裏側の事件 6
そのままつけて帰りたいと交渉した設定の流れに逆らえるはずもなく、アリアは耳元に垂れ下がるイヤリングを光らせながら、サイラスの隣に座っていた。
商品の受け取りのサインをし、"あちらの世界"でいう小切手のようなものを用意しかけた時。サイラスはふとなにかを思い出したような素振りで、ペンを持つ手を止めて顔を上げていた。
「……そういえば、鑑定書はないんですか?」
「!」
惚けた風のサイラスが質問を投げかければ、対応している男の目には、明らかな動揺の色が走る。
宝石の類を購入する際は、通常その価値を示す"証明書"が発行されるのが常識だ。例えこのネックレスについたダイヤモンドが安価なものだろうと、証明書がないわけがない。――もちろん、"偽物"である以上、そんなものは存在していないのだろうけれど。
「も、申し訳ありません。忘れておりました。しょ、少々お待ち下さい」
男は慌てた様子で頭を下げ、モルガンたち上司の元へと焦った様子で近づいていく。
冷や汗たらたら状況を説明しているのであろう気配が窺えて、そのまま後方へと下がった後は、ひそひそと怪しい空気で顔を寄せ合い、話し合う。
証明書を出して欲しいと言われても、本物の宝石でなければ出してこられるはずがない。あったとしても、それは偽造されたものだろう。
パーティーはもう終了し、今はアリアたちと同じように宝石に興味を持った数人だけが残っている状態だ。アリアとしては、彼らも偽物を買わされてしまうのだろうかと思うと落ち着いてなどいられない。
サイラスはその辺りをどう考えているのだろうと視線を投げてはみるものの、その横顔からはなにも読み取ることはできなかった。
「申し訳ございません。本日は急なことで、この場での販売を想定していなかった為、置いてきてしまったようでして……」
そんな風に、アリアが一人で悶々としている間にも男が戻ってきて、サイラスへとしどろもどろとした言い訳を口にする。
「後程送らせて頂くのでもよろしいですか?」
挙動不審に窺ってくる男へと、サイラスは難しい顔をして考え込む仕草を見せる。
「……それは、ちょっと……」
「……っ」
安くはない買い物をする以上、保証は欲しいという様子を見せるサイラスに、ごくりと男の喉が鳴った。
「……」
「……」
微妙な空気の中で沈黙が続くこと数十秒。
「……そうしたら、申し訳ないのですが、この話はなかったこ……」
「でしたら、私の証文をお渡してしておくのではご納得頂けないでしょうか」
気は進まない様子を見せながらも決断を下しかけたサイラスへと、割って入る別の男の声があった。
「! モルガン様」
その声に男が驚いたように振り返る中、サイラスの眉間には不審そうな皺が寄る。
「……それはどういうことでしょうか」
鑑定書ではなく、"モルガンの証文"。潜めた表情でモルガンを見つめ返しながら、サイラスの口元が僅かに引き上がる。
「品質が間違っていない旨を、証文にしてお渡ししておきます。正式な保証書もきちんと後日送らせて頂きますので」
「……そういうことでしたら」
そんな妥協案を提示してくるモルガンに、表面上はあくまで渋々という様子を見せているサイラスだが、どことなく滲み出ている気がする「してやったり」という策士の空気に、アリアは思わず乾いた笑みを浮かべてしまう。
モルガンからしてみれば、せっかく引っ掛かった商売客を逃したくないという気持ちからなのだろうが、結果的にその行動はサイラスの掌の上でいいように転がされているだけのことに違いない。
「了承して頂きありがとうございます。お互いいい商談になったようで良かったです」
ほっとした様子で肩を落とし、にこりと笑って頭を下げるモルガンは、とても先日アリアが会った男性と同一人物には思えない。
それからモルガンは、部下らしき男に筆記用具と紙を持ってこさせると、そこに直筆の証文と著名を書き込み、サイラスへと手渡していた。
「これでよろしいでしょうか?」
「……確かに」
差し出された書類を一通り確認し、納得したように頷いたサイラスは、「ありがとうございます」と"接客スマイル"のような微笑みを浮かべてみせる。
それが、自分の思惑通りに動いてくれたことに対する謝礼のように聞こえてしまい、アリアはふるりと背筋を震わせていた。
(……笑顔が……っ! 怖い……!)
