記憶はそこで途切れた。
「……」
シオンと共にウェントゥス家に戻ったアリアは、覚えがないのに知っている室内の光景に、そわそわと落ち着かない様子を見せていた。
結婚を機に改装された部屋は、広い共同スペースにお互いの部屋が隣接された、とても豪華な作りをしている。
そこに設置された小さなキッチンが、アリアのために作られたものだということも知っている。
お菓子作りを趣味にする母親と料理をした記憶は何度かあるが、アリア自身が好んでキッチンに立つようなことがあるとは思えないのに。
「アリア?」
挙動不審な様子を見せているアリアに気づいたのか、シオンが訝しげな目を向けてきて、アリアはどう反応したらいいかわからず動揺する。
「い、いえ……」
知っているのに知らない空間。わからないのにわかる部屋。今目の前にいるシオンさえ他人のようで、この感覚をどう伝えたらいいのか、その前に伝えていいものかもわからない。
「夕食はこちらに運ばせる。ゆっくり食事を取るといい」
「……ありがとうございます……」
精神状態が不安定なアリアを気遣ってか、極力余計な人間と接する機会を取り除こうとしてくれるシオンの優しさに、アリアは複雑な思いを抱きながら曖昧な笑みを返す。
――『シオン様は、それはそれはアリア様のことを大切に思って、愛してらっしゃいますから』
ジゼルに言われた言葉を思い出す。
シオンは、アリアのことを本当に大切に思ってくれているのだと。
そう言われても俄には信じ難い。自分に自信がないというよりも、シオンが誰かを本気で愛し、大切にするという行為が信じられないのだ。
全ての記憶が朧げな中、特にシオンに関しての記憶が曖昧だ。
三年間の学園生活で、シオンが傍にいたような感覚はある。だが、なぜ傍にいてくれたのかはわからない。
「…………」
「…………」
元々シオンは喋る方ではない。
沈黙が落ち、気まずくなったアリアはおずおずと顔を上げる。
「……あの……、シオン様……?」
「なんだ」
アリアに顔を向けたシオンからはなんの感情も読み取れない。
「……なんでもないです」
アリアは、本当にシオンに愛されていたのだろうか。およそシオンらしくない調度品が揃えられた新婚の部屋を目の前にしても、やはりとてもではないが信じ難い。
俯き、それ以上なにも言えなくなってしまったアリアを見つめるシオンは、なにを考えているのだろう。
「あぁ、そうだ」
そこで、ふとなにかを思い出したような呟きを漏らしたシオンは、隣接する部屋の扉の前まで音もなく歩いていく。
今は閉ざされている扉の向こうには。
「こっちがお前の部屋だ」
そっと扉を開いたシオンは、「それくらいは覚えてるか?」とアリアの様子を窺ってくる。
「……ぁ……」
知ってはいる。実家のアリアの自室に似た、カントリー調の落ち着いた部屋。
だが、使った覚えがない感覚があるのはなぜだろう。
「一応、いつでも使えるように整えてあるからな」
シオンのその言い様からも、アリアが普段この部屋を使っていないことが伝わってくる。
なぜ、使っていないのか。
そして、使っていないのなら、アリアは普段どこで生活し、どこで寝ているというのだろう。
少し考えれば導き出されそうな答えを、あえて見ないようにする。
……答えを知ることが怖くて。
「湯浴みの用意もさせてある」
部屋には、本館ほどの規模ではなくとも、浴室も完備されている。
「自室でゆっくり休め」
湯にのんびり浸かって疲れを癒し、誰にも邪魔されることなく一人で眠るといいと告げられて動揺する。
それは、今のアリアが望んでいることのはずなのに。
心の奥深く、どこかが、「違う」「そうじゃない」という声を上げている気がした。
それでも。
「……ありがとうございます……」
アリアは丁寧に頭を下げ、入浴の準備をするのだった。
「……」
覚えがないのに知っている空間。
大きな丸い鏡の前には洗面台が二つあり、奥には恐らくすでに湯の張られた浴槽が待っているであろう浴室に続く脱衣室。
ウェントゥス家に帰ってから、もう何度このおかしな感覚を覚えたことだろう。
どこになにがあるのか、どこをどうすればどうなるか。
知らないはずなのに全て知っているという不思議な感覚。
不思議、というよりもむしろ不気味で、アリアは鏡に映った自分の姿を見つめながらふるりと身体を震わせる。
「……」
金色の長い髪。胸が小さいことが悩みだが、華奢過ぎない整った容姿。
鏡の中のアリアと目が合うと、大きな瞳は不安気に揺らめいた。
――鏡に映っているのは、間違いなく「アリア・フルール」だ。
「……今は、アリア・ガルシア?」
鏡の自分に問いかけても、応えが返ってくるはずもない。
アリア・ガルシア、と呟いても、違和感しか湧いてこない。
シオンに愛されているという記憶はもちろんのこと、結婚しているという記憶がない。
ただ、最近のアリアが間違いなくここで生活していたのだという感覚だけはあるから混乱する。
「……今日はもう休みましょう……」
考えることに疲れてしまった。
自分の身になにが起こっているのか、これ以上頭を悩ませたくなかった。
今日はもう、なにも考えずに眠ってしまいたい。
――思考することから、逃げてしまいたい。
「……」
ぼんやりとしながら胸元のボタンに手をかけ、服を脱いでいく。
ドレス風ワンピースが足元に落ち、下に着ていたキャミソールを首から抜く。
そうして。
「籠……」
脱いだ服は、横の籠へ。
ぼんやりとした頭でそう思った時。
「な……っ、ん……!?」
ふと、下着姿になった自分の胸元に視線が落ち、アリアの瞳は驚愕に見開いた。
さらには。
「――っ!?」
鏡に映った、ほぼ裸に近い自分の姿に息を呑む。
鏡の中にいるアリアは。
「……きゃぁぁ――――っっ!?」
直後、アリアの口からは高い悲鳴が上がっていた。
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