count.2-5 闇の指環
満天の星空、とまではいかないものの、"プラネタリウム"に足を踏み入れたような夜の世界には、地下空間らしいひやりとした空気が肌に触れてくる。
「……す、ごい……」
足元には、それぞれ異なる色の光を放つ七色の発光石。
壁一面をぼんやりとした光で覆っているのはヒカリゴケだろうか。
宙には時折蛍の光のようなものが舞い、恐らくその正体はこの聖域に棲まう妖精たちのように思われた。
「綺麗……」
先ほどよりもさらに幻想的な雰囲気の増した"神殿"の光景に、アリアの口からうっとりとした吐息が洩れる。アリアは確かに"腐女子"だけれど、誰よりも"夢見る乙女"だという自覚もある。
だから、瞳を輝かせ、素直な感動を口にしたアリアへと、ネロの自慢気な微笑みが向けられていた。
「でしょう? ここは何処よりも美しい場所だわ」
恐らくは、他の精霊王たちの前でそれを口にしたのなら、己の神殿が一番だと言い合いになるかもしれないが、寡黙なレイモンドしかいない今、この場でネロのそのセリフに口出しする者はいない。ただ、レイモンドの顔が、無言のまま顰められていたかもしれないけれど。
「光の下で生きる者にとって、闇は恐怖の対象かもしれないけど、アタシは誇りに思っているわ」
瞬く光が美しく見えるのは、そこに闇があるからだ。
光のない世界を人間は怖がるが、闇はなにをするでもなく、誰もに平等にそこに在るだけ。
「闇の力はね。全てを受け止めてくれるとても優しいものなのよ」
胸を張ったネロが誇らしげに微笑んで、ギルバートへと真っ直ぐな瞳を向ける。
「だから、きっと大丈夫よ」
その言葉に、ギルバートの指先がぴくりと反応した。
「少なくともアタシは、アンタたちを気に入ってる」
ギルバートを見、アリアを見。それからその横や後方にいるシオンたちへと顔を向けたネロの言葉は、とても頼もしいものだった。
「ここに立って」
そうしてネロは、広い洞窟の最奥に在る、黒曜石のように黒々とした光を放つ大きな直方体の前へとギルバートを促してくる。
「貴方はすでにアタシから闇の祝福を受けてる。アタシは祈ること以外なにもできないけど……」
ギルバートが初めて妖精界へと訪れたあの日。アルカナとの契約が切れたその瞬間、ネロはギルバートへと強制的に闇の魔力を与えていた。
レイモンドが導き、四人の精霊王たちが各々アルカナの四肢を縫い止める中、闇の精霊王であるネロだけは、ギルバートのサポート役に回っていたのだ。
それでも今回のこの件に関してはなにもできることがないと、そうギルバートへと真摯な瞳を向けるネロは、確かに"闇の精霊王"の顔をしていた。
「……どうか、指環に魔力を」
腰の高さほどまである真っ黒な石の表面にはなにかの紋様が描かれ、その手前部分にはちょうど指環が納まるような小さな穴が空いていた。
自然と導かれるようにその穴へと指環を戻し、ギルバートはその上からそっと掌を触れさせる。
「……あぁ」
一つ大きな深呼吸をしたギルバートの瞳が、そっと閉ざされていた。
遠く王家の血が流れているかもしれないと言われても、そんなものはもうかなり薄れてしまっている。ギルバート自身の魔力量は、五大公爵家の人間に比べれば遥かに劣ることだろう。
それでもギルバートがそれに渡り合えるほどの力を発揮できていたのは、後天的に得た闇魔法があったからに違いない。
闇魔法は、普通の人間には持ち得ない特殊なものだ。
だから、ここでのギルバートの失敗は、彼女の未来へ大きな翳りをもたらすことになってしまうかもしれない。
闇の魔力を持つもう一人の存在――、ルーカスは、確かに天の才を持ち得ているが、純粋な闇の魔力を比べた時には、ギルバートの方が上を行く。さらには、ルーカスの闇の魔力は、妖精界ではなく人間界のもの。
――全ては、ギルバートにかかっていると言ってもいい。
そう思えば、緊張感から身体が上手く動かなくなってくる。
