"ゲーム"本編のその裏で
方角的に一緒に帰路に着いたユーリとサイラスと共に歩いている時に、その悲鳴はアリアたちの耳へと響いてきた。
「ッジェシカ……!!」
子供のものと思われる名前を女性が叫び、どさ……っ、となにかが地面に落ちる音がした。
「ジェシカ……! ジェシカ……!」
その声に視界を巡らせれば、とある2階の店の前から、顔面蒼白になった女性が階段をかけ降りてくる姿があった。
そして、長いスカートの裾を翻した女性が慌てて向かうその先には。
「大丈夫ですか……!?」
階段下。5、6歳に見える少女がぐったりとした様子で倒れ込んでいて、アリアは思わず駆け寄っていた。
「か……、階段から落ちて……」
手首と首元にはレースのついた、深緑色のレトロなワンピース。30歳前後程の茶髪の女性は、身体を小刻みに震わせながら意識のない子供の前で膝で折る。
「ジェシカ……?」
「っ見せてください……!」
母親と色違いに見える赤いワンピースを着た子供は、ぐったりとした様子で明らかに顔色が悪かった。だが、思わずそう言ったはいいものの、アリアに医学の知識はまるでない。これがただの怪我であれば、治癒魔法をかければ済む話ではあるけれど。
「……幸い、頭は打ってないみたいだな。これなら回復魔法ですぐに治癒できる」
「よかった……」
アリアの横で膝をついたサイラスが、少女の身体を簡単に観察して下した判断に、アリアはほっと胸を撫で下ろす。
「さすがサイラスね」
一度頭に障害を負うと、例え怪我そのものは癒えても後遺症が残る恐れがあるのは、この世界も同じだ。もちろん"魔法"のあるこの世界では、かける回復魔法が高度であればその可能性はほぼないけれど。
「……これくらいの知識はたいしたものじゃない」
充分たいしたものではあるけれど、"ゲーム"の"攻略対象者"の"ハイスペック"ぶりはさすがだと、アリアはこの場にサイラスが同席してくれていた偶然に感謝する。
「……」
少女の胸元へと手を翳し、治癒魔法を展開させる為に目を閉じる。
「手伝う」
と、ユーリが横から手を伸ばしてきて、アリアは柔らかな微笑みを浮かべていた。
「ありがとう」
アリアの治癒能力も上位クラスだが、"主人公"であるユーリの光魔法は規格外だ。
額に意識を集中させ、掌へと治癒の力を紡ぎ出せば、淡い光が少女の小さな体を包み込むように広がっていき、数秒後にはその表情は落ち着いて、頬へと赤みが差していた。
「っ! 貴女方は……っ」
階段を後から降りてきた中年の男性が、アリアたちの姿を認めて驚いたように目を見張る。
身なりとしては、茶系で統一された上流階級のラフな装い、といったところだろうか。
「……この子を助けて頂き、ありがとうございました。……アクア家のご令嬢のアリア様とお見受け致しますが……」
少しだけ焦ったように頭を下げた男性は、ちらりとアリアの顔を確認すると恐る恐るといった様子で窺ってくる。
「はい」
それに何処か奇妙な違和感を感じながら頷けば、男性はまるで顔を見られては困るかのように視線を逸らし、表情を帽子の影に隠していた。
「……少々先を急いでいるもので、御礼はまた後日改めてさせて頂きたいと存じます」
「いえ、そんな……」
「では、申し訳ありませんが、私は先に失礼させて頂きます」
3人の関係はよくわからないが、子供の傍で跪く女性へとチラリと視線を投げ、男性はそそくさとその場を後にする。
「ぁ……」
どんな声をかけるべきか一瞬困惑している間に踵を返してしまった男性へ、アリアは遠ざかっていくその後ろ姿を呆然と見送ってしまっていた。
「……なんか、嫌な感じ」
ぽつり、と洩らしたユーリの呟きは、アリアも感じた印象を正しく言葉にしていた。
身内かただの顔見知りかは知らないが、いくら無事を確認したからといって、怪我をした子供を置いてさっさと行ってしまうとはどういうことか。
「ご迷惑をおかけして申し訳ありません……っ。本当にありがとうございました」
こちらは半分泣きそうになりながら幼い身体を抱きしめて、女性が深々と頭を下げてくる。
「……大丈夫ですか?」
「はい。ご心配おかけして申し訳ありません」
万が一のことがあったらと、よほど恐ろしかったのだろう。女性が僅かに身体を震わせているのを見て取って、アリアは静かにその顔を覗き込む。
