絶望のはじまり 1
あの後。リヒトが消えたことによって魔法が使えるようになり、すぐに消火活動を終えた一行は、すぐに王宮へ転移していた。
扉が開き、そこから現れたシオンとリオ、そしてアリアへ全員の視線が集中する。
そして。
「記憶、喪失……?」
広い来賓室に、ギルバートの声が響いた。
リオとシオンの付き添いの元、別室で医師の診察を受けたアリアに下された診断は、“記憶喪失“というものだった。
「あくまで医者が言うには、だが」
「シオン、様……」
アリアの背中に手を添えたシオンが、ちら、とアリアに視線を投げれば、それに気づいたアリアからは不安気な声が洩れた。
「……わたし……」
「アリア」
怯えるように瞳を揺らめかせるアリアへ、リオの優しい声がかけられる。
「記憶の一部が欠けてしまってとても不安だと思うけど……。大丈夫だから」
だから安心してほしいと告げるリオは、いつも以上に優しく慈愛に満ちている。
「……は、い……」
そうして今にも消え入りそうな雰囲気で頷いたアリアの前に、一歩進み出る影があった。
「リオ様」
「シリル」
それは、アリアが医師の診察を受けている間に王宮へ呼ばれたシリルだった。
アリアの様子がおかしいということで、今、この来賓室には、ルーカスの瞬間移動魔法によって、ゲーム「1」「2」の主要メンバーが集められていた。
「ご無沙汰しております」
リオへ頭を下げたシリルは、そのままアリアへにっこりと微笑みかける。
それからちらりと後方へ視線を投げると、もう一人、横から進み出てくる人物があった。
「よろしければ、少しだけアリア様をお預かりさせていただいてもいいですか?」
「ジゼル」
それは、女性がいた方がアリアも安心できるだろうという気遣いからシリルと共に呼ばれたジゼルだった。
こちらもにこりと微笑んだジゼルへ、リオからはアリア次第だという空気が滲み出る。
「アリア様」
アリアのすぐ傍まで歩み寄ったジゼルは、アリアへ安心させるかのような笑顔を向ける。
「お久しぶりです」
その言葉に、アリアの瞳は動揺したように揺らめいた。
「私のことは覚えてらっしゃいますか?」
詳しいことはなにも知らされていないにも関わらず、ジゼルは優しくアリアへ問いかける。
「え……、えぇ」
「女同士で、ちょっとお庭をお散歩でもしませんか?」
気分転換に。と誘われたアリアは、自分でも自身の置かれた状況がよくわかっていないのだろう。
どうしたらいいのかと交互にシオンとリオへ窺うような視線を向けてくるアリアへ、リオは優しく微笑みかける。
「アリアのしたいようにすればいいと思うよ」
元々アリアはとても賢い女性だ。
周りの空気を読んだのかもしれない。
「……そしたら、少しだけジゼル様とお散歩してきますね」
おずおずと出したアリアの答えに、リオはいつも以上に優しい目を向ける。
「うん。いっておいで」
「はい……」
そうして一同がジゼルにそっと背中を支えられるようにして扉へ向かうアリアの後ろ姿を見つめていると、シリルだけが二人を追うようにしてリオの方へ振り向いた。
「僕もついていきますね」
「助かるよ」
今のアリアを一人にはしたくない。
本当ならば傍にいたい。
それはこの場の誰もが思っていることだが、アリアがいては話せないことが多すぎる。
そんな複雑な想いが絡み合った結果が今の状況だ。
アリアとジゼル。そしてシリルを見送って、その場には重い空気と緊張感が戻ってくる。
「どういうことだ?」
その場の重い空気と同様の面持ちでシオンとリオへ問いかけたのは、一人用の椅子に腰かけたギルバートだ。
「記憶喪失。今のアリアの状態ではそうとしか言えない状況だ」
悔し気な表情で唇を噛み締め、再度医者から下された診断を口にしたリオは、身体の横に作った拳をぎゅっと強く握り締める。
「物や人の名前。日常生活の常識や学校で学んだことや魔法のことも覚えている。ただ」
一通り軽い検査をした結果、日常生活を過ごすために必要な知識や記憶に問題がないことはわかった。けれど、その一方で。
「“出来事”の記憶だけがすっぽり抜けている」
「そんなことが……」
誰もが息を呑む中で、セオドアの瞳が信じられないとばかりに見開いた。
「だが、それが現実だ」
先ほどその現実を突き付けられたシオンは、無感情にただ淡々と状況を説明する。
「オレたちのことは覚えている。だが、どこでどう出逢ったのか、どういった関係性なのかまではよくわかっていない」
一人一人の名前はわかる。その人物がどこの誰で、どういった性格でどんな立場にある人間なのか。そして、自分と知り合いなのかどうかまでは。ただ、その先は。
「その証拠に」
シオンはただただ無表情でじっと一同へ顔を向ける。
「オレと結婚していることをわかっていなかった」
「!」
シオンと夫婦関係にあることを聞いて驚いていたのだと告げられて、全員の胸へ衝撃が走る。
「……そんな、単純な記憶喪失なわけが……」
そう呟きを洩らしたのはルークだろうか。
そこへ。
