面影を花に見て
魔王復活に向け、王宮内にはぴりぴりとした空気が漂っていた。
議会は連日のように開かれ、現王やリオを中心に、公爵家を含む国の最高機関、魔法師団の代表としてルーカスや、前王までもが国の一大事に対する作戦会議に参加し、話し合いは尽きることなく続いていた。
とはいえ、いつ復活しても最速・最大の対応が取れるように準備は整えられ、疲労を溜めることのないような配慮も充分に取られている。
国民に魔王復活の脅威は知らされてはいないが、ここ最近の魔物たちの不穏な動きを受け、いつなにが起こっても冷静に逃げることができるよう、"避難訓練"的なものが何度か行われていた。
いざ魔王が復活した際は、前王を中心に王族が一丸となって巨大な結界を築くことにはなっている。それでも底の知れない魔王の魔力の前では、結界が破られてしまうことも考えられた。国民に被害が及ぶことのないよう、ありとあらゆる対策が、念には念をと取られていた。
そんな中、ユーリは相変わらず毎日王宮へと足を運び、リオと共に封印の強化をしているようだった。これに関して言えば、ユーリからはなにも言わせない空気が漂っており、アリアは見て見ぬふりをする日々が続いている。
誰の為というわけではなく、みんなの為に。
真摯にそう思っていることがわかるから、アリアは素直にその優しさに甘えてしまっていた。
そして、今日も王宮へと足を運ぶユーリを馬車で送り届けた後、別件で用事があるというシオンを待って、アリアは宮殿内の庭園にある小さな湖の畔に腰を下ろしていた。
妖精たちが現れる場所へ行こうかとも思ったのだが、それは自分がいる時にしろと言われてしまい、シオンと共に帰りがけに足を運ぶことになっている。その過保護ぶりはどうかと思わないこともないが、さすがにユーリまで怒らせてしまった以上、アリアも強くは出られない。
水面は陽の光を受けてキラキラと輝き、眠気にさえ誘われてしまいそうな平和すぎる午後の一時。
鳥の囀りに耳を傾け、たまにはこうしてゆったりとした時間を過ごすのも悪くないとアリアが柔らかな吐息をついた時。
「……マグノリア……?」
「……え……?」
ふいに響いた単調な低い声に、アリアは思わず振り返る。
と、そこには大きく目を見張ったレイモンドがどこか茫然と佇んでおり、数秒後、自分の間違えを察したようにそっとアリアから視線を外していた。
「……すまない。なんでもない」
(……あ……)
そう言って遠い何処かに視線を彷徨わせるレイモンドは、一見無表情にも思えるが、よくよく見れば瞳の奥にとても優しい色を湛えていた。
それは、遠い過去を懐かしむかのような。
決して哀しみなどではなく、全てを受け入れ、昇華した後の、慈愛に満ちた瞳。
そんなレイモンドにどんな声をかけたらいいのかわからぬまま、それでもアリアはとりあえず社交辞令のような疑問符を投げていた。
「……今日は、どうなさったんですか?」
おずおずと問いかけば、レイモンドの瞳はすぐにいつもの淡々としたものになってしまう。
「最近はよくこちらにお邪魔している。皇太子とな」
どうやらリオの元へと出向いた帰りがけだったらしい。
魔王封印に関する相談で、精霊王の代表としてよくリオを訪れているらしきことを示唆するレイモンドへと、途端アリアの顔には蔭が差す。
「……いろいろと迷惑をかけてごめんなさい……」
もしかしたら、場合によってはレイモンドだけでなく、他の精霊王たちも妖精界から出てきているのだろうか。妖精界の時間の流れを考えた時には、アルカナ討伐からそれほど時間はたっていないだろうから、全く落ち着くことなく精霊王たちを巻き込んでしまったことにアリアが謝罪の言葉を口にすれば、レイモンドは眉間に皺を刻んでいた。
「……なぜそなたが謝る必要がある」
それは、本当に理解不能だという空気を滲ませていて。
「そなたはなにも悪くないだろう」
「……ぇ……」
アリアは驚いたように目を見開いているが、レイモンドには本当に意味がわからない。
魔王が復活することにこの少女はなんの関わりもなく、平穏と引き換えに魔王が少女を望んだことにも、非があるはずもない。
むしろ。
「……これもまた我々のせいだな」
