count.5-3 風の指環
指環を前に、シオンが風の感覚に神経を研ぎ澄ませているのがわかった。
祠の中は無風のようでいて、当然空気は流れている。
時折ふわりと肌を撫でる風の流れはどこから来ているのだろうかと考えて……、その中心に指環の存在があることを知る。
架空の生き物を象った彫刻の口から吹き出す小さな竜巻。それを下から掬うような仕草でシオンの両手が伸ばされると、幻の龍は蜃気楼のように空気の中へと掻き消えた。
広げられたシオンの両の掌の上で、小さな竜巻はくるくると指環を踊らせる。だが、その手がそっと竜巻を包み込むように閉ざされていくと、少しずつその勢いは小さくなっていき、シオンの左右の親指が触れ合う頃になると、完全に姿を消した風の中からぽとりと指環が落下していた。
手の中に舞い落ちた指環の姿を確認するかのように少しだけシオンの親指が離されれば、そこには確かに微かな鈍い光が存在していた。
「……不思議な感覚がする」
手の中の指環をみつめ、シオンが静かな呟きを洩らす。
「なにか、語りかけられているような感覚だ」
指環には、自らの意思があるのだと聞かされてはいても、漠然と理解できずにいた感覚を実感する。
凛とした魔力を感じ、その感覚に誘われるままに、シオンの瞳が閉ざされる。
――願いと、祈りと、魔力。
幼い頃から風に触れてきたシオンだが、その存在は当たり前すぎるもので、今まで強く意識したことはない。
だが、それを、ここではとても強く感じた。
愛し、愛されるのだとアリアは口にした。
願えば、叶えてくれるのだと。
ならば、愛する少女の為に力を貸して欲しいと願えば、風は応えてくれるのだろうか。
強い願いを胸に、シオンは神殿から祠へと広がり、聖域中に満ちる風の流れを感じ取る。
風は、不思議な存在だ。
水や陽の光がなければ生まれない存在だというにも関わらず、人々の生活に根付いている。
風化、風格、風情、風景,風流,風土。
「風」の付く言葉は多く、人々が古来から風と共に在ったことを示している。
鳥は、風がなければ空を飛べない。
宙を舞う植物の綿毛は、風がなければ遠くまで飛んではいけない。
時に優しく、時に狂暴に。
微風は多くの生き物たちの心を和ませるが、鋭い鎌鼬はナイフのような凶器となる。
風の力によって上空へと運ばれた水は雲になり、風によって運ばれ、いつしか恵みの雨となって降り注ぐ。
もし、鳥のように空高く飛び上がって地上を見下ろすことができたなら、様々な風と出会うことだろう。
暖かな空気を運ぶ風に、冷たい空気を運ぶ風。それらは、季節を呼んでくる。
狂暴な台風に、旋風。
海の上では、風の力によって進む船を見かけることもあるかもしれない。
そんなシオンの感覚に同調し、アリアの頭の中にも様々な光景が思い起こされる。
この場では、アリアだけが知る風の力。
くるくると回る手作りの風車はこの世界でも子供たちを喜ばせる玩具だけれど、アリアの頭に思い浮かぶのは、風の力で回る大きく白い"プロペラ"だ。
風の作り出す"電力"は、なによりも環境に優しいもの。
風のエネルギーを羽根で受け、軸や歯車を動かす大きな風車は、この世界にも存在する。この原理を利用して、揚水や小麦粉などの製粉に用いられている。
落ち葉を舞い上げる冬の木枯らしに、夏の恐ろしい台風。春一番の後には、緑の草木を優しく揺らす暖かな風。
季節の折々の風の姿は、アリアの頭の中にまで映像となって浮かび、内なる風の魔力を呼び起こされる。
(シオンと、一緒に……!)
ルーカスのように上手くサポートできるかどうかはわからないが、シオンの半歩後ろから、アリアは祈るように指を組む。
(……お願い……!)
