紅き月の日
平穏な日常生活が続く中、これが束の間の平穏だと知っているアリアは、一人考え事をしながら放課後の廊下を歩いていた。
(このまま無事に済むなんてことはないわよね……?)
あの日以降、なにかと理由をつけてはちょくちょく隣の教室へと顔を出し、少女の動向を窺っていた。
そして、今のところは特に変わった様子はみられない。
かなりの頻度で隣の教室へと通っているせいか、益々アリアとシオンの噂が熱を上げていくことには頭が痛いが、この際構ってなどいられない。
おかげで、毎度例の少女から突き刺さるような視線を向けられているのだが、それ以上の変化を感じとることはアリアにはできなかった。
(……リオ様ならわかるかもしれないけど……)
すでに魔族が少女に接触しているのかどうか。光属性の優れたリオならばわかるかもしれないが、彼女がターゲットにされる恐れがあることを知っているのはアリアだけだ。
それをどんな説得性を持って伝えたらいいのか、アリアにはわからない。
残された時間はきっと多くはない。どうしても気ばかりが焦っていく。
昼間の学園内であるならばまだしも、それ以外の行動にまで目を光らせてはいられない。魔族が少女に接触してきたとしても、アリアにそれを知る術はない。
唯一の救いは、彼女が学園内にある寮に入っていることだろうか。よほどのことがなければ敷地内から外へ出ることはないだろう。
(寮にはゲストルームがあるって聞いたけれど……)
放課後は自宅へ戻らなければならないアリアは、夜まで少女の監視をしてはいられない。
残された方法は、アリアも寮に泊まることだ。
(友人とパジャマパーティーをしたいから、なんて、許してくれるかしら?)
心配性の家族の顔を思って、アリアはそんな言い訳を考える。
この世界にパジャマの概念はない為、それはあくまで言葉のアヤだが、それだって一日二日が限界だろう。連日外泊するわけにもいかない。
(そういえば、ここって……)
ふと覚えのある少しだけ懐かしい場所に出て、アリアは廊下の向こうを覗き込む。
この先に進めば、魔法講師専用の部屋がある。
(そういえば、ルーカスを見かけないわよね……?)
入学式さえ、名前の紹介だけで本人不在だった為、未だに学園内でルーカスを見たことはない。
学園に入れば会う機会も増えるかと思っていたのだが、忙しいという言葉は思った以上のものだったらしい。
「……ここでなにをしている」
「シオン」
と、ふいに影が差したかと思うと耳慣れた低い声が聞こえ、アリアは背後に立つシオンへと顔を上げる。
片手に本を抱えているところを見ると図書館にでも行っていたのだろう。シオンがよく図書館へ足を運んでいることは"ゲーム"の中でも語られていた。
「ルーカス先生を見かけないな、と思って」
偶然ね、と声をかけ、アリアは再度廊下の向こうへと視線を投げる。
「わざわざ行く必要もないだろう」
「でも……」
薬作りにはかなりお世話になったとルークから聞いている。多忙にも関わらずきちんと約束を守ってくれたことには感謝の言葉しか浮かばない。
MPポーションとHPポーションが完成した後は、その影すらさっぱり見かけなくなってしまった為、正式な御礼も顔を見て言えていない状態だ。
とはいえ、会えばそれが挨拶かのように口説かれる為、まともに話ができるかどうかといえば疑問ではあるのだけれど。
「……アリア」
なにを思ったのか廊下の向こうへと歩き出したアリアへ、シオンの咎めるような声が放たれる。
「少し覗いてみるだけよ」
「……」
入学以来、相当忙しいのか、学園に来ている気配もない。
だからどうせ不在だろうと、なぜか半分だけ空いたドアの向こうを覗き込み。
(……うそ……っ!?)
そこにあった光景に、アリアは目を見張っていた。
「オレ、男ですけど?」
「美しいものに性別なんて関係ないと思わない?」
室内で交わされる確かな声。
(ルーカスの初対面イベントー!)
