逃避行
自宅までの道程は長く、その間アリアはずっと兄を説得し、馬車を引き返すことを訴えていたものの、アレクシスは一切聞く耳を持たなかった。
アクア家に着く頃にはすっかり回復したアリアは、アレクシスに引き摺られるような格好で屋敷の中へと連れ戻されていた。
「お兄様……!」
なにやら玄関の方が騒がしい気配を醸し出しているのに気づいたのだろう。パタパタと顔を覗かせたアリアの母親は、我が子2人の姿を認めて驚いたように目を丸くする。
「アレクシス?」
一体なにごとかと瞳を瞬かせ、それからアレクシスに腕を取られている娘の方へと顔を向ける。
「……アリアちゃん?」
婚約者と共に出掛けたはずの娘が、なぜ息子とここにいるのだろう。否――。
「アリアを連れ戻してきました」
「連れ戻す、って……」
アリアがシオンに誘われて小旅行に出かけたと聞いた瞬間、確かにアレクシスは「連れ戻す」と言って家を出ていった。だが、本当に連れ帰ってしまうなどとは思ってもいなかったアリアの母親は、怒りに肩を尖らせた息子の姿に困惑したような表情を浮かばせる。
「いつの間に婚姻届にサインなんて……! 一体なにを考えているんです……!」
「それは……。アリアちゃんの卒業を待って、って……」
「だとしても、まだ一年も先の話でしょう……!」
結局はシオンの熱意に絆されてサインをしてしまっていたらしい両親に、アレクシスは早計すぎると身体を小刻みに震わせていた。
「お兄様!?」
とりあえず母親と話をすることは後回しにして、アレクシスはそのままアリアを自室まで引っ張っていく。
そうしてアリアを部屋の中へと押しやるとドアを閉め、内側からは開くことができないように強固な施錠魔法をかけていた。
「お前をここから一歩も出すつもりはない。しばらく大人しくしていろ」
「お兄様……っ!!」
部屋の壁を境にして、四方を結界で張り巡らされた気配がした。
無理矢理破ることは可能かもしれないが、その瞬間アレクシスに気づかれて、どちらにせよ逃げ出すことは許されないに違いない。――もっとも、そこまでしてシオンの元に行く必要があるのか、アリアにはよくわからなかったけれど。
(……ただの旅行、よね……?)
家族の反対を押し切ってまで旅行を強行することも、学生の身で結婚することも、アリアの本意では決してない。認められていないならば、大人しく兄の言うことを聞いておくべきだろうとも思う。
ただ。
――『頼むから、今すぐなにも聞かずにオレと結婚してくれ』
何処か追い詰められたような、苦しげなシオンの叫びを思い出す。
そこまで強くアリアとの婚姻を望むということは、なにか理由があるのではないだろうか。
それならば、今すぐここから飛び出すべきなのか。
(……どうしよう……)
閉められた扉の前で呆然と佇んで、アリアは見えない答えにぐるぐると頭を巡らせていた。
*****
ココン……ッ!
