終わりの始まり 2
「はい。あ~ん」
フォークに乗せたケーキの欠片をシオンの口元まで運べば、さすがのシオンも苦虫を嚙み潰したような顔をした。
とても王都の中心地とは思えない緑に囲まれたオープンテラスは、隠れ家的な高級カフェの一角にあった。
「冗談よ、冗談」
こちらを凝視してくるシオンの反応に、アリアはくすくすとした笑みを零す。
自分が妙なテンションで浮かれていることはわかっている。それは、この一瞬一瞬を心から楽しもうというアリアの心の現れだ。
「……どうした」
そしてそんなアリアの違和感を敏感に察知したのだろう。今度は訝し気な目を向けられて、アリアは「ううん」と小さく首を振る。
「シオンとこんなデートをしたこと、あまりないでしょう?」
それは事実だ。
出逢った時から“婚約者”で、二人が一緒にいることを周りの誰もが疑問に思わないほど普通のことではあったものの、こんなふうに“普通のデート”をした記憶はあまりない。
いろいろな心情を置いておいても、アリアが浮かれてしまうのは当然かもしれなかった。
「……まぁ、そうだな」
返ってきた楽しそうな答えに納得したのかどうかはわからないが、一応は小さく肩を落として同意の色を見せたシオンに、アリアは相変わらず嬉しそうな笑みを浮かべたまま。
先ほどシオンへ差し出したフォークを自分の口元へ持っていこうと手を引きかけた時。
「え……?」
シオンに手首を掴まれて、アリアは一瞬停止する。
「シオ……」
そのままシオンの顔が手元に近づいてきて、パクリ、と。フォークに乗せられたケーキの欠片を口に含んだシオンの姿に、アリアの瞳はゆっくりと見開いていった。
「……甘いな」
そう言った唇からちらりと覗いた舌先と、艶めく唇の色にドキリとする。
(……う、そ……)
シオンが、こんなことをするなんて。
シオンの性格を考えた時にはとても信じられなくて、動揺と困惑で揺らめくアリアの瞳に、相変わらず表情を変えることのないシオンの綺麗な顔が映り込む。
「どうした?」
「……う、ううん……っ」
恐らく、シオンは、一般的には恥ずかしいこの行為をなんとも思っていない。
どうでもいい、感心がない、と言ってしまえばそれまでだが、だからといって誰とでもするわけではないことは確信が持てるから、相手が自分だからだと思えば嬉しさと恥ずかしさが同時に湧いてくる。
元々食べられればなんでもいいというようなタイプでもあるシオンは、こうした甘いものでさえ顔色一つ変えずに付き合ってくれるところがあった。
それでも。
「オレは、こっちの方がいいが」
「!」
こっち、と。アリアの顎を取ったシオンの指先が意味ありげに唇を辿ってきて、アリアははっと息を詰めると赤くなる。
「シ、シオ……ッ」
求められていることがわからないわけではない。
つい周りの目が気になってきょろきょろしてしまうアリアだが、広々とした空間に距離を取って設置されたテーブル席には数組の客人がいるくらいで、それぞれのおしゃべりに夢中になっていた。
「どうせ誰も見ていない」
「で、でも……」
こんなところでしなくても、馬車に戻れば密室で、それこそ家に帰れば二人きりの時間が待っている。
わざわざ誰に見られるともわからない場所で……、とは思うけれど。
「たとえ見られたとしても……」
どこに問題があるのだと訴えられてますます羞恥に襲われる。
二人の婚姻は公的にも周知されていて、それこそシオンがアリアを溺愛していることなど婚約時代から有名だ。
だからといって、それとこれとは話が別だと思うのだが、シオンにとってはむしろ。
「お前は、オレの妻だ」
世界中に見せつけてやりたいのだと強い瞳に告げられて、抵抗できなくなってしまう。
「シオ……」
