悪夢の影
※R15です。
ルーカスの瞬間移動でウェントゥス家の新居に戻ったシオンは、すぐさまアリアを拘束していたロープを切り、痛々しいほどのその跡に表情を歪めつつ、身体中に残る鬱血を治癒魔法で丁寧に消していた。
けれど、その間もアリアが目覚める気配はなく、まさかこのまま目を開けることはないのではないかという恐怖に襲われる。
「……アリア……?」
ただ精神力と体力を回復させるために身体を休めているのであれば、その眠りを妨げたくはないが、恐ろしさに耐え切れなくなったシオンからは、窺うような声が洩れる。
「アリア……?」
毎夜二人で甘く濃密な時間を過ごすベッドの上。いつものように優しくその長い髪に触れながら、シオンはアリアの顔を覗き込む。
と……。
「……ん……」
「アリア……!?」
ぴくり、とアリアの瞼が動き、シオンの口からは急くような祈るような焦りの声が上がる。
「アリア……ッ!」
一刻も早く愛しい少女の無事を確認したかった。
そして、早く目を覚ましてその瞳の中に自分の姿を映し込んでほしい。
そう願うシオンの前で、アリアはまたぴくりっ、と睫毛を震わせて……。
「……ん……っ」
うっすらと、その瞳が開いていく。
「っアリア……!」
「…………シ、オン……?」
目の前にあるシオンの顔を認め、一瞬なにがあったのかわからない、というぼんやりとした表情で視線が彷徨った。
そして。
「!? ……ぁ……っ」
一気にその瞳は大きく見開き、白い喉が引き攣った。
「ひ……っ、ぅ……っ!?」
首に手をやり、華奢な身体はカタカタと震え出す。
「!」
「っぃやぁぁ……っ!」
「っアリア……!」
その時のことを思い出したのか、一度認識したはずのシオンの存在を忘れてしまったかのように、アリアは両手で頭を覆って悲鳴を上げる。
「アリア……! 落ち着け……! もう大丈夫だ……! ここにはオレとお前しかいない……!」
「いやぁぁ……っ!」
「アリア……ッ!」
その瞳はもはやシオンを映しておらず、全てを拒絶するかのように首を振るアリアを、シオンは瞬時に掻き抱く。
「アリアッ!」
腕の中へ閉じ込めて抵抗を奪いつつ、そのまま上向かせると強引に口づける。
「ん……っ!? んんん……っ! や、ぁ……っ!」
完全にパニックを起こしているアリアは、今、目の前にいるシオンのことを、一体誰だと思っているのだろう。
「アリア!」
「っ嫌ぁ……っ!」
本気で相手を拒絶し、激しい抵抗をするアリアの顔を、シオンは正面から覗き込む。
「っアリア!」
「……!」
今度はきちんと目が合って、アリアの身体からはハッとしたように力が抜けていく。
「…………ぁ………」
大きく見開かれたアリアの瞳の中に映り込む姿は。
「……シ、オン…………?」
自分を抱き込んでいる相手がシオンだと認識し、アリアは一瞬、きょとん、と不思議そうな表情になる。
「…………ぁ……っ……、っ、ごめんなさい……っ、私……っ」
一体自分はなにをしていたのだろうと、申し訳なさそうに謝ったアリアだが、その顔は再び曇っていく。
「……私……? あの後、どうし……?」
そうして正気になったアリアは、自分の身に起きた記憶を手繰り寄せるかのような様子を見せ――。
「あ……っ!?」
すぐにまた真っ青な顔になるとカタカタと身を震わせる。
「っわ、私……っ、あの後……っ!?」
恐らくは、アリアの記憶は首を締められたところで途絶えている。
つまり、青年の前で無防備に意識を失くしてしまったその先のことは。
「……ひ……」
「っなにもされてない!」
大きく身体を引き攣らせて再びパニックに陥りかけたアリアへ、シオンのきっぱりとした断言の声が響いた。
「……大丈夫だ。さっき、一通りお前の身体は確認させてもらった」
アリアの身体中に残された拘束の痕を消しながら、シオンもまたほっと安堵の吐息を洩らしていたのだ。
首筋に執拗に残された、唇が這わされた痕だろう鬱血だけは怒りが湧いたが、それ以外の場所からは異常は見つけられなかった。
それだけは、本当に不幸中の幸いだ。
――『さすがにちょっと腹が立ったから首締めたら、意識飛ばしちまって』
意識を失うほどの強さで首を締めるなど、下手をすれば死んでいたかもしれない仕打ちにはぞっとするが、それでもそのおかげでこの程度で済んだのだと思えば、アリアの抵抗は正しかったと言えるかもしれない。
「……ぁ……」
「……お前の記憶にないことはなにもされていない」
恐らくは、アリアが気を失ったことにより、それ以上の手出しは止めた。だから大丈夫だと強く諭せば、途端にアリアの瞳には涙が滲んだ。
「……シ、オン……。……ご、ごめんなさい……っ、私……っ」
その反応からは、あくまで怖い体験をしたことへの怯えとシオンへの申し訳なさが見て取れて、みなが想像していた最悪の状況だけは避けられていたことに安堵する。だが、ほっとした分、次にシオンの中に湧き上がるものは怒りだ。
「っ、謝るくらいなら、どうして抜け出したりした……!」
しかも、こんな時に限って、しっかりとペンダントまで外して。
「っ」
びく、と肩を震わせるアリアの反応に、まだ恐怖が抜け切らないであろうアリアを優しく包み込んでやりたいと思うのに、どうしても抑えることのできない怒りに苛立ちが募る。
