世界で一つの指環
高級ホテルの一室を思わせるような、落ち着いたベージュを貴重とした大きな部屋。
天井には花と葉を模したシャンデリアのようなランプに、中央には大きな円形をしたガラスケースが置かれており、そこに敷かれた青いクロスの上ではキラキラと眩い光が輝いている。
他にも四角いガラスケースがいくつか置かれ、青い布地の貼られたテーブルセットが一組。完全予約制だろうその店の扉が開かれると、まるで執事のようなかっちりとしたシーツを着こなした一人の男性が恭しく頭を下げていた。
「シオン様、アリア様。お待ちしておりました」
高位貴族御用達の宝石商の責任者である彼は、こちらを構えさせない自然な笑顔でにこりと微笑う。
「どうぞ、こちらへ」
促され、引かれた椅子へと腰かけると、すぐに暖かな飲み物が運ばれてくる。静かに頭を下げて消えた女性を見送ってから、男性は改めてアリアへと笑いかけていた。
「アリア様は、初めてお目にかかります。私はジョシュアと申します。以後、お見知りおきを」
「よろしくお願いします」
場の雰囲気に少しだけ緊張しながら、アリアも頭を下げる。
シオンに対しては「お久しぶりです」と挨拶していることから、初対面ではないことが窺える。当然ウェントス家とも取引はあるのだろうが、シオンが宝飾関係の男性――、ジョシュアと懇意だというのは少しだけ意外な気もした。
「早速だが、見せてくれ」
時間の無駄を嫌うシオンの性格もよくわかっているのだろう。思わずドキリとしてしまったアリアの心中など知るはずもなく、ジョシュアは「はい」とにこやかに頷くと、すでに隣に用意されていた黒いケースを手に取った。
「シオン様のご希望通り、超一流品のみを揃えさせて頂きました」
白い手袋をした手が、次々とケースを開けていく。
「こちらです」
そうして机の上へと所狭しと並べられたものは――。
「どれがいい」
「……どれがいい、って言われても……」
問いかけられ、アリアの瞳は困惑したように揺らめいた。
そう――。今日は、少し前にシオンに言われていた、婚約指輪を二人で選びに行く約束をしていた日だった。
「どれでも好きなものを選べ」
目の前でキラキラと輝く宝石の海へ視線を落とし、アリアは思わず沈黙する。
ジョシュアの先の言葉とこの輝きからすれば、そこには確かに値段も価値も超一流品ばかりが並べられていることがわかる。
"日本人"として"主婦"をしていた記憶はあっても、これまで"公爵令嬢"として生きてきた価値観も確かにある。
ここに並べられたものが全て、その一つで人一人が一生遊んで暮らしても使い切れないほどの金額であることが見て取れても、困惑する程度で身不相応だと物怖じしたりはしない。
だが、しっかりと一つ一つの宝石を見た上で、アリアは気に入ったものがないと緩く首を振っていた。
「……みんな、大きすぎて」
決して遠慮をしているわけではなく、それは率直な感想。
ここにあるものは全て、価値が高いだけのことはあり、アリアの指を飾った時にはバランスが取れないくらいに大きかった。
もちろん貴族たちの中には、かなり目立つ宝石を好んで身につける者もいるが、アリアが求めているのはそういうものではない。
「ずっとつけているなら、なにかする時にも邪魔にならないような、小振りのものの方が……」
シオンから贈られたのならば、逐一外すことなくずっと身につけていたいと思った。となると、大きな宝石はなにかと邪魔になってしまう。さすがにつけたままお菓子作りをすることはできなくても、できる限り外さずに済むものが欲しかった。
「……そういうことでしたら……」
アリアの要望をしっかりと受けとめたジョシュアは、少しだけ考える素振りを見せてから口を開く。
「一つ、小さすぎてご希望に添えるものではないと弾いたものがあるのですが、お持ちしてもよろしいでしょうか?」
金庫で厳重に管理されていると言って、ジョシュアは席を外す許可を求めてくる。
「頼む」
そうして一礼してから部屋の奥へと消えたジョシュアは、数分後、小さなジュエリーケースを手に戻っていた。
「こちらになります」
蓋が開かれ、小振りなダイヤモンドの光が輝いた。
「……綺麗……」
「こちらでしたらアリア様のご希望に添えると思うのですが」
光の屈折を全て計算され尽くした、見事な丸形のラウンド・ブリリアントカット。
その輝きは、テーブルに並べられた大きな宝石と遜色ないほどに美しく、アリアは感嘆の吐息を洩らす。
「はい……。すごく、素敵です」
その輝きに魅入られたかのように洩らされたアリアの呟きに、ジョシュアは満足そうににこりと笑っていた。