「……アリアちゃん?」
それからしばらくして扉が叩かれ、軽食を持ったアリアの母親が顔を覗かせた。
「……お母様……」
その背後には、監視するかのようにアレクシスも立っていて、30分後に扉を開けに来ると告げて去っていく。
「ごめんなさいね。もうすぐお父様も帰ってくるはずだから……。そうしたら、さすがにアレクシスも部屋から出してくれると思うから」
もう少しだけ我慢してね?と申し訳なさそうに微笑むアリアの母親は、今日に限って大分帰りの遅い父親へと困ったように肩を落とす。
緊急議会が開かれることになったと告げて出ていったから、なにか大事が起こっているのかもしれないと思えば、それはそれで心配なことでもある。
だが、今は目の前の問題が先決だと、アリアの母親は娘へと困ったような微笑みを向けていた。
「後でシオン様にも謝罪をしないとならないわね」
シオンから婚姻と旅行の連絡を貰ってはいたものの、行き先までは知らされていなかった。その為、まさか本当にアレクシスがアリアを連れ帰ってくるとは思わず、きちんとその行動を止めるべきだったとアリアの母親は申し訳なさそうな表情になる。
僅かな情報から2人の行き先を突き止めるまでに至った息子の有能さに感心する一方で、溺愛する妹へのこの行動力には困ってしまう。そこには過分に弟2人の協力も含まれているのだが、そこまではさすがに気づいていない。
兄の邪魔が入らなければ、今頃は教会に婚姻届を提出し、正式に夫婦となって新婚旅行を楽しむことになっていたのだろう娘を思って、アリアの母親は複雑そうな微笑みを溢していた。
「……どうして……」
「? 婚姻届のこと?」
「……それもだけれど……」
いろいろと胸に浮かぶ疑問符が多すぎて、なにをどこから聞いていけばいいのかわからない。
そんな風に戸惑いに瞳を揺らめかせる娘をみつめ、アリアの母親は慈愛に満ちた眼差しを返していた。
「……シオン様はね。もう、ずっと前から……、シオン様が16になると同時に、アリアちゃんと結婚したい、って、ずっと申し入れをしてくれていたのよ」
「え……?」
シオンの誕生日は8月だ。この世界は9月始まりだから、シオンが16になってすぐの話だとしたならば、それはアリアがシオンから始めて告白された直後の出来事ということになる。つまりは、まだアリアがシオンへの気持ちを自覚するより前のことでもあるわけで。
「定期的に記入済みの婚姻届が送られてきて、どうか認めて欲しいって……」
ふふふ、と微笑うその瞳には、アリアをからかうような色が見て取れた。
「もう一年以上続いていたから、つい、ね。プロポーズはいいとしても、せめて婚姻は卒業まで待って欲しい、って手紙を添えて、お父様とサインしちゃったの」
この世界の婚姻は男女共に16から可能になるが、実際にその年で結婚する貴族はほとんどいない。18で魔法学校を卒業しても、早くて20を過ぎてから。平均は大体20代前半だったりするのが現実だ。
魔法学校の卒業を待ったとしても、充分すぎるほどに早い婚姻。それをつい許してしまうほど、シオンがアリアとの婚姻を切実に願っていたという事実を耳にして、アリアは驚きで言葉を返すこともできなかった。
「アリアちゃんがこんなにシオン様に愛されているなんて、お母様は本当に嬉しいのよ?」
元々は、シオンの父親であるウェントゥス家現当主から強く願われての婚約だった。それは政略的な意味合いも強く、恋愛結婚であったアリアの両親からしてみれば、少なからず娘の幸せを心配していたものだった。もしアリアが望まないのであれば、白紙に戻すことも考慮に入れていたほどだ。
それが、ここまで愛されて、それをアリアが受け止めているのであれば、母親としてはなにも反対するものはない。
願っているのは、大切な娘の幸せだけ。
だから。
「お父様が帰ってきたら、みんなでちゃんと話し合いましょうね?」
2人がどうしても今すぐ結婚したいと望むならば、自分はアリアの味方だと言って、アリアの母親は優しい微笑みを浮かばせる。
「……お母様……」
「大丈夫よ。みんな、アリアちゃんのことを愛しているんだから」
決してアリアに辛い思いをさせることだけはないから。
そうしてどことなく重い空気を変えようとしたアリアの母親は、ふとお盆の上で軽食に添えられたものの存在を思い出し、「あぁ」と口を開いていた。
「そういえば、アリアちゃん宛にお手紙が届いていたのを忘れていたわ」
机の上に置いたお盆の上から手紙を取り、はい、とアリアへと手渡してくる。
「……」
手紙を貰うこと自体は特に珍しいことではないが、ここ最近、気にかかっているものはある。
「リヒト様、って、どちらの方?」
「!」
聞き覚えのないその名前にコトリと首を傾げる母親の言葉に、アリアは慌てて手紙を裏返す。
(……リヒト……!)
