そして鎌は振り下ろされた
アリアが別世界の記憶を得てから一年目の冬が過ぎ、もしかしてと身構えていた二度目の冬も無事に越え、今年こそは油断してはならないと、すぐそこに迫った冬に祈るような気持ちで一日一日を過ごしていた頃。
秋も深まり、そろそろ冬の到来を思わせるある日。
いつだって絶望は、突然やってくるものだ。
「アリア嬢……っ!」
なんの前触れもなく突然やってきたルークの慌てように、アリアは緊急事態が起こったことを察して体温が一気に冷めていくのを感じていた。
「……ルーク。一体なにが……」
よほど急いできたのだろう。切らした息を懸命に整えているルークを待つのももどかく、アリアは震えそうな唇で言葉の先を促す。
「二十日病です……!」
その瞬間。ガタンッと背後でした物音は、全身真っ青になったアリアの母親が壁際に飾られた花瓶にぶつかったものだった。
「場所がちょっと特殊なトコで……っ。情報が入ってくるのが遅くなって……!」
すでに数十人規模で感染者が出ていると言って、ルークは呼吸を整えるかのように大きく肩で息を吐く。
「シオン先輩には先に伝令飛ばしたんスけど……っ!」
「……っ!」
一瞬呆然と立ち竦み。けれど我に返ったアリアは、それからの行動は早かった。
事前にある程度準備していた自分に持てるだけの荷物を纏め、玄関を飛び出していく。
「詳しいことは道中で聞くわっ!」
案内して、と言い終わるか終わらないうちに、
「アリアちゃんっ、どこに行くの!?」
なにかを察したらしいアリアの母親に、アリアの細い二の腕はしっかり捕まれてしまっていた。
「お母様……」
普段のふわふわとした母親からは想像できない、アリアの顔を真っ直ぐ見つめてくる真摯な瞳。
「アリアちゃん」
その瞳が、行ってはならないと真剣にアリアを諭してくる。
「……お母様……。心配しないで」
「アリアちゃんが行くことはないわっ」
真っ直ぐ目を見て微笑みかけるも意味はなく、アリアの母親はふるふると否定の意味で首を振る。
「お医者様とお父様たちに任せればいいの。アリアちゃんが行く必要なんてどこにあるの?」
なにも知らない母親の言い分は尤もで、けれどアリアも譲れない。
自分にできることなど限られているなんてことはわかっている。けれど、アリアにしかできない、知らないことがある。
「……お母様、お願い……」
自分を掴んで離さない白い手へと己のソレを添え、アリアはゆっくりとその拘束を緩ませていく。
「ダメよっ、アリアちゃん……」
お願いだからと両の瞳に涙を浮かばせる母親に、ズキリとした痛みが胸に刺さる。
と……。
「……オレが一緒に行きます」
「シオン!?」
「シオン様!?」
不意に響いたその声の持ち主に、アリアとアリアの母親は驚いたように背後へと振り返っていた。
「遅くなった」
母と娘の遣り取りになにも言えずに口をつぐんでいたルークへとチラリと視線を投げ、それからシオンはアリアの母親の方へと向き直ると真っ直ぐな真摯な瞳を向ける。
「オレが付いて行きますから」
オレに任せて貰えませんか?と、そう許しを乞う娘の婚約者の真剣な眼差しに、アリアの母親はその瞳に迷うような揺らめきを見せる。
「シオン……」
まさかの申し出に驚いたのはアリアも同じで、アリアは大きく見開いた瞳をシオンへ向けていた。
「………」
ややあって、落ち着きを取り戻そうと大きく息を吐いたアリアの母親は、「シオン様」と、かつてないほど真剣な眼差しをシオンに向ける。
「……アリアを……、よろしくお願いします」
「お母様……!」
深々と頭を下げた母親に「ありがとう」と一言残し、急いで踵を返すシオンの元へと駆けていく。
けれどなぜか、シオンは外ではなく、アクア家の邸宅へと入っていく。
「シオ……っ」
「王家の扉へ案内してくれ」
「え?」
「使用許可を取ってきた」
それで遅くなった、と、早足で歩きながら告げられたその内容に、アリアもルークも驚愕に目を見張る。
――王家の扉。
五大公爵家、総ての家に備えられた、王宮直結の瞬間移動の扉。
さらにはこの扉は国中の至るところにも備えられており、けれど、有事の時以外には使用することのできない、国王と王妃と五大公爵家の、少なくとも二者の許可がなければ使用することのできないものだった。
「今できる最速の移動手段だ」
ひゅ~っ!とルークが感嘆の口笛を鳴らし、アリアはアクア家の王家の扉へと駆けていく。
まずは王宮へ行き、それから発生地に一番近い扉をくぐっていく。簡単に言うが、こんな短時間で使用許可を取るとは、一体どんな手腕だろうと思う。
「魔法師団は動けないが、すぐに救護体制は取れるようにして貰っている」
魔物の討伐などではない為、国直属の魔法師団は動かせないが、援助は惜しまないと約束を取り付けてきたと話すシオンには、もうなにを突っ込んで聞くべきなのかわからない。
「シオン……」