「こちらのダイヤモンドは小さいですが、価値としてはここに並べられたものと同等以上のものとなっています」
他のものと比べれば小振りとはいえ、ダイヤモンドの価値としては、大きさは全く問題ない。
「なに一つ欠点のない、完璧な宝石です。これ以上のものを見つけるのはかなり難しいかと」
Carat(カラット=重さ)・Cut(カット=輝き)・Color(カラー=色)・Clarity(クラリティ=透明度)、その全ての要素において世界にまたとない最高品だと言って、ジョシュアは自信に満ちた態度を見せていた。
「そんなに……」
「どうだ?」
そこまで言われるとさすがに気後れしてしまうアリアへと、シオンの淡々とした疑問が投げられる。
「……すごく綺麗だとは思うけど……」
「では、これで作ってくれ」
いくらなんでもそこまでのものは、と悩む気配を見せるアリアに、けれどシオンはジョシュアに向かい、あっさりと即決してしまっていた。
「畏まりました」
「! シオン……ッ!?」
にこりと笑い、こちらも特に驚くでもなく静かに頭を下げたジョシュアに、アリアは思わず隣に座るシオンの方へと振り返る。
「どれでもお前の好きなものを、と言った」
「でも……っ」
真剣そのもののシオンの声色に、それでもすぐには受け入れ難い。
「お前が望むなら好きなだけ贈ってやる。だが、お前はなにも欲しがらない。ならばせめて、後にも先にもこの一度だけでいいから贈らせてくれ」
アリアが本当に気に入ったものを贈りたいと告げてくる真摯な瞳に、さすがのアリアも反論する言葉を持たなかった。
「……シオン……」
それがシオンの本気の想いなのだということが伝わってきて、アリアはほんの一瞬困ったような様子を見せたものの、それでもすぐに仄かな微笑みを浮かべていた。
「……ありがとう……。嬉しい……」
それは、高価な贈り物もそうだけれど、なによりもそこに込められた想いが嬉しいと思う。
シオンの気持ちを疑ったことは一度もないけれど、愛されているのだと、こんな時に改めて実感する。
恐らく、シオン自身は光り物になど興味はないだろう。基本的に誰かの買い物に付き合うような性格もしていない。それでもこうしてアリアを連れて、一緒に選んでくれている。
「では、指環のデザインはどうされますか?」
甘やかな雰囲気を醸し出す恋人同士を微笑ましそうに眺めながら、ジョシュアはダイヤモンドを飾るリングのデザインを求めてくる。
「最近の流行りとしましては、こんな感じのものがございますが……」
最近の主流はダイヤモンドの横に小さな宝石を並べるような形だとアドバイスをくれるジョシュアへと、アリアはそのデザイン画を覗き込みながら悩むような仕草を見せる。
「……むしろ流行り廃りのないオーソドックスなデザインの方がいいです。……おばぁちゃんになってもつけていられるような」
一時の流行に流されることなく、一生変わることのないものを。
アリアの出した結論に、ジョシュアは少しばかり驚いたように目を丸くしながら、さらなるアドバイスを口にする。
「宝石はそのままに、お作り直し致しますが?」
その時々の流行に合わせ、作り替えたリングに宝石を移植することもできるという提案に、アリアは静かに首を振る。
「いいんです。ずっとそのままの方が」
例えダイヤモンドは変わらずとも、デザインを変えてしまったら、どことなく"違うもの"のような気がしてしまう。もちろんそれが悪いことだとは全く思わない。年と共に重なっていく思い出も素敵だろう。だが、今はどうしてもこの時の気持ちをそのまま形に残しておきたいという思いが強かった。
「……愛されていらっしゃいますね」
「――!」
柔らかく細められたジョシュアの瞳がシオンへと向けられて、アリアは思わず赤くなる。
アリアが普遍的なデザインを求めた意味を、ジョシュアはしっかりと理解したらしい。
「お二人のことは噂に上ることも多く、予々耳にしておりましたが、それ以上ですね」
決して揶揄するわけではなく優しい微笑みを向けられて、一体どんな噂が広まっているのだろうと、今さらすぎる疑問が浮かんでしまう。
シオンがアリアを溺愛しているという噂など、それが真実になる前から浸透してしまっていたのだから。
「では、宝石の美しさのみを強調できるような、こちらのシンプルなデザインなどいかがでしょう?」
改めてにっこりと微笑んだジョシュアは、何枚かのデザイン画を捲るとその中の1ページを示してくる。
「指環の輝きが映えるかと」
それは、緩い捻りが入っただけのシンプルなデザイン。
「そうですね……」
主役はあくまでダイヤモンド。いくつかのデザイン画を真剣に覗き込み、アリアはジョシュアとの話に没頭していった。