雨のち曇り
中庭の、緑が輝くその一角に、ぼんやりと佇む人影を見つけてアリアはそっとその隣に足を運んでいた。
「……アリアお姉様……」
「………セオドアは?」
半分泣き出しそうなその瞳に、自分がどうしたらいいのかわからないまま、ただその行方だけを問いかける。
「……先ほど、帰宅のご挨拶だけ寄って下さいました…」
ーー『今日はこれで失礼させて頂きます』
あの時も、きちんとそう言って出ていったのだから、「いなくなった」と騒ぐ方がおかしな話ではあった。
ただ、すぐに王宮を下がった気配が見受けられなかったから、事態が事態だっただけに心配になっただけで。
ーー『ご心配をおかけして申し訳ありません』
シャーロットが探していたと、わざわざ謝罪に来てくれた。
彼が謝ることなど、なに一つないというのに。
ーー『また、遊びに来ますね』
そう静かに微笑んで。
ーー『今度は我が家にも来てください』
お迎えに上がりますから、と。
何事も、なかったかのように。
ーー『今日は失礼します』
礼儀を忘れることなく、綺麗に下げられた頭。
どうして、と。そればかりが頭に浮かんだ。
彼は、自分を責め立てていいはずだ。
こんな時にまで、理性を働かせる必要なんてどこにもない。
「…お姉様は…、このままシオン様とご結婚なさるんですよね…?」
「……え」
"けっこん"。
縋るように口にされたその四文字の衝撃に、アリアは一瞬時を止めた。
シオンとは婚約関係だ。そしてシオンは当たり前のようにそれを望んでいる。お互いの家の意向も、もはや世間体もある。
よほどの事情がない限り、今さら覆されたりすることはない。
ただ、アリアにその実感はまだなかった。…シオンとユーリの恋仲に対するカモフラージュ結婚は考えていたとしても。
現実味が、なさすぎる。
"ゲーム"の"一推しキャラ"と結婚、なんて。
「誰かに心を、移されたりしないですよね…?」
唖然としたアリアの反応をどう取ったのか、不安に揺れるシャーロットの瞳が懇願するかのようにアリアの顔を覗き込む。
アリアとシオンは誰もが認める婚約者同士。
なにがそんなに自分へと焦燥感を与えてくるのか、シャーロットにもわからない。
なぜ、こんなにも不安に駆られるのか。
「お姉様は狡いです…!」
こんなこと、言いたくないのに。
感情に突き動かされるまま、勝手に口が言葉を紡ぐ。
「望めば王妃様にもなれる血筋に、シオン様からも一心に愛されていて…っ」
苦しい。辛い。悲しい。切ない。
いろいろな感情が渦巻いて、抑えることができなくなる。
ただ、優しいあの人が好きなだけ。
人を好きになることが、こんなに自分を愚かで惨めにさせるなんて思わなかった。
ーー羨ましい。
一言で言うならそれだけだ。
自分には決して見せてはくれない感情。表情。その瞳。
どうして、それを向けてくれる相手が自分ではないのか。
お願い、だから。
「…あの方まで…っ!」
たった一人。自分の望む人に愛されているのだから、それ以上誰かの心を奪わないで。
沸き上がる負の感情に囚われる。
どうして、自分じゃないの。
どうして、この人なの。
この人は、他の人のものなのに。
「これ以じょ…っ」
ーーこれ以上、あの人の心を持っていかないで。
の瞬間。
つかつかとアリアの横を過った人影があり、直後。
パシン…ッ!と。
小気味のいい音が響いて、アリアはその頬へと平手を放った人物へとぎょっと目を見開いていた。
「リ、リリアン!?」
「リリアン様!?」
追いかけてきたのか、傍にはルークの姿もあり、焦ったような声が上がる。
仮にも身分が上の王女に向かい、平手打ちなどとんでもない。
けれど当の本人はそんなことなど気にする様子もなく、キッ…、と相手を睨み付ける。
「"狡い"って、なんですか…!」
「お、おい、リリアン…」
背後まで歩み寄り、宥めるようにルークがその肩を抑えるが、リリアンの勢いは止まらない。
「アリア様が誰かの心を手に入れるために卑怯な手を使いましたか…!?」
「な、にが……」
「不敬罪で訴えるならどうぞ!投獄するなりなんなりお好きにしてください!だからって謝ったりなんてしませんけど…!」