神殿に流れる魔力――、否、聖域中の魔力をシオンが動かそうとしているのを感じ、アリアは組んだ指にぎゅっと力を込める。
「……っく……」
シオンの蟀谷にも力が入り、そこから一雫の汗が浮かぶ。
己の持ち得る魔力を聖域全体に浸透させ、少しずつ手元へと引き寄せるイメージを作っていく。
「……風よ……!」
シオンにしては珍しく、その口から言霊が放たれた。
「我に、力を…………!」
ぶわり……っ!と風が舞う。
聖域中に吹く風が小さな旋風となって大きな縦穴へと集まってくる。
それが、一つの凶悪な竜巻となり、空に向かってごうごうと唸りを上げるのに、その恐ろしい風の音がアリアの耳へと響いてくる。
「シオン……」
「大丈夫だ。信じろ」
髪もスカートも大きく舞い、このまま祠の中にまで侵入されたなら、とても無事ではいられない。
『しょうがないなぁ……』
『アリアの為だもんね』
その声は幻聴だろうか。
大きな風の唸りは細く鋭い渦巻きとなって、一直線にシオンに向かってくる。
祠の中へと物凄い音を響かせながら、その風が指環へと吸い込まれていく。
そうしてその暴力的なまでの風がぴた……っ、と止んだ時には。
そこには、驚くほどの静けさが広がっていた。
「っ! 聖域中が無風に……!」
信じ難い気配を感じたように、ゼフィロスの口から驚愕の声が上がる。
風の聖域から風が失われる光景など、二度と見たくない悪夢に違いない。
けれどそれは、水の指環を手にした時と同じ現象だった。
なにかに促されるかのように、神殿に背を向けたシオンが、祠の外へと歩いていく。
そうして横穴の淵に立ったシオンが、指環を天空の下へと差し出したその瞬間。
指環から、天空を突き抜けるような風と共に眩い光が昇っていき、ぶわり……っ!と大きく風が凪いだ。
「……聖域が……!」
縦穴からは、アリアたちが祠へ来た時とは比べようにならないほどの激しい上昇気流が立ち上ぼり、ひゅうひゅうと音が鳴る。
シオンの手の中では、指環が本来の姿を取り戻した聖域の様子を喜ぶようにキラキラと輝いている。
プラチナ色の、シンプルな煌めき。
「……シオン……」
「……アリア」
振り向いたシオンに誘われるように傍へと歩いていく。
「……よかっ、た……」
指環へと魔力を吹き込めたことはもちろんのこと、シオンが自身の生命力を削るような事態が起こらずに済んだことに、アリアは心から安堵の色を浮かばせる。
安心感から、思わず涙ぐむアリアの華奢な身体を、シオンはそっと抱き寄せる。
「お前の為なら、どんな不可能も可能にしてやる」
「……シオン……」
真摯なその言の葉に、アリアは小さく目を見張り、シオンへとそっとその身を預けていた。
「……君の望みは、彼女を助けることかい?」
その想いだけでこれほどの奇跡を起こせるのかと、ゼフィロスはシオンを窺った。
――人間という存在は、とても儚く、そして強い。
人間の身だからこそ成し得た指環の輝きに、ゼフィロスの切れ長の双眸が細められる。
彼らの何処に、こんな魔力があるというのか。
「……いや、少し違うな」
大人しく肩を抱かれている愛しの少女をチラリと見遣り、シオンがそう否定の声を上げたのに、アリアはゼフィロスをみつめて小さく微笑んだ。
――シオンは、アリアの望みをきちんとわかってくれている。
「……私……。まだ、みんなとお別れしたくない……、死にたくないんです」
"別れ"という曖昧な言い方ではなく、"死"をはっきりと口にしたアリアへと、ゼフィロスの瞳がハッと大きく見開かれる。
アリアが告げたその言葉の意味を、ゼフィロスも正確に理解しているのだろう。
「……今回のことで新しい出会いもあって……。ラナ様とも、約束したんです。クッキーパーティーしましょうね、って」