「よろしければ、家までお送りしましょうか?」
「とんでもない……!」
大通りまで出れば、アクア家の馬車が停まっている。少し寄り道をするくらいなんの問題もないと提案すれば、女性は慌てて首を振っていた。
「そこまでして頂くわけには……!」
「でも……」
「怪我も治して頂いて……。少し休めば大丈夫ですから」
自宅はそう遠くないと告げられて、アリアもそれ以上のお節介をするわけにもいかずに引き下がる。
「そう、ですか……」
「はい。本当にありがとうございました」
男性も言っていたように、御礼は後日改めてと何度もお辞儀をされれば困ってしまう。
「では、お大事になさってくださいね」
「はい……」
そうして後ろ髪を引かれる気持ちを残しつつ、アリアはその場を後にしていた。
「……本当に落ちたんだと思うか?」
小さくなった2つの人影へと振り返り、眉を顰めたその問いかけに、アリアは表情を曇らせる。
「サイラス……?」
「……打撲の跡。明らかに時間がたってるものが混在していた」
「! それって……」
全身を見たわけではないが、少なくとも袖を捲って見えた腕の打撲はそんな印象だったと、サイラスは眉間の皺を深くする。
「落ちたのは間違いなくとも、突き落とされた可能性はある」
もしかしたら、それは故意のものではなかったかもしれないが、結果的に不慮の事故からのものではなく、人為的なものが絡んでいるかもしれないというのがサイラスの推測だった。
「母親の方も、この季節にあの長袖は明らかにおかしいだろ」
日焼け防止の為に薄手のショールを羽織っている貴婦人たちはいるものの、その場合、洩れなく日傘を差していたりする。少し動けばまだ汗が滲むこの時期に、薄手とはいえ長袖のロングスカート姿は違和感を感じると告げるサイラスに、ユーリもまた眉を顰ませる。
「……つまり?」
「日常的にあの男に暴力を振るわれている可能性がある」
「――!」
導き出された結論に息を呑む。
「……あの人、アリアのことを知ってたみたいだけど……」
「そりゃ大抵の貴族は知ってるだろ。公爵家の人間なんて超有名人だ」
声を潜めたユーリの問いかけに、サイラスは大きく肩を落とす。
つまり、サイラスのその物言いは。
「モルガン、だったか? 男爵家の。 確か、2、3年前に爵位を継いだ」
しっかりと相手の身分を把握しているところはさすがの一言というしかない。
「あまりいい噂は聞かないな。代替りしてから財政状況は火の車だと聞いたこともある」
「……そんな……」
淡々と告げられる現実に、アリアの胸へはズキリとした痛みが走っていく。
全ては推測の域を出ないものの、生活がひっ迫していることを原因として、あの母娘が暴力を受けているかもしれないなどと。
「……気になるか?」
「っそれはもちろん……っ」
冷静に向けられた双眸に、アリアは苦し気な表情を向ける。
けれど。
「アンタは今は他人の心配をしてる場合じゃないだろ」
「でも……!」
至極最もな答えを返され、けれどこのまま放っておくこともできないと瞳を揺らめかせる少女へと、サイラスはなにか諦めたように肩を落とす。
「だから、この件はオレに任せてアンタは週末のことでも考えてろ」
「……え……?」
その、深々とした溜め息に、アリアは一瞬呆気に取られたように大きく目を見張る。
「アンタは本当に面倒くさい女だな」
やれやれ、と視線で空を仰いでから、再度アリアの顔をみつめ直す。
「この件はオレが引き取る。不満か?」
真っ直ぐ向けられたその瞳に、アリアが反論などできるはすもない。
「そんなはず……」
「だったら、アンタは余計なことに足を突っ込むな」
そんな場合じゃない、という強い気持ちを滲み出すサイラスの咎めは当然の主張だろう。
「サイラス……」
捻くれた性格だとしても、やはり最終的にサイラスは優しい人間だ。
"策士"である彼ならば任せてしまってもきっと大丈夫だろうとほっと吐息をつきかけたアリアだったが、
「まぁ、後でそれなりの見返りは貰うがな」
「!」
ニヤリ、と口の端を引き上げたサイラスはサイラスらしすぎて、思わず苦笑が零れてしまう。
「……ありがとう」
静かに微笑んだアリアへと、サイラスの深々とした了承の溜め息が洩らされていた。