苦悩の表情を顔に浮かべてレイモンドは静かに呟いた。
魔王は、人間界・妖精界の"共通の敵"。元々は、魔王が復活する度に、互いに手を取り合って討伐していた。それが、人間界と妖精界が断絶したことにより、人間は自分たちだけで魔王を討伐することを余儀なくされた。その為に、どれだけの犠牲を払ったのだろうか。
そうして人間界の魔力が弱まったことにより、いつしか討伐ではなく封印することを余儀なくされて今日に至る。偉大な過去の遺産物も眠ったまま。魔力の弱体化で唯一進化したことといえば、魔力の応用技術くらいだろうか。……とはいえ、それすら絶対的な魔力不足に直面しているけれど。
「……私は、たくさんの罪を犯した」
突き詰めれば、アリアが置かれることになった今の境遇も、二つの世界が交流を絶ったことに起因する。
だから、少女が自分に謝罪をする意味がわからない。
ただ、共に在りたかっただけのことが、多くの犠牲を生み出した。
「こんな私が王を名乗っていてもいいものか……」
「……レイモンド様……」
罪の意識に囚われているらしきレイモンドへと、アリアの切な気に揺れる瞳が向けられる。
過去、良好だった二つの世界の間でなにが起こったのか、アリアには知る術はない。
もしかしたら、ここにいるのが本来の"主人公"であるシャノンだったなら、過去を覗くことができたのかもしれない。
ネロの話から、レイモンドと王女であったマグノリアが恋人同士であったことは窺える。そして、同じ時間を生きることができなかったことも。
想い合う恋人同士が共に生きたいと願ったことの、なにが悪いというのだろう。
「……そなたに会って、指環に光が灯らなかった意味を理解した」
――『……指環は、私の心の奥深くを見抜いてた』
少女を認められなかったネロのことを、当時のレイモンドは恨んだのだろうか。
アリアをみつめながら遠い過去を見ている今のレイモンドからは、少なくともそんな負の感情は感じられなかった。
そこにあるものは、失望……、とも違う、諦めにも似た悟りの気配。
「彼女はとても心の広い、優しく暖かな少女だった」
そう言うからには、悲しみはしてもネロを責めたりはしなかったのだろうと思う。そしてそれは、レイモンドも同じ。
責められることがなかったからこそ、ネロもまた深い傷を負ったままなのかもしれない。いっそ、罵られ、恨まれた方が楽な時がある。
「私は、今でも彼女を愛している」
視線はアリアを素通りし、過去へと想いを馳せたままレイモンドは口にする。
「だが、私たちは間違った」
レイモンドは先ほど"指環に光が灯らなかった意味を理解した"と言った。それはつまり、ネロの苦しみを理解したということになる。
人間とは存在の異なる精霊王。だが、中身はとても人間に近いのだと思わされる。
ある意味純粋な存在だからこそ、悩み、苦しむのかもしれなかった。
「……なにが正しくてなにが間違っているかなんてわかりません……」
苦し気に自分の"過ち"を語るレイモンドへ、アリアは静かに口を開く。
偉そうに語れる立場になどないけれど、ただ、思ったことを言葉に乗せて。
「アルカナのことにしてもそうです」
滅亡寸前にまで追いやられた妖精界。けれど、本当に我が身可愛さだけだったなら、もっと早くに厄災を押し付けることができたはずだ。
それをしなかったのは。
「もし、そのまま妖精界が滅びていたら、人間界はどうなっていたんですか……?」
灰色の枯れ果てた世界になるまで耐えた意味。
妖精たちは純粋でアリアに優しく、精霊王たちも己の責務をよくわかっている。
こうして彼らと接してみてわかったこと。精霊王たちは、例え己が滅びようと、他の存在に脅威を押し付けたりはしないだろう。
ならば、心優しい彼らが、なぜ身を切るような決断を下さなければならなかったのか。
――人間界と妖精界は、隣り合う姉妹世界。
例え関係を断絶しても、互いに切っても切れない存在。
人間界は、妖精界からの助けを得て魔法を行使しているという。
互いに影響し合う二つの世界。
……もし、片方が滅びてしまったら、もう片方の世界も無事ではいられない。恐らくは、急速に終焉の道へ進むのではないだろうか……?