少し前までは、怖いものなどなにもなかった。失うモノなどなにもなく、ただ、1日1日を空虚に生きてきただけだった。それが、今は。
失いたくないものを見つけてしまった。
それが、とても恐ろしい。
失敗を恐れたことなど、一度もなかったというのに。
セオドアが、火の魔力を操り、指環に力を与えるところを間近で目にした。
五つの宝玉も、彼女の手を借りながらも集めることができた。
ならば、この指環に本来の輝きを取り戻させることもできるはずだ、と思う。
「…………」
指環に手を翳し、闇の魔力へと神経を研ぎ澄ます。
ひんやりとした空気の流れ。その中に、確かに闇の魔力が揺蕩うているのがわかる。
ゆらゆらと、水面に落ちた葉が揺れるような静かな流れ。
だが、それらを集めようと腕を広げるイメージをしても、伸ばした手はただ空気を掴むだけで溶けて消える。
まるで、靄を掴もうとしているかのように、それは儚く溶けていく。
とても、自分の思うような流れを作ってくれるとは思えない。
「……ダメ……、か……?」
やはり、自分には力が足りないのだろうかと思う。
あの瞬間まで、身に余る大きな闇魔法を使うことができていたのは、全てあの魔物が自分をサポートしてくれていたからだ。
親の仇。絶対に許すことなどできない憎い相手。
そんな相手に、ずっと助けられていた。そして、今度は闇の精霊王に。
それは、ネロなりのギルバートへの贖罪なのだろうと思う。
けれど、そんなことで得た魔力は、ギルバート自身のものではないから。
「……オレには、力が足りない、か……?」
ギルバートの唇が、悔しげにギリリと噛み締められる。
こんなところで諦めることなど絶対にできない。できないけれど、どうしたらいいのかわからない。
指環は、ギルバートへとなにも語らない。それが、答えなのかもしれないと思ってしまう。
お前には過ぎる力なのだと。
「……大丈夫だ」
と、横から伸びた手がギルバートのそれに重ねられるのに、絶望に歪みかけた瞳が大きく見開かれる。
「っお前……っ」
「なにぐだぐだくだらねーこと考えてんだよ」
らしくない。と冷ややかな視線をギルバートへと向けたのは、絶対的存在である"主人公"・シャノンだった。
「……アリア」
「え?」
「ちょっと手ぇ貸せ」
どことなく不機嫌そうなシャノンに目で呼ばれ、アリアはおずおずとギルバートたち2人の方へと近づいた。ちらりと横目でシオンを見れば、顰めた顔ながらも、アリアたちの行動を止める様子はもちろんない。
ぐい……っ、と問答無用に引かれた手。
「シャノ……ッ」
「いいから」
ギルバートの手の上に重ねられ、その上からシャノンが掌を置き、3人の手が重なった。
シャノンが、"触れる"という行為が示す意味。
「俺の特殊能力は魔法じゃねーから魔力とは関係ない」
精神力が削られることも、充分疲労の蓄積に繋がるが、魔力を放出し続けることよりはまだマシなはずだと思う。
過重負担を起こして倒れたとしても、シャノンとしては構わない。結果的に、正しい未来へと導くことができるのならば。
「悪いと思うのならさっさと終わらせろ」
強気な口調でそう言って、シャノンは全神経を指環の意思へと傾ける。
「……お前の望みはなんだ?」
ギルバートへと問いかける。それは、指環の代弁だ。
「…………っ」
シャノンと意識を重ねるべく目を閉じたギルバートは、ぴくりと指先を反応させる。
そんなものは決まっている。
――彼女を、助けたい。
――魔王の元になど行かせない。
ただ、それだけだ。
「だったら恥も外聞もかなぐり捨てて願えばいい」
偉そうなその物言いに、一瞬怒りが沸き上がる。
そんなことは、とうの昔にやっている。
彼女を助ける為ならば、なんだってしてみせる。失くして困るものなどなにもない。
「……その為に、生命を賭ける覚悟はあるか?」
「――っ!」
――試されている……、と、そう思った。
シャノンが告げる言葉は、指環からの問いかけ。