「記憶喪失なんかじゃない」
「シャノン」
はっきりと断言して強い目を向けたシャノンへ、その隣に座ったアラスターが真剣な面持ちでそれを受け止める。
「俺にはわかる」
他の誰にわからなくとも、シャノンだけは。シャノンにだけ視えるものがある。
「根本的な精神の波動が違う」
――精神感応能力。
アリアの深層心理の波に触れれば、それが今までのアリアと違うことが明らかだとシャノンは言う。
「アレはアリアじゃない。別人だ」
はっきりと言い切ってみせたシャノンへ、その場には再度息を呑む音と重い空気が落ちる。
シャノンが言うならば間違いない。
みながみなそう思うほど、シャノンの特殊能力は特別だった。
「……でも、“別人”て……」
そんなことが起こり得るのかと動揺の呟きを洩らすルークに、シャノンは自分の感覚を口にする。
「身体はアリアでも中身が違う。あえて言うなら多重人格の別人格に近くはある」
アリアの身体がアリアであることには間違いない。
ただ“中身”が違うということは、別人格であるというしかない。
「積み重ねてきた経験で多少性格が変わることはあるだろう。だけど、アレはそういうのじゃない。単純な記憶喪失ではありえない」
シャノンが感じるアリアの精神の波は、単純に性格が変わっただけで変化する類のものではないと告げながら、シャノンは悔し気に視線を落とす。
「……よく、わかんねぇけど」
「シャノン……」
精神感応などという能力を持つ人間は、この世界でシャノン一人だけ。
他の誰とも答え合わせをできない感覚である以上、最適解であっても正解ではないかもしれないとぽつり洩らすシャノンを、隣のアラスターがそっと見守った。
「いったい、なにが起こった!?」
そこで堪らないといった様子で声を上げたのはギルバートだ。
「アレは……。あの時現れた人影は魔王だろう」
アリアの近くで一部始終を見ていたシオンは、その時の様子を分析する。
「なぜ封印を抜け出して現れた?」
封印を解いて現れたというのならば、魔王復活の気配がするはずだがそれはない。
なぜか一瞬だけ封印を抜け出して姿を見せた。そうとしか思えない現象に、リオもまた神妙な面持ちで考え込む。
「アリアとリヒトを連れて行くのかと思ったけど……」
アリアは、リヒトと共に光に呑まれた。
だが、そのまま消えてしまうのかと思ったアリアは、こうしてこの世界に残されている。
――ただ、身体だけが。
きっとそこになにか意味があるのだろうと思っても、答えに辿り着くことはできない。
「異分子な存在だと言っていた」
アリアの言葉を近くで聞いていたシオンは口にする。
「だから、”還らなければ”ならないのだと」
「どういう意味だ?」
ギルバートが訝し気に目を凝らし、その言葉を受けたアラスターは考え込むように口元に手を置いた。
「……“記憶”……」
「アラスター?」
「いや……。“記憶”が関係しているというのなら、アリアが持っていたという特殊な記憶に関係したりしないかな、と……」
単純な記憶喪失ではないとはいえ、アリアが記憶の一部を失っていることだけは事実だ。
だからそこに意味がないわけがないという結論を導き出すアラスターに、こちらも真剣に思い悩むセオドアの目が向けられる。
「だから、”本来の姿”に?」
「それになんの意味がある!?」
アリアに備わっていた“他の誰にもない特殊な能力”は、特別な記憶だ。
本来あるべきではないもの。
それを奪って元の姿に戻ったところで、そこにどんな意味があるのかと声を荒げるギルバートへ、リオが静かに首を振る。
「……わからないよ。なにも……」
自分たちが知らないところでなにが起こっていたのか。
意味がないわけがないことはわかっても、真実を知る術はない。
「わかっているのは、リヒトが消えて、シャノンの言葉を借りればアリアが別人になってしまったことくらいだ」
それだけが、唯一残された現実。
「それと」
だが、そこで、ユーリの強い言葉が響いた。
「アリアはたぶん、全部知っていたんだろう、ってこと」
「ユーリ」
「そうでなくちゃ説明できない」
そう自分の見解を口にするユーリには、誰もが同意見に違いない。
「そうだね……」
少しだけ視線を落として頷くリオに、ユーリがきゅ、と唇を引き結ぶ。
「なにが起こっているのかなにもかも知っていて。この結末をわかっていてこの選択をした」
「アイツはいつもそうだ……!」
ギルバートが握った拳をソファの肘掛に叩きつけ、立ったままのシオンの拳が震えるほど強く握られる。
「……なんとかする」
「あぁ」
悔しさを滲ませた表情でギリバートが頷き、
「してみせる」
「うん」
再度決意を口にしたシオンに、ユーリが力強い目を向ける。
シオンの瞳が、憎々し気に虚空を睨み付けた。
「例えそれが、神の意思に逆らうことだとしても」
お久しぶりの更新で本当に申し訳ありません(土下座)。
忙しくしておりましてなかなか続きを書けずにいるのですが、夏までには完結させるつもりでいますので、どうぞよろしくお願い致します。