count.2-6 闇の指環
刹那。
ギルバートの命に従うように、聖域中の魔力が真っ直線に掌を翳す指環の元へと集まってくる。
「――っ!?」
「離すな……っ!」
思わずギルバートの手から己の手を離しかけたアリアへと、シャノンの厳しい声が上がった。
「アンタの祈りの力は不可欠だ」
「……シャノン……」
上からぐっ、と手を重ねられ、一瞬驚いたような表情をしたアリアは、すぐにまた目を閉じる。
シャノンがそう言うのであればそうなのだろう。
アリアは闇の魔力を操る術をなに一つ持たないけれど、祈りを捧げることだけならばできる。
――助けて、と。
願う。
――どうか応えて、と。
祈る。
ギルバートは、アリアの為に闇の魔力と向き合ってくれている。
シャノンも、その為に忌み嫌っているはずの能力を使ってくれている。
それらの意味を、アリアもきちんと理解している。
――2人とも、アリアの為に。
辛い過去と向き合って。乗り越えて。
――アリアのことを、大切に思ってくれている。
(ありがとう……)
じんわりと、目頭が熱くなる。
最近、本当に涙脆い。
みんなの気持ちが嬉しくて。
(……お願い、します……)
ただ、ひたすら、祈りを。
「…………っ」
目を閉じたギルバートが奥歯を噛み締め、その表情は苦しげなものになる。
「大丈夫だ……っ!」
シャノンの力強い言の葉がギルバートの背中を押す。
「――――っ!」
ギルバートの口から、声にならない言葉が放たれた。
ぶわりっ!と、ギルバートの髪と服とがたなびいた。
世界から一切の光が消え、本当の闇が訪れる。
ひんやりとした空気が流れ、他にはなにも感じない。
すぐ傍にいるはずのギルバートとシャノンの存在すら曖昧なものになる。
怖くなどないはずなのに、反射的にふるりと身体が震えた。
「ギ……」
ギルバートの名を呼びかけて、もし、届かなかったらと一瞬躊躇してしまうほどの暗闇に口を閉ざす。
だが。
「……アリア」
「っ! ギル……ッ」
その声は確かに届き、指環に翳していた方ではない、もう一方の手がアリアとシャノンの手の上からさらに重ねられる。
「……お前を、遠くになんて行かせない」
「ギ、ル……」
そっと囁かれたそれは、もしかしたらシャノンにも聞こえてはいないかもしれない。
「っ解き放て……っ!」
「――っ!」
シャノンの声が飛び、ギルバートの両の手に力が込められた。
水面に一滴の水が落ちるように静かな魔力の波紋が広がっていき、ぴたりと止んだ。
直後。
「……ぁ……」
天井高くにはオーロラのような光のカーテンが広がり、星のような満天の輝きが瞬く。
足元には、天然の宝石のような色とりどりの光が輝き、壁は幻想的な蒼い光を放つ。
「……これはまた……」
「す、ごい……」
ぐるりと視界を巡らせたシャノンの吐息に続き、アリアの唇からも感動の声が溢れ落ちる。
先ほどまでとは比べようにならないほど綺麗な夜の世界。
「アリア」
ほっとしたような表情をしたギルバートの蟀谷には、しっとりとした汗が滲んでいた。
「……ありがとう」
その、何処か疲れた様子も見える綺麗な顔に、アリアは泣きそうに微笑む。
「成功、したのね」
「……みたいだな」
アリアの言葉にギルバートは頷き、ぐるりと神殿内を見回した。
闇の世界であって完全な闇ではない、まるで遮る光のない天然の夜の世界に紛れ込んでしまったかのような幻想的な世界。
「すごい……」
この美しい世界にか、ギルバートが闇の魔力と向き合い、対話に成功してくれたことにか、アリアの瞳にはじわりと感動の涙が浮かぶ。
「……泣くなよ」
「っ泣いてなんか……っ」
それが恥ずかしくて思わず声を上げれば、
「そんな表情で泣かれるとキスしたくなる」
くすり、と小さな微笑を溢したギルバートの手がそっと伸ばされて、アリアは反射的に身体を震わせていた。
「っ! ギ……」
「いつまで手を握っているつもりだ」