もはやモルガンは完全にサイラスの術中に落ちている。偽物の宝石に対して自ら直筆の証明を出すなど、モルガンたちの"詐欺行為"に対するなによりの証拠だろう。
――それだけ、バレることはないという絶対的な自信があるのか、それとも他の考えがあるのかはわからないけれど……。
「では、お代の方を」
その言葉に、アリアは肝心なことを忘れていたと、潜めた焦りの声を上げる。
「っ! サイラス……ッ」
詐欺行為の決定的な証拠を手に入れられたのはいいが、このままでは偽物の宝石に購入代金を払わなければならないことになる。
"彼女への贈り物"の体を取っている以上、ここでアリアが代金を払うことは不審を招く行為だが、さすがにサイラスに払わせるわけにはいかない。ならば後できちんと支払うという意思を見せかけたアリアは、そんなことは始めから承知していたサイラスの、くすりとした悪い笑みを前にして、言葉を噤むざるを得なくなっていた。
「後できちんと取り返すつもりだから気にするな」
「……で、も……」
こっそりと告げられる言葉に、アリアの瞳の表面が申し訳なさそうにゆらりと揺らぐ。
「まぁ、先行投資、ってヤツだな」
くすり、と口の端を片方だけ引き上げながら、サイラスは迷いのない動きで支払いの手続きを済ませてしまう。
「今回は本当にありがとうございました!」
そうして深々と頭を下げた男の前から腰を上げ、サイラスはもうこんなところに用はないとばかりに、アリアの身体をくるりと半回転させていた。
「さて、これで証拠は揃った。帰るぞ」
ひっそりと告げられ、この場を後にすることを促され、大きな瞳は戸惑うようにゆらりと揺れた。
「……でも、他の人が……」
ここには数人、なにも気づかずに偽物の宝石を買おうとしている男女の姿がある。このまま見捨てておけないと揺らぐ瞳に、サイラスの冷たい眼差しが向けられる。
「人のことを気にしてる場合か?」
「……で、も……」
サイラスは充分すぎるほどのことをやってくれている。それはアリアももちろんわかっている。まさかここで、偽物だと騒ぎ立てるわけにもいかないだろう。その結果、大人しく捕まってくれればいいが、モルガンたちがどんな暴挙に出てくるかわからない。最悪、人質のようなものを取られ、犠牲者を出されてしまったら堪らない。――もちろん、そんなことにはさせないけれど。
証拠はもう揃っているのだ。後は、専門の機関に任せてしまえばいい。ここは"確実性"と"安全"を選ぶべき、とは、アリアも頭では理解しているのだけれど。
「アンタは本当に面倒くさい女だな。そんなことにいちいち首を突っ込んでたら、身体がいくつあっても足りない」
今回のことだって、街中で偶々出会った女性を救いたい、というのが始まりだ。それがこんな大きな事件に繋がるとは、その時は思ってもいなかった。サイラスにしてみれば、結果的に"詐欺集団を摘発する"という功績が手に入ると思えば、悪くないと考えて動いただけのことだった。
正直、それ以上のことまで気を回すつもりはない。
「アンタは聖女様かなにかを目指してるのか? 世の中にはもっと悲惨な目に合っている人間も、救われない人間も五万といるんだぞ?」
今、ここで騙されそうになっている数人は、高価な買い物ができる程度には少しは生活にゆとりのある人間たちだ。そのお金がなくなっても困らない、などということはないだろうが、このことで生活が逼迫するわけではない。ならば放っておけ、というのが正直なサイラスの意見だ。
世の中には、もっと生活に困窮している人間も、もっと不幸な人間たちも山ほどいる。そんな人々を全て救ってやりたいと思うなど偽善だろう。
「……それくらいのことは、私だってわかってるわ」
きゅ、と唇を噛み締めて、アリアは小さく俯いた。
多くの人々が暮らしている世界だ。自分の知らないところでたくさんの不幸が起こっているのであろうことくらいわかっている。過去から未来、そして、今この時だって。その全てを救いたいなど、無理だということくらいわかってる。それでも。
「……でも、見て見ぬふりなんて……」
せめて、自分の目の届く範囲、手の届く範囲くらいは助けたいと思うのは、やはり偽善だろうか。
「綺麗事だ」
「っ」
不安定に揺れていた瞳は、きっぱりと言い切られたサイラスの一言に大きく見開かれた。
対し、アリアに言い返す言葉はなにもない。
今の時点でアリア自身にはなにか策があるわけでもなく、完全に人頼みなど、勝手すぎることこの上ない。結局アリアは、周りの人間に助けて貰わなければ、自分自身で誰かを救うことなどできないのだ。
「行くぞ」
「っサイラス……ッ」
強引にアリアを連れ出すサイラスについていきながら、後ろ髪引かれるように、往生際の悪い訴えが叫ばれる。
それにサイラスは額を手で覆い、大きな大きな溜め息を吐き出していた。
「……アイツらはオレたちみたいにその場で商品を購入したわけじゃない。宝石は装飾品として加工されるまで数日はかかるだろうから、今日は契約書にサインをするだけで、代金の支払いは商品受け渡しの時だろう。数日の猶予はある。それまでに片をつければ問題ないだろう」
「……サイラス……」
言われてみれば当然のことなのだが、完全に視野が狭くなっていたアリアには、そこまで考えが及んでいなかった。
アリアと違い、きちんとそこまで考えて行動しているらしいサイラスにほっとした瞳を向ければ、サイラスは苦々しい表情を浮かべていた。
「……本当に割に合わないな」
手柄とはまた別の報酬が欲しいくらいだと呟くサイラスに、アリアは思わず顔を上げる。
「わ、私にできることならなんでも……っ」
本当に今回は、アリアの我が儘のせいでサイラスには迷惑をかけてばかりだ。少しでも報えるならばと声を上げれば、サイラスはあまり期待はしていなそうな表情で肩を落とす。
「……"なんでも"ねぇ?」
だが、必死に食い下がるアリアの大きな瞳を見下ろすと一転し、ニヤリと口の端を引き上げていた。
「だったら、今晩付き合うか?」
「……え……?」
その言葉の意図がわからず、アリアはぱちぱちと瞳を瞬かせる。
普通に考えれば"そういう意味"なのだろうが、サイラスに限ってそんなことはありえないだろう。
「……それって、どぅぃぅ……」
「!」
思わずおずおずと窺ってしまったアリアだが、その時ちょうど擦れ違った男の存在に、サイラスはハッと目を見開いていた。
「……待て」
振り返ったサイラスの低い声に、男がぎくりと足を止める。
「今盗んだもの、返して貰おうか」
「え?」
その言葉に、アリアもまた驚いたように男を見つめていた。