もうキスなど数えきれないほどしているというのに、今も、いつだってドキドキする。
「アリア……」
低く甘い吐息で名前で呼ばれ、背筋にぞくりという痺れが流れていった。
そうして静かに近づいてきたシオンの唇に。
「ん……」
アリアはそっと目を閉じて、柔らかなその感触にじんわりとした幸せを感じていた。
*****
ホールケーキの入った箱を片手に、アリアは楽しそうに店の前の道を歩いていた。
「お土産も買ったことだし、次は……」
「……持ったまま行く気か」
音符マークを飛ばしながら次の予定を口にしかけたアリアに、シオンの呆れたような目が向けられる。
「ちょっと覗くだけだから」
「それでも一度馬車に荷物を置いてからにしろ」
ちょっとだけ、と甘えるような上目遣いでシオンを窺えば、冷静な答えが返ってきて、アリアはくすぐったい気持ちを覚えながら素直に笑みを浮かべてみせる。
「……そうするわ」
このまま帰ろうと言われないことが単純に嬉しかった。
シオンはいつだって、呆れながらもアリアの我が儘を叶えてくれる。
その度にシオンに愛されていることを実感し、幸せな気持ちに満たされるのだ。
「ねぇ、シオン?」
ありがとう。嬉しい。幸せ。愛している。そんな想いを込めてシオンの名を呼び、アリアが花のような微笑みを浮かべかけた時。
「!?」
突然鋭い緊張を走らせたシオンがアリアを守るように抱き寄せてきて、手に持ったケーキの箱が傾いた。
「っ、シオン!?」
一体なにが起こったというのだろう。
辺りへ睨むような視線を送るシオンへアリアが驚きの声を上げれば、シオンの口から焦燥の声が上がった。
「ヤツだっ」
言葉と共にポケットから取り出したなにかを操作したシオンの手から、空に向かってのろしのようなものが上がった。
それは、まるで“花火”のように、パーン……ッ、と細く小さな音を空いっぱいに響かせて。
「……え……っ?」
事態についていけずに丸くなったアリアの瞳の端に、人混みに紛れてこちらに向かって走り込んでくる一つの影が映り込んだ。
まだ記憶に新しいその姿は。
「! リヒト……ッ!?」
こちらに向かってくるリヒトの手元でキラリと光るものはなんだろうか。
「……っ……」
ぐ、と息を詰めたシオンはアリアを腕の中に庇いつつ、どこに隠し持っていたのか細身の剣のようなもので、リヒトが繰り出してきた凶器を弾き返す。
「シオン……ッ!?」
金属と金属がぶつかる甲高い音が響き、リヒトの手元から転がり落ちたものへと目を向ければ、アリアの視線の先にある地面の上には、小ぶりのナイフが転がっていた。
「さっすが“1”の“メインヒーロー”。一筋縄じゃいかないな」
どうやら痺れてしまったらしい手首を振りつつ、リヒトは感心したかのうような吐息を洩らしてニヤリと口元を歪ませた。
「せっかく猛毒を仕込んどいたのに」
「リヒト……ッ!?」
傷口から身体に入ればすぐに命を奪うような毒を塗り込めておいたと嗤うリヒトに、アリアの口からは悲鳴にも似た叫びが上がる。
「……なにをしに現れた」
シオンが威嚇するように突き出した細い剣のようなものは、どうやら携帯用の収縮剣、らしかった。
そしてそれを突き付けられたリヒトは、怯むでも身を引く気配も見せるでもなく、ただただ不敵な笑みを浮かべてアリアに手を差し出してくる。
「こっちに来いよ、アリア。アンタがオレのものになるなら見逃してやる」
「……な、にを……」
見逃す、というのは一体なんのことだろうか。
狂気の滲む歪んだ瞳に見つめられ、ぞくりと身体を震わせたアリアの目の前で、リヒトの口の端が残忍に引き上がった。
「でなければ」
その直後。
「!」
リヒトが数メートル先の地面になにかを叩きつけるような動きをしたかと思えば、道行く人々の足元に炎の海が広がって、一瞬にして辺りに恐怖の悲鳴が響き渡った。