「……ご、ごめんなさい……」
「オレが……、オレたちがどれだけの思いをしたと思ってる……っ!」
「…………っ」
アリアを守りたい。全員がそれだけを願っていたというのに、あっさりとそれを壊したのはアリアの方だ。
アリアがいなくなったと知った時。シオンをはじめ、みなの心に、どれだけの恐怖が走ったか。
「――――っ!」
ぐっ、とシオンに強く抱き寄せられたかと思うと上向かされ、なにをされるか悟ったらしいアリアの瞳は見開かれた。
「シオ……、ん……っ、んん……っ!?」
そうして有無を言わさず唇を貪れば、アリアの腕はシオンを拒否するかのように伸びていた。
「んんぅ……っ!? んん……っ!」
逃げようとする舌を絡み取られ、口腔内を好き勝手に蹂躙される。
匂いも味も、五感から感じるものは全てシオンのものだけれど、それでも一瞬……、シオンの手が胸元に伸びてきたほんの一瞬、ぞわりとした寒気が背筋を凍らせた。
「シ、オン……ッ、嫌……っ!」
自分に触れてくる手がシオンのものだとわかっていても、身の毛がよだつ。
思い出して……、しまう。
直接胸元に触れてきた、シオンではない……、リヒトの手。あれから自分はどうやって救出されたのだろうかという思いも過るが、今はそんなことを考えられるような余裕はない。
「……ゃ……っ! シ、オン……ッ、っねがい……っ!」
シオンに触れられることが嫌なはずはない。
ただ、その手が……、リヒトのものと重なってしまうことが嫌で嫌で。
「シ、オン……ッ!」
「あの男の痕跡も記憶も、全てお前の中から消してやる」
「!」
驚くほど冷静な声色で、けれどシオンのその瞳は真剣そのものだった。
「っ、い、やぁぁ……っ!」
再び唇に落ちてこようとするシオンのそれに、アリアは抗うように必死で首を振る。
「っされてない……! リヒトにはキスもされてない……!」
されそうにはなった。だが、とにかく必死で抵抗し、自由の効かない身体でがむしゃらに暴れた。「キスをしたら舌を噛み切ってやる」というようなことも叫んだ気がする。その結果リヒトはキスを諦めて、執拗に首筋に舌を這わされたところまでは覚えている。
「……“リヒト”……?」
「あ……」
不審そうに眉を顰めるシオンの反応に、アリアは失言だったかと青くなる。
アリアが以前からリヒトと顔見知りであったことを知られたら、シオンをはじめ、他のみなは今回のことをどう思うだろうか。自業自得だと……、全ては自分の無警戒さが招いた結果だということは、さすがのアリアも自覚している。
「……今はあの男の名前なんてどうでもいい」
だが、そんなアリアにシオンは一瞬不快そうに眉を寄せただけで、アリアの両手を顔の横に縫い留めると、そのまま首筋へと顔を埋めてくる。
「……ぁ……」
否が応でも蘇る。首筋に這い回る、まるでナメクジのような不快な感触。
とにかくリヒトに触れられることが気持ちが悪くて気持ちが悪くて。
拘束されたまま、それでも無我夢中で抵抗して、抵抗して……。
肌に這わされる掌は、まるで身動きのとれない“電車”の中で、悪質な痴漢に合っているかのような、どこまでも恐ろしくて気色の悪い感覚。首筋に吸い付かれた時には、自分を保っていられないほどの悲鳴を上げたような気もする。
ざわざわと身体中に鳥肌が立ち、おぞましくて仕方がなかった。
気持ち悪くて気持ち悪くて。
半狂乱になって抵抗した為、記憶は本当に朧気だが、そこで苛々した様子で舌打ちをしたリヒトに「いい加減大人しくしろ」と首に手をかけられた。
そうしてそのまま首を締め上げられ……。
苦しくて、苦しくて。
指先から体温と感覚が消えていき、そこでぷつり……っ、と意識が途絶えた。
「わ、たし……」
思い出し、アリアは再びカタカタと震え出す。
とにかくそこからの記憶がないのだ。その後リヒトにこの身体をどうされたかわからない。
「大丈夫だ。少なくともそれ以上のことはされていない」
だが、先ほどと同じことをシオンに言われ、アリアの瞳は不安に揺らぐ。
シオンの言葉を疑いたくはないが、アリアのために優しい嘘をついている可能性はないだろうか。なにせ、シオンたちがいつどのタイミングで現場に踏み込み、アリアを救出したのかわからないのだから。
縛り上げられたロープの跡も、残されていたであろうリヒトの痕跡も、しょせん“怪我”である以上、治癒魔法で綺麗に消せてしまう。
「! シオン……ッ! ぃやぁぁぁ……!」
言葉通り、リヒトとの記憶と感触を全て塗り替えようかとするようなシオンの動きに、アリアの口からは拒絶の悲鳴が上がる。
「っねが……っ、いま、は……っ」
決してシオンを拒否しているわけではない。
ただ、シオンに触れられているはずのものが、シオンではないものと身体が勝手に重ねてしまうのが嫌なだけ。
「今でなければ意味がない」
だが、嫌がるアリアの気持ちを全てわかった上で、シオンが行為を止める様子はない。
「死にもの狂いで抵抗して構わない。むしろそうしろ。……お前を凌辱したのは全て……、“他の誰か”でなく“オレ”だ」
「!」
なにもかも塗り替え、アリアに忘れさせるために。
「っぃやぁぁ……っ!」
シオンが嫌なはずはないのに。
勝手に暴れる身体を押さえつけられ、アリアは悲痛な叫び声を上げていた。