涙
「……ふりをして隙を突くなんて、随分と舐めた真似をしてくれるじゃない」
ふらり、と身体を傾けて、リデラはギリリと唇を噛み締める。
「……おやおや。美人を怒らせると恐いよ?」
そこへ、「今度こそ殺されるかもね?」とどこか楽しそうな笑みを浮かべながら、ルーカスが前面に立って出る。
「先生」
「大丈夫。あそこまで弱らせてくれたなら、後は安心してくれていい」
ユーリの呼び掛けに、上に向けた両掌から小さな光の魔方陣を浮かばせて、ルーカスは力強く頷いた。
「サポートしますっ」
そんなルーカスに、セオドアが後ろから名乗りを上げて。
「転移で逃げる気だ……!」
手の中へ暗い靄のようなものを握ったリデラに向かい、遥か後方からシャノンの大声が上がった。
意識だけはしっかりしているものの、身体は全く本調子ではないのか、立ち上がろうとしてふらつくシャノンの身体をルークが支えている。
「……っ」
次の行動を視まれたことに舌打ちにも似た苛立たしげな反応を見せ、それでもリデラは強引に闇空間を生み出そうと試みる。
が。
「……させる、かよ……っ!」
それを、前へと腕を突き出したギルバートが、見えないナニかを思い切り放って。
「――――っ!」
パリン……ッ、と。音にするなら鏡が割れた時のような衝撃が空気を震わせて、リデラの闇空間への退路を壊していた。
「……ギ、ル……」
「これくらいのことならオレにもできる」
今だ展開にはついていけないものの、反射的にギルバートへと顔を向ければ、アリアに向かい、くすりとした笑みが返される。
「うん。ここでの君のその働きは、称賛に値するね」
確実に勝利の見えたこの状態で高位魔族を取り逃がすなどという失態を犯すわけにはいかないと、ルーカスがギルバートへと賛辞を送る。
「……確実に、滅ぼしてみせる」
リデラへと冷たい双眸を投げ、直後、その手から光の鎖が標的に向かって伸びていく。
「……っ!」
ひっ、と。小さく息を呑んだリデラの悲鳴が聞こえた気がした。
ルーカスの手から生み出された光の鎖は、リデラの四肢の自由を奪い、その場へと縫い止める。
それを、さらに強化すべく、セオドアの光魔法が上乗せされて、雁字搦めに縛り付ける。
リオが、頭上に光輝く大きな魔方陣を展開した。
「……嫌よ……っ! 殺すの……っ!?」
確実に自分を消し去るであろう、巨大な光の魔力を前に、リデラの口から懇願にも似た悲鳴が洩らされた。
「私は誰も殺してないわ……!」
その訴えは、果たして何処に向けられているのか。
「私たちに寿命はないけれど、貴方たちは、私たちがなにも摂取せずに生きていけると思っているのっ?」
ただ、楽しく生きたいだけ、と言っていた、魔に属する者とは思えないリデラの言葉を思い出す。
「私たちだって食べなくちゃ生きていけないのよっ」
生きている以上、必ず身体に取り入れなくてはならないもの。
「貴方たちだって魚や肉を食べるでしょうっ? 私たちにだって、栄養価の高いものを食べる権利はあるでしょうっ!?」
人の血肉を喰らわない魔族が、普段なにを摂取しているのか、アリアたちは知らない。人間と同じような食べ物を口にしても、空腹を満たすことができるのか。
「貴方たち人間が酒や甘いものを食べるように、美味しいものを口にしたいと思ってなにが悪いの……! 私は人を殺してはいないわ! ちょっと生気は貰ったかもしれないけれど、美味しい食事をすることのなにが悪いの……!」
矢継ぎ早にそう主張するリデラには、生への執着が見て取れた。
それが普通のことなのかどうかはわからないが、どこか悲痛さを感じさせるその叫びは、アリアの胸を刺した。
「永久機関を備えているのなんて魔王様くらいよ……! それを貴方たち人間が封印して利用しておいて、私たちには我慢を強いるの……!?」
「……どういう……」
リデラがなにを言っているのか、アリアには理解できなかった。
けれど、確実に動揺を覚えて瞳を揺らめかせる少女の反応に、アリアを腕から下ろしたシオンは、厳しい目を向けていた。
「お前は騙されるな」
その肩に手を置いて、しっかりしろとシオンは告げる。
「あの女が誰も殺していないわけがないだろう」
もし。例え。
仮に、本当に誰も殺していなかったとして。
だからといって、今までリデラがしてきたことが「死なないため」に必要なことだったのかと問いかけた時、その答えは明確な否定だろう。
不味いものより、美味しいもの。百歩譲ってその主張を認めることができたとしても、その過程でこの魔女が見せていた快楽主義は、到底許されていいものではない。
「お前も殺されかけてるんだぞ?」
自ら手にかけることはなくとも、リデラはシオンにアリアを殺せと命じていた。
それで「誰も殺していない」とは笑わせる。
「……うん。わかってる」
きゅっ、とシオンの服の裾を掴んで、アリアは静かに頷づいた。
――「食べなければ生きていけない」。
その思いだけは切実で、返す言葉はないけれど。
それでも、魔に生きる者は自分達の"敵"だ。