「っシオン」
そこへ、あっさりと重なった2人の手を引き剥がし、手元へと自分の恋人を回収したのはもちろんシオンだ。
「……本当にお前は嫉妬深いヤツだな」
「お前は油断も隙もない」
腹立たしげなギルバートの目がシオンへ向けられ、シオンもまたそれを受けて立つような鋭い視線を返す。
「シオン……」
確かに恋人でもない異性と手を繋ぐという行為はいかがなものかとはアリアも思うが、素直な感動と御礼の気持ちを言葉にする余韻すら許されないそれに、困ったように眉根を下げる。
だが、そんなアリアの訴えにシオンは顔を顰め、苛立たしげに口を開いていた。
「お前は他の男の前ですぐに無防備な表情を晒すな」
「……っ」
そんなつもりは全くないアリアからしてみれば、それはどんな表情だとも思ってしまうが、ここで反論することは許されないに違いない。
「そ、んなこと……」
ちゃんと、シオンのことを想っている。
向けられるその独占欲も、むしろシオンに与えられた当然の権利だと思っているし、愛されていることを実感して嬉しいとも感じてしまう。
「私……」
だから、シオンが心配することなどなにもないと言いかけて。
「とりあえず痴話喧嘩は後でもいいかしら?」
ご馳走様。と呆れたように向けられた視線に、思わず顔へと熱が籠る。
「せっかくの感動も半減しちゃうわ」
「っネロ様」
相変わらず綺麗な指先を頬に当て、小さな吐息を吐き出してから、ネロは天空を仰ぎ見た。
「……まさか、本当に言うことを聞かせちゃうとは思わなかったわ」
静かな感嘆を洩らしながら上空を見上げるネロの瞳は、懐かしそうな、愛おしげな、嬉しそうな色に満ちていた。
「……愛の力は偉大ねぇ?」
「っネロ様……っ」
そうしてアリアからギルバートへと意味深な視線を移しながらからからように笑われて、アリアの頬へと朱色が走る。
「……ありがとう」
暖かな双眸がアリアたちへと向けられた。
「まさか、こんなにも早くこの光景を見られるようになるとは思ってもいなかったわ」
再度ゆっくりと周りを見渡して、ネロの瞳が優しく細められる。
闇は、破壊と再生を司る。まさに、一瞬にしてその光景を目の当たりにしたようだった。
それからネロは黒光りする石の前へ行き、そこに埋め込まれた指環を取り出した。
「はい」
「……あ?」
振り向き、にっこりと差し出されたそれに、ギルバートの眉が訝しげに顰められる。
「渡しておくわね」
「は?」
ギルバートの意思を聞くまでもなく、ネロは勝手にその手を取ると、掌へと指環を握り込ませてしまう。
「この子も気紛れだから。仲良くしてあげて」
「はぁ!?」
すっかりいつもの調子を取り戻したネロからハートマーク付きのウィンクを投げられて、ギルバートは反射的に身体を震わせながらすっとんきょうな声を上げる。
水、風、火、土、と。確かに魔力を取り戻した指環は、そのまま人間界へと貸し出されている。
魔王封印の要にもなる指環。その時が来たならば、最大級の威力を発揮して貰う必要がある。つまりは、その時の為、より一層闇の魔力との距離を縮めておく必要があると言われてしまえばそれまでなのかもしれないけれど。
「……彼女を、助けたいんでしょ?」
「…………」
ひっそりと告げられた疑問の言葉に、ギルバートは沈黙する。
そんな重要な指環を引き続き持たされるなど自分の身には不相応だと思ってしまうが、ネロのその瞳には逆らえない想いが込められていた。
――全ては、彼女の為に。
ギルバートの行動の根底は、その想い一つに尽きる。
「……わかった」
それならば預からせて貰うと、親指へと黒曜石からできたような艶めく指環を嵌めたギルバートは、直後、耳の横を風が通りすぎたような感覚にふと背後へと振り返っていた。
「っ痛……っ!?」
「! アリア!?」
直後、後ろに髪を引っ張られるような体勢になったアリアの口から小さな悲鳴が洩れ、シオンの瞳が驚いたように見張られる。