そこにあったのは。
壁際まで追い詰められ、顎を取られた状態でその顔を覗き込まれているユーリの姿。
その細い指先が妖しげにユーリの頬を滑り……。
「……覗き見は感心しないね」
腕の中へユーリを納めたまま、顔だけがアリアたちの方へと向けられていた。
「だったらドアくらい閉めておけ」
もはや敬語すら忘れたらしいシオンの慇懃無礼な発言がルーカスに向かって放たれる。
しかしルーカスはそんなシオンの無礼な態度など気にも留める様子もなく、
「やぁ、アリア嬢。久しぶりだね」
あっさりとユーリから身を離すと、にっこりとした笑みをアリアへと向けていた。
「はい。先生も……、お元気そうでよかったです」
相変わらずですね、と苦笑いを溢しながら、アリアは室内へと足を踏み入れるとユーリの元へと足を運ぶ。
大丈夫?と声をかけながらユーリの様子を窺おうとして。
「少し会わない間に大人っぽくなったね」
手を取られ、指先へと軽いキスを落とされる。
「もう"子供"だなんて言わないよね?」
流れるような動作で腰を取られ、顎を持ち上げられると至近距離から真っ直ぐ顔を覗き込まれる。
途端、ぴり……っ、とした空気が室内を震わせて、
「……相変わらずお姫様には騎士がついているのかな?」
アリアの腰を取ったまま、くすり、と楽しそうな笑みを部屋の入り口へと向けていた。
「いえっ、たまたまそこで会って……」
別段一緒に行動していたわけではないと言い訳して、アリアはルーカスの胸を押し返す。
一度ルークの家で遭遇して以来、ほんの時折ルーカスが顔を見せる時には、いつも偶々シオンも居合わせていた。だからそのことを言っているのだろうと思えば「騎士」発言もどうかと思って否定の方向へと首を振る。
と。
「アリアはシオンの婚約者だぞっ!?」
ぐいっ、と強引にアリアとルーカスを引き剥がしたのは、自らも先ほどルーカスの毒牙にかかりかけていた美少女な少年だった。
「……ユーリ……」
婚約者、と主張したユーリへと、そこは忘れてくれていいんだけどね?と本気で願いながら、アリアは困ったような微笑を浮かべてみせる。
その庇い方は、正直少し切ないものがある。
二人が婚約者同士などという事実は綺麗さっぱり忘れて、ユーリには是非ともシオンと愛を育んでもらいたいのだから。
「生憎と、そういった細かいことは気にしない主義なんだ」
「な……っ?」
アリアから離れろと、きゃんきゃんと威嚇する仔犬のようなユーリに、ルーカスはにっこりと微笑みかける。
さらりと返されたその言葉にユーリはしばし絶句して、
「大体なんなんだ、この人……っ!」
「お前は喧嘩を売るな」
お前の魔法能力なんて、こいつの爪先以下だ、と呆れたような口調で吐き出された低い声に、キ……ッ!と訴えるかのような瞳を向けていた。
「シオンっ!」
「シオン……」
そーゆー問題じゃない!と反論するユーリと、そんな言い方しなくても、と曖昧な笑みを浮かべるアリアの双方をさりげない仕草で自分の後方へと庇うシオンに、ルーカスは再度にっこりとした笑顔を貼り付ける。
「両手に花で羨ましいね」
「なんだよそれっ」
オレは花じゃない……!と訴えるユーリは、自分の美少女顔にコンプレックスを持っている所以だろうか。
「……ユーリ」
「僕には双子の姉妹がきゃっきゃっとしているようにしか見えないんだけど?」
お前は少し黙っていろと言いたげなシオンに向かい、ルーカスが同意を求めるかのようににこりと微笑んでみせる。
シオンはそれをあっさり無視し、
「そういえば、師団長に昇格したそうで」
おめでとうございます、と、とてもそう思っているとは思えない態度でルーカスへとお祝いの言葉を述べていた。
「どうもありがとう」
こちらも本音ではない雰囲気を滲ませて言葉を返すルーカスに、アリアはそういえばそうだったと思い出す。