「正しい判断だったとは言えないですけど、私は間違っていたとも思えません」
きっと、あらゆる手段で足掻いたのだろう。最後の最後まで。それでも見つからなかった他の手段に、きっと苦しんだに違いない。
アリアよりもよほど優秀なギルバートのことだ。きっと、その"答え"をとうの昔に導き出していたことだろう。だからといって、犠牲になった両親を前に、許せるはずもなくて。
「……きっと、どうにかしてくれる……。"助けてくれる"って、信じてたんじゃないですか……?」
厄災を押し付けたわけではなく。きっと、人間が自分たちの存在に気づき、助けてくれることを信じて。代わりに厄災を討って欲しいと願って。――人間界に犠牲が出ないことを祈りながら。
「……だが、それは言い訳にしかならない」
相変わらず表情の変化に乏しいレイモンドは、それでも淡々とした口調の中に苦悩の色を滲ませる。
「あの時だってそうだ。我々は……、私は、彼女の生きる世界をただ守りたかっただけなのに……!」
"あの時"というのは、人間界と妖精界が扉を閉ざした時のことだろうか。
苦しい気持ちを吐露するレイモンドに疑問符を投げかける勇気もなく、アリアは黙ってその独白を受け止めていた。
「……こんな結果になってしまった」
きっと、レイモンドは不器用で真面目な性格なのだろう。
「本当にすまない……」
ずっと素通りしていた視線がふとアリアの姿を認め、深い謝罪の言葉が向けられる。
「今の私を見たら、きっと彼女は幻滅するのだろうな……」
そうして再び遠い目となったレイモンドが自嘲気味の笑みを浮かべたのに、アリアは慌てて口を開いていた。
「っそれはないです」
「……な、にを……」
「それだけは言い切れますっ」
戸惑ったように揺れる瞳へ、アリアはきっぱりと断言する。
「レイモンド様が心から愛した、優しい方だったんですよね?」
とてもいい子だったのだと、ネロは苦しんでいた。
指環の残留思念に触れたシャノンも、自分のせいだと悲しんでいると言っていた。
そんな心優しい女性が、心から愛した人を見離したりするはずがない。
「その方が哀しんでいるのだとしたら、それはきっと、こうしてレイモンド様を苦しめてしまったことです」
優しい人だからこそ、レイモンドもその女性も、苦しみ、悲しむのだろうと思う。
故意ではなく、結果的にそうなってしまったことを自分たちのせいにして。
「もう、許してあげて下さい」
自分自身を。
「遅くなってしまいましたけど、扉は開かれました」
過去を知る者は、人間界にはもういない。
妖精界の存在を忘れてしまった人間にも罪はある。
けれど、そんな過去のことを話していても、現在も未来も変わるわけではないから。
それならば、これから先の未来を明るくすることを考えていきたいと思う。
「レイモンド様も……、ネロ様も。もう、充分に苦しみました」
人間は儚い生き物だ。人間たちがすっかり妖精たちの存在を忘れて生きていく中で、彼らはずっと苦しんでいた。
閉ざされていた扉は開かれた。ここから新しい一歩を踏み出していけばいい。
「……そなたは、本当に不思議な人間だな」
僅かに見張られた瞳が緩み、レイモンドからは柔らかな空気が伝わった。
「必ず、魔王を封印すると誓おう」
そうしてそう宣言したレイモンドは、精霊王の中の王として相応しい威厳を醸し出していた。
「……きっと、彼女もそれを望んでいる」
次いで、静かに洩らされた言の葉は、とても優しいものだった。