「な……っ?」
「魔法に頼りすぎたお前らには“科学の力”なんつってもわかんねーよな」
「!」
この世界の人間にはわからなくても、アリア、にはわかる。
リヒトの、言葉の意味。
「オレには魔力がないからな。コレに頼るしかねーんだ」
なにやらリヒトが手にしたガラス瓶のようなものを目にしたアリアは、かつての記憶の中から知識を引っ張り出し、ごくりと驚きに息を呑む。
アリアの中にある彼女の記憶の中でも、実物を目にしたことはない。けれど、情報の溢れた世界で、知識としてだけならばなんとなく見聞きしたことのあるソレは。
「……“火炎瓶”……?」
「前世の知識様様だな」
まさか……。と洩らした驚愕の呟きに、リヒトは楽しそうな笑みを浮かべてみせる。
「魔法の使えない今のお前らにオレの攻撃は防げない」
例え科学の力があったとしても、物理的な攻撃は障壁魔法で防げてしまう。
だが、リヒトの無効化能力が働いている空間の中においては。
「さて、次はどうする?」
「!?」
そうしてス……ッ、と腕を上げたリヒトの手の中に。
やはり、どこかで見覚えのあるような凶器を見つけ、アリアの瞳はみるみると驚愕に見開かれていった。
「……ま、さか……」
ふいに、点と点が線で繋がれる感覚を味わった。
ジャレッドの言っていた、妙な型や部品や、鉄や鉛の正体。
物自体を知ってはいても、アリアでは絶対に作れない。けれど、その手のマニアな知識がある狂人であれば。
「……“銃”……?」
急速に、喉が渇く。
信じられないものを見つめるアリアの呟きに、リヒトは満足そうな笑みを浮かべた。
「そっ。つっても、威力は全然だけどな?」
威力はちゃちなモデルガンレベルだとは言いながら、リヒトは満面の笑みのまま。
「でも、コイツらへの対抗手段としては充分だ」
その不気味な笑顔はまさに常軌を逸していて、アリアの身体は小刻みに震え出す。
ここは、多くの人々が往来する、王都の中心街にある道の一つ。
いくら威力がそれほどないものとはいえ、こんなところで無差別にそれを発砲されたなら。
今もまだ、アリアの背後では燃え盛る炎を消そうとする人々の悲鳴が飛び交っているというのに。
「あと、こんなんもあったりして」
笑いながら新たに取り出されたものに、アリアは恐る恐る目を向ける。
「……それ、は……?」
「簡単手作り火炎放射器」
「!」
そんなものが、簡単に作れてしまえるものなのだろうか。
それでも情報過多のあちらの世界でちょくちょく“ニュース”に上っていたことを思い出し、アリアはひゅ……っ、と喉を鳴らす。
「どうする?」
「……どうする、って……」
もう、アリアの思考回路は飽和して、リヒトになにを言ったらいいのかわからない。
「ここでこれらをぶっ放したらどうなると思う?」
「――……っ!?」
今、この一帯はリヒトによって魔力の及ばない空間になっている。
だからこそ、背後で広がる炎の海も、水魔法で消すことができずにいる。
魔法が使えないということは、科学の攻撃を防げないことを意味している。
そして、通常であれば作ることのできる結界を張ることも不可能だ。
つまり、アリアにとって、この場にいる人々の命はリヒトに人質に取られたようなもの。
大怪我を負いでもしたら、リヒトの力が及ぶ範囲外に出るまでは、治癒魔法も使えない。
「来いよ、アリア。そしたら見逃してやる」
うっとりとした笑顔で手招かれ、アリアの肩はぎくりと強張った。
「アリア」
そんなアリアを、シオンの腕がしっかりと抱き留めて。
「冷たいなぁ? そこらへんの一般人はどうなってもいい、ってか?」
リヒトがくすくすと残忍な笑みを零した時。
「お前はなにふざけたこと言ってんだよ……!」
辺りに、誰かの怒りに満ちた声が響き渡った。