少し前にルーカスは、"ゲーム"通り、歴代最短・最年少で魔法師団長に就任していたのだ。
「……師団長……?」
その肩書きになにか思うところがあったのか、ユーリが眉根を潜めてルーカスの顔をまじまじと眺めやる。
それにルーカスは、「うん、そうだよ?」と笑みを見せ、
「僕も君のことは知っているよ?」
ユーリ・ベネット?と意味深に目を細めると、
「僕が個人レッスンしてあげようか?」
と、再び妖しげな色香を浮かばせる。
(……そういえば、これをキッカケに魔法の指南を仰ぐようになるんだっけ……)
"ゲーム"の展開を思い出し、アリアは心の中で独りごちる。
性格に難ありとはいえ、ルーカスは最高の魔道士だ。"ルーカスルート"であればもちろん、そうでなくとも、魔法のレベル上げにルーカスの存在は欠かせないものだった。
「今夜は素敵な満月だよ?」
一晩どう?と再度ユーリを口説き始めたルーカスに、アリアはハッと息を呑むと目を見張る。
「……満月……?」
うん、そうだったはずだよ?と返されるルーカスの言葉はもはやアリアには届かない。
思い出す。
月夜に浮かぶ、大きな満月。それが不気味に紅く染まって……。
少女は、悪魔の手を取り、契約す――。
(今夜だわ……!)
"ゲーム"の中で、一瞬だけ映し出された契約の場面。
(もう、時間がない……!)
そう気づいてしまえば、ルーカスに改めて礼を言うことを忘れていたことも忘れ、アリアの思考は目まぐるしく動き出していた。
*****
(とりあえずは寮への宿泊申請をしないと……!)
今夜、少女を監視するなら、同じ寮内にいた方が得策だ。
そう考えて急ぎ行動に移そうとするアリアの背中へと、慌てて追いかけてきたユーリの呼び声がかけられる。
「アリア……!」
ちょっと待ってよ、と。いつの間にか早足になっていたアリアへと追い付いて、ユーリはじろりとした目をアリアに向けてくる。
「……アリア。またなに考えてるの」
言い逃れを許さない、真っ直ぐな瞳。
「ユーリ……」
それに困ったような顔をして、アリアはどうしたものかと微笑を溢す。
(……さすがユーリ。鋭いわね……)
人のちょっとした感情の変化に機敏で敏感。
素直で正義感の強いユーリの最大の武器の一つ。
すぐ騙される性格をしているくせに、こんな風に肝心な時にはちょっとやそっとでは誤魔化されてはくれないだろうユーリを思って、アリアは瞳を揺らめかせる。
「……シオンに言う。それから、セオドアにも」
「ユーリ……っ」
恐らくはシオンも気づいているはずだと語るユーリの言葉は、とても嘘には思えない。
気づいていて。否、気づいているからこそ、ユーリのように問い詰めてきたりはしないのだろう。
「でも、そこまでで後は黙っててやるから」
いつになく真剣なその眼差しから逃れることは許されない。
その申し出に、アリアの瞳が不安定に揺れ動く。
「ユー、リ……」
「だから、教えて。なにをする気なのか」
止めてもムダだとわかっているから。それならば協力させろと続けるユーリに、アリアは小さな笑みを溢す。
「……ユーリはカッコいいわね」
「な……っ?」
瞬間、真っ赤に染まるユーリの顔。
このユーリの真っ直ぐな性格に、みんな魅了されていくのだから。
元より、自分一人で全部解決できるなど、そこまで自分の力を過大評価していない。
絶望に身を沈めてしまう人を助けられるのなら、自分の力のなさを嘆くよりも、求められるところには助けを求める覚悟もある。
だから、アリアは迷わない。
こんな自分に、手を差し伸べてくれるというのなら。
「満月の……、特に赤い月の夜は、魔の血が騒ぐって聞くから……」
嫌な予感がして。
と、全てを語れずとも不安を口にして。
頼れる存在があることに、この上ない安心感が胸を満たしていた。