「本当に憎たらしいわね……っ。これなら始めから貴方だけモノにしておけばよかったわ」
「それは残念だったな」
やはり同情を買う演技は通じないかと悔しげに唇を噛み締めるリデラに、シオンは冷たく嘲笑する。
睨み合うかのように二人の視線が交錯したが、それも長くは続かなかった。
「……悪いけど、消えてもらうよ?」
いつもの軟派な気配は何処にも感じられない冷ややかな空気を身に纏い、ルーカスが小さな魔方陣を次々に撃ち込んだ。
「……嫌よ……っ! 死にたくない……っ!」
討つべき相手には違いなのに、悲痛な女のその訴えは、アリアの胸を締め付けた。
「……ごめんね。君のその願いは叶えてあげられそうにない」
少しだけ哀しそうに微笑んだリオが、それでも頭上に構築させた光の魔方陣から容赦ない浄化の光を降り注いだ。
「お前は見るな」
シオンの胸元に引き寄せられ、視界と聴覚を塞ぐようにぐっと力強く抱き込められた。
「シオン」
本当は、ずっとこうして守っていきたいのだというような強い抱擁に思わず顔を上げ。
「いやぁぁぁぁ…………っ!」
益々強くなった腕の力に、アリアはぎゅっと目を閉じてその腕の中で身を固くした。
そうして、目映い光が少しずつ収束し、辺りに静けさが戻った時。
なんとも後味の悪い沈黙がその場を満たしていた。
それでも、その場にいつまでも留まり続けるわけにもいかず、リデラが保管していた宝玉を取り戻したギルバートが、リオへとそれを手渡した頃。
「あの……、その……、シ、オン……?」
シオンに肩を抱かれたままの状態で、アリアは未だ困惑の表情でその横顔を見上げていた。
「……いつ、から……?」
いつから正気に戻っていたのだろうと、シオンを見、それからソレを見抜いていたらしきユーリへも顔を向ける。
「……まぁ、始めから……? なんとなく、だけど、闇の力に操られているような気配は感じなかった、というか……?」
初めはその感覚に自信はなかったけれど、途中からは確信に変わったと申し訳なさそうに謝るユーリに、アリアは思わずギルバートの方へと振り向いた。
「オレはそこまでわからねぇよっ」
同じ闇属性を宿す者として、ギルバートもなにか感じるものがあったのではないかと疑問の目を向けるアリアに、ギルバートの焦ったような否定が返される。
「残念ながら、ボクも、ね……。ただ、ユーリがなにか考えがありそうだったから」
だから途中からはなにもせずに事態を見守っていたと、こちらも申し訳なさそうに告げるリオに、アリアは今頃になってあまりの気恥ずかしさに全身を桜色に染め上げる。
(……みんな……っ、気づいて……っ!)
否、気づいていたのはユーリだけで、他のみんなはユーリに従っていただけなのだけれど。
それでもみんなにシオンとのあれこれを見られていたのかと思うと、今すぐにでも消え入りたくなってくる。
――決死の覚悟だったのに。
さすが"初代主人公"は最強だと思いつつ、そんなユーリを恨めしくさえ思ってしまう。
「半分支配されながら自我を保つのはなかなかに骨が折れた」
リデラに気づかれないように最大限の気を遣ったと溜め息を洩らすシオンにも、しばらく口を利かないくらいの仕打ちをしても許されるだろうかと考える。
が。
「コイツのおかげだな」
シャラ……ッ、と、シオンが隠し持っていたものを取り出したのに、アリアは目を見開いていた。
「! それ……っ!」
それは、失くしたと思っていた魔法石。
あの時、口づけのどさくさに紛れて借りたのだと告げるシオンに、どこまで計算しているのかと思わず怒りも湧いてくる。
この魔法石は、魔に操られるような悪意を弾く、とルーカスが言っていた。
まぁ、賭けだったがな。と吐息を吐き出すシオンは、そう何度も同じ手はくらわないと、口元へとニヤリと意味ありげな笑みを刻んでいた。
「……酷い……っ!」
失くしたと思って。シオンが本当に遠くに行ってしまったと思って。生きた心地がしなかったのに。
「……アリア」
口なんて利いてやらない、と思うのに、確かにそこに在る存在に、勝手に涙が溢れてくる。
「悪かった」
自分を包み込んでくる温もりに酷く安心する。
優しく髪を撫でられてると、全てを許したくなってしまう。
「……離さない、って言ったのに」
「離さない」
「…………誰にも渡さない、って言ったのに」
「渡さない」
宥めるように背中を擦られて、次から次へと涙が零れた。
それを、シオンの綺麗な指先な静かに拭って。
「……っ」
「お前を置いて逝ったりしないから」
なにを言っていいかわからなくて。
涙を溢しながら言葉を詰まらせたアリアに、真摯なシオンの言葉が響く。
「だから、もう泣くな」
「…………っ」
泣くなと言われても、泣きたくて泣いているわけじゃない。
アリアの意思とは無関係に頬を伝っていく涙は、すぐに止まりそうになかった。
「……アリア」
そうしてみんなの前だというにも関わらず、ゆっくりと降りてきた唇を、アリアは目を閉じて受け入れてしまう。
触れるだけの口づけはとても優しくて。
また一つ、涙が零れ落ちた。