一体自分の身になにが起こったのだろうと、熱を帯びた頬を片手で抑えながら、シャーロットは呆然と突然現れた少女へと顔を向ける。
叩かれたらしい頬は確かに痛むけれど、けれどそれ以上の衝撃がシャーロットを襲っていた。
「リリアン…ッ!」
おいおいおいっ、と焦った様子でリリアンをこの場から引き離そうとするルークさえ鋭い瞳で睨み上げ、リリアンは己を制止しようとするその手を振りほどく。
それから。
「私っ、こういう女が一番嫌いなんです!」
誰に向かって言っているのか、きっぱりと放たれた言葉の刃に、三人とも身体を固めてしまっていた。
「自分に魅力がないことを棚に上げて、相手を引き摺り下ろそうとするような女がっ」
掴みかかるまでのことをしないでも、勢いだけはそれくらいの空気を醸し出し、リリアンは身体の横に落とした拳にぐっと強い力を込める。
「…私には、貴女の気持ちがわかります」
それから、静かにシャーロットをみつめ、きゅっと唇を引き結ぶ。
「誰かのことがずっとずっと好きで、でも振り向いて貰えなくて」
想っている年月を愛情の大きさと比例させるつもりはない。
出逢った順も、積み重ねてきた想いや思い出も関係ない。
誰かを好きになることに、優先順位なんてない。
だから。
「その辛さ、私にはわかります」
ひたすら、純粋に、たった一人を想う気持ち。
そして、その人が別の人を見ている苦しみ。
けれど。
「でも、貴女に私の気持ちはわからない…っ」
認めたくないとは思いながらも、もうとっくの昔にわかっている。
一瞬緩んだ涙腺に、泣いてなるものかと顔に力を込める。
好きな人が、決して自分へと振り向いてはくれないことを知った苦しみ。
どんなに望んでも、もう、絶対に手に入ることのない絶望感。
それをまだ、目の前の甘やかされた王女は味わってはいない。
「貴女は手に入れてるじゃないですかっ。まだ望みがあるじゃないですか…っ」
例え、それが一方的なものだとしても。
彼女は「婚約者」として想い人の傍にいる権利を手に入れている。
例えそれが表面上のことだとしても、「婚約者」として想い人の優しさに触れている。
そこにまだ心がなかったとしても、それがなんだというのか。
そもそも自分たちが身を置く世界は政略結婚なんて当たり前だ。本人たちの気持ちなど、二の次三の次の世界。
それだけでどれだけ自分が恵まれているのか、なにもわかっていない甘ちゃんな王女に腹が立つ。
「振り向かせる努力をしなさいよ!貴女だって、アリア様のこと、全部知ってるわけじゃないでしょう…!」
王女という身分を楯にしてでも想い人の傍にいる権利をもぎ取ったというのなら。
それだけに甘んじず、それ以上のことをしてみせろとリリアンは思う。
自分と、そして目の前の彼女の想い人の心をあっさりと射留めてしまった少女が、恋愛的な努力をしていたわけではないことはわかる。
ただ、リリアンは知っているから。
少女と知り合うきっかけとなったのは、多くの人を救いたいと願うアリアの強い思いがあったから。
それを、他の誰かが簡単に真似できるとは思えない。
少なくとも、自分には無理だと認めている。
魔族にも、立ち向かったという。その詳細までは知らないけれど、冗談めかしてルークが言っていた、「死にかけた」という言葉はきっと、嘘じゃない。
自分の命すら賭けて。誰かのために立ち向かっていたアリアだから。
だから、負けても仕方ないのかな、と思う。
もちろん、そこにある悔しさは拭えないけれど。
絶対に、泣いたりしない。
それだけが、唯一自分に残されたプライドだ。
「自分を磨いて努力してっ。それでも振り向いて貰えなかったら…!」
キッ、とシャーロットを睨み付け、リリアンはきっぱりと言い放つ。
「その時は、仲間だって認めてあげます!」
きっと、そんな日は来ない。
恋を失うのは自分だけ。
それだけを言い捨てて、リリアンはその場から走り去っていた。
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