絶望のはじまり 2
季節の花々が咲き誇る庭園を、アリアはどこか違う世界に迷い込んだかのような心地で眺めていた。
「さすが王宮の庭園は素敵ですねぇ……」
数歩先を歩く少女がにこにこと笑ってアリアの方へ振り返る。
重苦しい空気が漂う部屋からアリアを連れ出してくれた。彼女の名前は知っている。
「……ジゼル」
少し離れた場所からアリアとジゼルを見守るように静かに微笑っている人物のことも知っている。――ジゼルの双子の兄、シリルだ。
「ご不安、ですよね」
気遣わし気な瞳で仄かに微笑んだジゼルに、アリアの瞳は動揺で揺れ動く。
アリアが今、胸に抱えているもの。これは「不安」という感情だろうか。
街の中というとんでもない場所で目覚めた時から、ずっとよくわからない感覚に囚われている。目が覚めたはずなのに、まだ夢の中にいるような感覚。
いや、違う。やはりこれは、長い長い夢から覚めた感覚だ。
ある日突然眠りについて、目が覚めたら数年たっていた。
今のアリアにとって、恐らくそれが一番近い感覚だ。
「でも」
ジゼルは真っ直ぐアリアを見つめて微笑う。
「みんな、アリア様の傍にいますから」
向けられる言葉は強く優しい。
「みんな、アリア様のことが好きで、大切で。必ずお守りしますから」
みんながみんな、どうしてそんなふうに思ってくれるのかわからない。
自分はみんなに、そこまで大切にされるような人間ではないはずだ。
「周りに、甘えてください」
優しく微笑まれて動揺する。
アリアの周りにいる人々はみな、困っている人を見捨てるような冷たい人間ではないけれど、腫れ物に触れるようなこの扱いはなんなのだろう。
「みんな、アリア様の味方ですから」
「ジゼル……。シリル……」
視界の端でシリルが頷いている姿が見て取れて、アリアの瞳は揺らめいた。
本当に、自分の身になにが起こっているのかわからない。自分の存在さえ曖昧で、自分がここにいていいのかどうかすら自信がない。
――まるで、亡霊のよう。
「……なにも、覚えていなくて……」
「はい」
震えそうになる唇で、アリアは不安を口にする。
「みんなと知り合った時のことはわかるの。でも、そこに自分がいた記憶がない」
ジゼルやシリルたちとどこで出会ったのかは覚えている。ただ、なぜ、自分がそこにいたのか。なにをしようとしていて、なにをしたのかは記憶が酷く曖昧だ。
靄がかかったように薄ぼんやり覚えている部分もある。だが、ほとんどのことは覚えていない。
――いや、違う。
そもそも覚えているわけでも、記憶にあるわけでもない。この感覚は。
「ただ知識があるだけで思い出がないの」
あとから誰かに、彼らの名前は誰々で、こういう出会い方をしたんだよ。と教えられたことを、自分の記憶として変換しているような。
ただ、知っているだけ。無感動でぬくもりがない。
「……シオン様と結婚してるなんて」
そこでアリアは、目覚めて一番驚いたことを口にする。
シオンが、自分の傍にいてくれることが不思議でならなかった。思わず問えば「夫だから当然」だと聞かされて、あまりの驚きに固まった。
自分は、片想いだったはずだ。
婚約が政略的なものである以上、シオンの気持ちがどうであれ、おいおい結婚することにはなったかもしれない。
けれど、今のアリアは二十歳にもなっていない。いくらなんでも早すぎる。
卒業とほぼ同時に結婚したという現実に、理解が全く追いつかない。
それほど早く結婚したことの意味とは。
「シオン様は、それはそれはアリア様のことを大切に思って、愛してらっしゃいますから」
「……っ」
ふわり、と微笑むジゼルの言葉に動揺する。
なによりも、それが信じられないのだ。
あのシオンが、自分のことを愛している、なんて。
なぜ、そんなことになっているのだろう。
学園で過ごした三年間でいったいなにがあったのだろう。
記憶は酷く曖昧で、シオンとどうしてそんなことになっているのか意味がわからない。
あるのは、断片的な記憶だけ。けれどそれさえ、シオンが近くにいる時にはユーリや別の誰かも一緒にいた思い出で、シオンと二人きりでなにかがあった覚えがない。
「安心なさってください」
きっとシオンが傍で支えてくれるからと言われても、俄には信じがたい。
シオンは、そんな性格だっただろうか。