その願いの為に、自分がどれだけのことができるのか。
「……賭ける覚悟はあるが、それはしない」
普通はここで、命を賭けるべきなのだろう。
ギルバート自身は、それでも構わないと思ってしまう。きっと、誰もがそう思っている。
だが、それではダメなのだ。
「それじゃあ意味がない」
誰かが犠牲になることで救われても、彼女は喜んだりしないから。
それどころか、一生泣いて過ごすことになる。
そうやって、一生彼女の心に残ることができるのならば、それでも構わないかと歪んだ想いも抱きつつ、けれど、それではダメなのだ。
例え、この手に入れることができなくても。
その笑顔を守りたい。
「オレの望みはもっと大きなものだ」
命だけを助けたいんじゃない。
彼女の未来を――、花が綻ぶように微笑む、その柔らかな心を守りたい。
「「……随分と欲深いな」」
頷きながら告げられるシャノンのその苦笑は、自分も同感だという意思が込められていた。
「……そうだな」
苦笑いでギルバートは肯定する。
「……いつの間にか、欲張りになってた」
彼女に救われて、欲張りになった。
諦めることを止めることにした。
もっと貪欲に。欲しいものは欲しいと手を伸ばすことにした。
きっと、彼女は。彼女自身を求めることを除けば、その手を取ってくれるから。
――自分のものになってはくれないことだけが、とても悔しいけれど。
「感じるだろ?」
シャノンの言葉に、気づかされる。
「闇は、平等だ」
その言葉は、感覚に鋭いシャノンだからこそのもの。漠然としていて、意味はよくわからない。それでも。
なにもない闇の世界は人間に恐怖を与えるが、闇はなにもしたりはしない。ただ、そこに在るだけ。
「お前は知っているはずだ」
幼い頃は、暗闇が怖かった。
それこそ、両親を失ったあの日は酷い雨と強風で、真っ暗な世界に雷が光っていた。
闇を、心地いいと感じたことはない。
けれど、いつしか恐れなくなっていた。
それは、"大人"になったからか、闇を操る術を覚えたからなのか。
あれほど憎んだ両親の仇から与えられた力を、いつしか当たり前のように使っている自分に、反吐が出そうになったことがある。それなのに、その憎い力で大切な彼女を助けたこともあるかと思えば、自分は一体なにを憎んでなにを願っているのかわからなくなってくる。
――否、憎しみなどというものは、彼女を前にすれば綺麗に消えてしまう程度のもので。
そんなことで彼女を助けられるなら、他のことなどどうでもいい。
なによりも憎かった。恨んでいた。
そう、それは、過去の話。
許す、許さない、などはもうよくわからない。
ただ。
自分を絶望の底に陥れた闇の力。
それを、憎むのではなく。
――力に、変えろ。
今度は、人の未来を奪うのではなく。
――助けて、みせろ……!
闇は、恐れるものではない。
それを使役する者によって絶望にも希望にも変わるものだというのなら。
――力を……!
望みは、ただ一つだけ。
その為ならば、なにを犠牲にしても構わない。
だから、なにも犠牲にしない。
「……闇は、平等、なんだろ?」
言葉に、辺りに漂う闇の魔力がぴくりと反応した気がした。
「……お前は、オレの未来を奪った」
神殿内の――、否、聖域中の魔力がギルバートの出方を窺うように緊張感を走らせる。
「だったら、今度は返せ」
返る沈黙の意味するものは。
「……オレの、望みを叶えてくれ」
最後のそれだけは祈るように。そっと語りかけるように目を閉じて意識を額に集中させる。
「……ギ、ル……」
隣から小さく聞こえた少女の呼びかけにくすりと口元が緩む。
重ねられた掌の暖かさに。その指先がぴくりと反応したのに、胸の中へは柔らかな想いが沸き上がる。
「聞け……!」
ザ……ッ!と聖域中の魔力がざわめいた。
混沌としていた闇の魔力が、瞬間、張り詰めたような空気を醸し出し、ギルバートの命を待つように静かになる。
「……応えろ……っ!」