「っ、またコイツかっ」
なにかに気づいたシオンがソレをアリアの髪から引き離すと、そこには一匹の小さな妖精の姿があった。
『は・な・せぇ~~!』
小さな首根っこをシオンに摘ままれたその妖精は、ジタバタと暴れて宙を何度も蹴り上げる。
それに苛立たしげに眉を寄せ、自分の顔の前まで持ち上げたシオンへと、ネロもまたその悪戯妖精の顔を覗き込んでいた。
「こらっ。ちゃんと謝りなさい」
『っなんでだよ!』
「好きな子を苛めたいとか、子供っぽい愛情表現をするんじゃないの……っ!」
ネロは男性ではあるものの、まるで"肝っ玉母ちゃん"のような貫禄で腰に手を当て、妖精へと説教を口にする。
「「……"好きな子"……?」」
どうにも聞き逃すことのできないそのセリフに、シャノンとギルバートの声が綺麗に重なったが、それは綺麗に無視される。
『そんなわけないだろっ! こんなブス……!』
そうして小さな悪戯妖精がお怒りモードでビシ……ッ!と指し示してくるのに、さすがのアリアも一瞬呆気に取られてしまう。
「……ブス」
一応は公爵令嬢という高貴な身分柄、今までそんな悪口を向けられたことは一度もない。唖然とその単語を反芻したアリアを横目に入れながら、ネロは綺麗に整えられた眉を引き上げていた。
「女の子に向かってそういうことを言わないのっ!」
『……ふん……っ』
王からの説教にも、反抗的な態度を崩さないその妖精は、ツーン、とそっぽを向いてしまう。それにますます顔を顰めたシオンは、ぼそりと低く口を開く。
「……やっぱり煮込むか」
「っシオン……ッ!」
それは、先日。鍋にでも入れてやろうかと発言した続きだろう。
本気でやりかねないシオンのその呟きに、アリアが咎めるような声を上げれば、ネロからはやれやれと困ったような深い溜め息が落とされていた。
「……後でよく言い聞かせておくから、とりあえず離してやって貰えないかしら?」
『離せぇ~!』
シオンへと解放を求めるネロの嘆息にも、悪戯妖精はひたすら手足をジタバタと暴れさせる。
反省もなければ謝る気配すら見えない困った我が子に、ネロは厳しい目を向けるとぴしゃりと言い放つ。
「アンタは後でお説教よ」
『っなんでだよ!』
「それがわからないなら余計よ」
前回と違い、ここでは姿を消すことができないのか、それともネロからなんらかの制限をかけられているのかどうかはわからないが、シオンの手から逃れられずにネロの目の前で吊り下げられた妖精は、睨むような目付きで文句を言うと頬を大きく膨らませていた。
と。
『っ! うわぁぁ~!?』
ぽい……っ! とシオンが後方へとソレを投げ捨てたのに、アリアの瞳が大きく見開かれる。
「っシオン……!」
「飛べるんだ。これくらい平気だろう」
そんなアリアへ、全く悪びれる様子もなく、シオンは軽く手を払うと苛立たしげに肩を落としていた。
「……本当にごめんなさないね」
「い、いえ……」
申し訳なさそうに謝ってくるネロに、癖の多い妖精が集まっていると言っていた言葉を思い出し、アリアは闇の聖域を治めるのは大変そうだなと苦笑する。
「……とりあえずは送るわね」
これ以上の時間の経過はよくないだろうと気遣いを見せるネロは、困ったように微笑んでから、今度は優しい笑顔を浮かべていた。
「本当にありがとう」
確かに低いその声は男性のものに違いないが、所作は女性よりも女性らしいもので、赤い唇が優雅に引き上げられる。
「このお礼はまた改めてさせて貰うわね」
「……いえ……」
にっこりとした笑顔を向けられて、アリアはその役目は自分ではなくギルバートだと首をふるふると横に振る。
そんなアリアへ柔らかな視線を送っているネロは、それを理解しているのかいないのか、さらりと金色の髪を掬っていた。
「また、遊びに来て頂戴」
決して社交辞令ではない真摯な瞳。
「……っはい」
それにアリアは応えると、柔らかな微笑みを返していた。