「……ほんとう……、に……?」
「本当です」
恐る恐る問いかければ即答され、安堵や喜びよりも戸惑いの方が大きくなる。
ジゼルの言葉を信じられたら。信じたい、と思うのに。
「ですから、そんなに不安そうな顔をなさらないでください」
困ったように苦笑するジゼルに、上辺だけの笑顔も返せない。
「シオン様は、誰よりもアリア様のことを愛してらっしゃいますから」
それが、信じられないのだ。
政略的なもので婚姻関係を結んだというのならば理解できる。アリアも、それでいいと思っていた。
シオンにとって重要なものが、アリアの血筋や家柄だったとしても、それを必要としてくれているのなら。
シオンが欲するものを自分が与えることができるなら、それで満足だったのに。
「アリア様は、シオン様のことがお好きなんですね」
「っ」
アリアがもっとも不安に思っていることを察したジゼルが、不安がるということはそういうことだと優しく微笑う。
「そのお気持ちは忘れられていなくて良かったです」
他のなにを忘れても。シオンへの気持ちだけは覚えているのならば大丈夫だと告げてくるジゼルに、アリアの心はさざ波立つ。
――シオン様のことが好き。
その気持ちに間違いはないが、それが「同じ想い」なのかわからない。
忘れていない、という言葉に違和感を覚えてしまうのだ。
「わたしが……、今のわたしたちがここにいられるのは、全てアリア様のおかげです」
アリアを真っ直ぐ見つめてくるジゼルの言葉に、離れた場所にいるシリルが目だけで頷く。
「今日集まったみな様全員が、きっと同じことを思っています」
彼らとの間になにがあったのか、今のアリアはほとんど覚えていない。
みんながアリアに対してそこまで想ってくれるほどのなにがあったのか。
「だから」
柔らかな風が吹き、アリアとジゼルの髪がふわり、と揺れる。
「今度はわたしたちがアリア様を支えます」
「っ」
力強いジゼルの言葉に、なにか後ろめたさのようなものを感じるのはなぜなのか。
自分は、本当にそんなふうに思ってもらえるほどの人間なのか。申し訳なさでいっぱいになるのは、自分に自信がないからだ。
みんなが想っているのは、自分の知らない自分。
今のアリアではないから。
「ご不安な気持ちはわかります」
アリアの気持ちをわかっているのかいないのか、ジゼルは少しだけ笑顔を崩す。
「でも」
ジゼルは、静かに微笑う。
「笑っていてください」
それは、祈りか、願いか。
今のアリアにそれを望むことがどれほど難しいか、自分でもわかっているのだろう。
「いえ、違いますね」
緩く首を振ったジゼルは、力強く笑った。
「わたしたちが、アリア様を笑顔にしてみせます」
「――っ」
わからない。
どうしてそんなふうに言えるのか。
ありがとう、と言うべきなのに声が出ない。
――それは、本当に自分に向けられたもの?
ジゼルたちが見ている相手は、アリアであってアリアでない。
自分ではない、別の存在。
本当にそれはアリアなのか。
「あ」
アリアとジゼルかここに来てどれくらい時間がたっただろう。
なにかに気づいたように声を上げたジゼルに、アリアはジゼルの視線を追って振り向いた。
「お迎えが来たみたいですね」
にこり、とジゼルが迎え入れたのは。
「!」
「アリア」
外廊下からこちらに向かってやってくるのは、冷え冷えとした美貌の青年。
「……シオン様」
シオンは、十二歳の時に親同士が決めた婚約者――、で、今は信じられないことに結婚しているという。
「帰るぞ」
感情の見えない淡々とした声が響く。冷めた瞳も変わらない。
この、周りになにも関心のなさそうなシオンが、アリアのことを「愛している」などとはとても信じ難い。
「……はい」
僅かに躊躇し、恐る恐る頷いた。
ジゼルとシリルの見守るような視線に押され、シオンの元まで歩いていく。
ちらり、とジゼルに視線を投げれば、「大丈夫ですよ」とでも言いたげな優しい微笑みを返されて。
踵を返したシオンの隣に並ぶことはどうしてもできなくて。
アリアは、半歩下がった斜め後ろを歩いていた。
8月1日にTOブックス様より、紙・電子にて書籍が発売される運びとなりました!
書き下ろし番外編も頑張りましたので、お手に取って頂けますと幸いですm(_ _)m