差出人として綴られているのは、確かに「リヒト」という文字だった。
今まで何度か送られてきていた、「会って話したい」という旨の手紙は、いつも無記名だった為、どんな心境の変化だろうか。
「……最近知り合って……」
封筒のデザインまで違うのも、なにか意味があってのことだろうか。
さすがに母親の前で開けて見るわけにもいかず、アリアはなぜか胸に浮かぶ嫌な予感と闘っていた。
*****
(リヒトから……)
アリアの母が姿を現してからちょうど30分後。宣言通り開かれた扉に、母親とアレクシスを見送ってから、アリアはドキドキと手紙の封じ目部分へと手をかけていた。
今まで無記名だった手紙に名前が添えられているのは、なにか重要なことを急いでアリアに伝えたいと思ってのことなのかもしれないと思えば、指先が小さく震えてしまう気もした。
リヒトには、アリアと同じように"記憶"があるのだ。例えリヒトが"ゲーム"をしていなくても――、否、していないからこそ、アリアとはまた別の情報を持っているかもしれなかった。
だが、アリアが封を開けようとしたその瞬間。
「――っ!」
部屋の結界が破られる――、というよりも、空間を引き裂くような気配が生まれ、アリアは思わずスカートのポケットへと手紙を仕舞い込んでいた。
(……空間転移……!)
空間が闇色に割れるこの現象には覚えがある。
リオやルーカスが使う瞬間移動とはまた少し性質の異なるこの闇魔法は。
「よぉ」
「……ギル……!」
空間の割れ目から姿を現したその人物へ、アリアは大きく目を見張る。
確かにシオンは、昼過ぎにギルバートと落ち合う約束をしているとは言っていたけれど、まさかこんな風に直接アリアの元へと現れるとは思ってもいなかった。
「兄貴に連れ戻されたって? さすがのアイツもアンタの身内には強く出られねーか」
そんな場合ではないとも言いたいけれど、身内ゆえに生んだ油断ゆえ、不意を突かれたのならばさすがに仕方がないと苦笑するしかないだろうか。
「アイツの代わりに迎えに来た」
そう言って忌々しそうな表情を浮かばせるギルバートは、なぜ自分が2人の逢引の手伝いをしてやらなければならないのかという不満が露骨に滲み出している。
だが、そんな愚痴を吐き出している場合でもなく、ギルバートはアリアの傍までやってくると、その細い手首を掴んでいた。
「行くぞ」
「…………え……?」
一瞬動揺に揺れた瞳に、ギルバートは有無を言わさない真剣な目を向ける。
「行くだろう?」
「……で、も……」
ギルバートの向こうにはシオンがいる。
父親が帰宅したら話し合おうと言われているのに、それを無視してしまっていいのだろうか。
アリアのことを大切に思ってくれている、大切な家族。
確かにシオンのことは愛しているけれど、そんな家族の思いを裏切るような真似。
「アリア」
焦れたようなギルバートの声色に、アリアは迷いの色を見せる。
この手を取るということは、家族の元から逃げ出すということになるのではないだろうか。
と。
「ッアリア……!」
「!」
結界は破かれてはいないものの、なにか不審な気配でも感じたのか、扉の向こうからアレクシスの声が聞こえ、そちらに振り返ったアリアへと、ギルバートはちっ、と忌々しげに舌打ちする。
「っ! 早くしろ……!」
空間転移の闇魔法を発動したギルバートに、腕を引かれた。
ギルバートとしては、無理矢理にでも連れ出すつもりではいたものの、一応アリアの意思を確認する為にも、睨むような視線を送る。
「……ギ、ル……」
「アリア……!」
扉が開き、室内にアリア以外の人物がいることに気づいたアレクシスの瞳が驚愕に大きく見開かれる。
「っ!? お前は……っ!?」
「……お兄様……」
「来い……!」
引かれる腕。
「アリア……!」
侵入者へと、攻撃魔法を放とうと空に向かって広げられた掌。
――選ばなくては。
ギルバートの手を取って、シオンの元へと"逃げる"のか。
それとも、家族を選び、シオンに背を向けるのか。
――シオンか、家族か。
「早くしろ……!」
これ以上待つことはできないと、ギルバートが強引にその身体を引き寄せようとしたその瞬間。
アリアは一瞬だけアレクシスの方へと視線を投げ、
「……お兄様……! ごめんなさい……!」
ギルバートに手を引かれるまま、空間の裂け目へと身を踊らせていた。
「っ! アリア……!?」
その声にぎゅっと目を閉じながらも振り返ったりはしない。
そうして瞬時に闇空間は閉ざされて、アリアはギルバートと共にその場から姿を消していた。