その"新しい出会い"の中には、目の前のゼフィロスも含まれていることを、彼はわかってくれるだろうか。
別離の決意をするどころか、ますます別れたくない人が増えてしまった。水の精霊王であるラナとは、楽しい未来の約束まで交わしている。きっと、いい"友人関係"を築けるのではないかと思う
「大好きな人たちと、まだまだいっぱい笑い合いたいし、楽しい時間を過ごしたい」
あのまま流れてしまったけれど、いつかはきちんとシオンと結婚したいと思っているし、2人で過ごす幸せな未来も思い描いている。「1」の彼らとはまた楽しく過ごしたいし、シャノンたち「2」の彼らとはもっともっと仲良くなりたいと思っている。
続編の精霊王たちとだって、ギルバートを囲んで全員で和やかに微笑い合える日が来ることを望んでいる。
「私一人の為に、大勢の人を不安にして、迷惑をかけていることはわかってます。これは、私の我が儘で、」
「ッアリア!」
酷く申し訳なさそうに下ろした手を組んだ指先に、きゅっと力を込めるアリアへ、シオンからそれ以上を言わせない声が飛ぶ。
「っ、命あるものが、生きたいと望むことは当然の理だろう?」
それにゼフィロスも息を呑み、僅かに表情を歪ませる。
「……ありがとうございます」
なんだかんだとやはり優しいゼフィロスに小さく微笑い、アリアは真っ直ぐな目を向ける。
「……だから、迷惑であることはわかっていても、協力して欲しいんです」
「――っ」
迷惑、と言われたゼフィロスが一瞬奥歯を噛み締めた理由はわからない。
けれど。
「……お願いします」
「……っすっかり君に餌付けされた妖精たちが、これからも"焼き菓子"が食べたいと騒いでる」
丁寧に頭を下げたアリアから、ゼフィロスは苛立たしげに目を逸らし、そんなことを口にした。
「食べられなくなったら煩そうだ」
「……それ、は……」
完全に"餌付け"状態だということはアリアも思っていたが、改めてそれを口にされると複雑な気持ちになってしまう。
決してそんなつもりではなかったのに、手作り菓子を求めて、いつの間にか妖精たちはアリアに懐いてしまっていた。
「いいよ。協力してやろう」
不遜な態度で鼻を鳴らし、相変わらずの上から目線でゼフィロスはアリアを見下ろした。
それからシオンを指差して、睨むような目を向ける。
「その代わり覚えておけよ? 僕はまだ君のことを完全に認めたわけじゃない」
これは、元々のゼフィロスの性格的問題なのか、それとも同性に嫌われがちなシオンゆえの、2人の相性の悪さから来ているものなのか。
「その指環は貸しておいてやるから、せいぜい魔力を磨くんだな……!」
どちらにせよ、"パターン"も"パターン"なその台詞回しに、こんな場面でダメだと思うのに、一瞬目を丸くしたアリアは、つい堪えきれずに吹き出しそうになってしまう。
本当ならば、きっとここで締め括られる場面のはずなのに。
「……どうしてそこで笑うんだ」
「……い、いえ……」
案の定、不快そうに向けられる半眼に、アリアは口元を緩めたままゆるゆると首を横に振る。
「ゼフィロス様とも、お友だちになれたら嬉しいなぁ、と」
なんとなく、シオンやギルバートと言い合いながらも友人関係を築いていきそうな予感がして、アリアは楽しそうに笑う。
"ゲーム"の中で、そんな一枚絵があったとしても不思議じゃない。
「……君の恋人は、頭にお花畑でも咲いてるんじゃないのか?」
なぜかうんざりとした様子で向けられた瞳に、シオンの顔が顰められる。
「……アリア」
「……ご、ごめんなさい……」
反射的に謝ってしまったアリアへ、シオンは苦々しそうに嘆息する。
「……そういう意味じゃない」
「……え?」
どうしてこの少女はこう無防備なのか。
相変わらず先が思いやられると、シオンは軽い頭痛を覚えていた。