「さっすがシオン先輩……!」
キラキラと尊敬の眼差しを向けるルークとは違い、アリアはなぜだか酷く泣き出したい気持ちになってくる。
「お前はこれから派遣されるであろう医師団を纏められるか?」
目の前に現れた荘厳な扉を前に向けられたその問いかけに、ルークは「任せといてください!」と胸を叩く。
「まずは現地に飛んで情報収集だ」
全てはそれからだと呟くシオンに先導され、アリアとルークは扉の向こうへと姿を消していた。
*****
「……こんなところが……」
瞬間移動で一番近くにある扉へ転移しても、そこからさらに馬車で30分弱。
馬車の中で以前アリアが発注しておいたマスクにメガネと感染対策用の防護服を身に纏い、眼下に広がった光景にアリアは唇を震わせていた。
「ここは国内で唯一、王家の庇護下から外れているところっスからね……」
少し小高い丘の上から見下ろす景色は、とてもアリアたちの暮らす同じ国内のものとは思えない。
もう何百年も前のこと。魔王信仰をする集団があり、当時の王家に滅ぼされた人々が住んでいた場所だという。
以来、まるで見せしめのように王家の庇護下から唯一外され、何百年たってもそのまま放って置かれている土地だ。
ほぼ更地のまま痩せこけた大地の向こうに見える、朽ち果てた建物。
それでもなおここに住んでいる人もいるというから、よくこんな場所で暮らしていけるものだと思う。
聞けば、時折出る下位魔獣からの被害にも遭っているらしい。
「今は、主に家を失った人や浮浪者の溜まり場のようなものになってるみたいっス」
過去の反神信仰などはもはやなく、行き場を失った人々が最後に行き着く場所。この国の民である以上、最低限の暮らしができるだけの施しはあるはずだが、それでもそれを望むことができない事情があって、逃げるようにここへ来ている人たちもいるという。
当然、こんなところで病に罹っても医者に行くことはない。発覚か遅くなった原因はここにある。
「……お前ら、こんなところでなにしてンだ?」
と、不意に背後から声をかけられ、アリアたちはその声の持ち主の方へと顔を向ける。
そこには、見たこともない不思議な格好をしているアリアたちの全身を上から下まで不審気に眺めている二十歳前後の青年の姿があった。
「……貴方は?」
「オレはイーサン。隣町の人間だ」
なにをしに来たのかは知らねぇが、珍しいもの見たさで来たなら帰ンな、と、シッシッと手で追い払う仕草を見せ、イーサンと名乗った青年は、眼下を見回して肩を落とす。
「ここの連中はもうダメだ」
「……アンタ、もしかして医者なのか?」
感染症が発生していると聞きつけてやってきた医者なのかとルークが聞けば、その問いかけにイーサンは肩を竦めて「そんなんじゃない」と首を振る。
「医者の仕事は立派な兄貴たちが継いでるよ」
オレは落ちこぼれでね、と告げるイーサンはなにか事情がありそうだ。
「ここで貴方はなにを?」
「……オレは親父たちとは違う」
聞けば、しばらく前に微熱の患者がイーサンの父親の診療所に訪れ、解熱剤と風邪薬を処方して帰したという。しかし、しばらくしてその患者が意識不明になり、セーレーン病ではないかという疑いを持ったらしい。
そして広まりつつある感染病を前に自らの保身に走り、患者たちを見捨てて部屋に閉じ籠ってしまったという。
「だからって、オレにできることはなにもない」
自分は医者じゃない。それでも、見捨てることもできずに気づけばここへと足を運んでしまったとイーサンは自嘲する。
「……聞いてもいいかしら?」
事情は理解した。けれど、今のアリアには先に確認しておかなければならないことがある。
「貴方自身はその……、患者さんやお父様と接触したりは……?」
「オレはいてもいなくても変わらない存在だからな」
医者としての仕事もしていない上、父親とは疎遠だと言って、イーサンは接触に関して否定する。
(濃厚接触者のリストアップと、隔離と管理……)
感染者が一人でも医者の元へ訪れているとなると少し厄介だ。早急にしなければならないことに頭を廻らせ、アリアは少しだけ心配になってイーサンを見る。
「その後、お父様は……?」
感染者を診察したのならば、感染の可能性は高い。
その後の経過に気をつけなければと思って問いかければ、イーサンは「さぁな」と肩を竦めるだけだった。
(診療所周辺の感染者確認に急いで貰わないと……!)
すでに発病している者がいるのならば、むしろこちらまで来て貰った方が安心だろう。
そうしてどこか一点を見つめて考え込んでいるアリアを尻目に、イーサンは大きな溜め息を漏らす。
「ここには本当になにもない」
ここにいるのは、なんとかその日その日を凌いで暮らしている低貧民の者たちだ。お金もなければ栄養状態も最悪に悪い。そもそもこの病に効く薬が作れないとも聞いている。
絶望的な状況に己の力のなさを嘆きながら、どうすることもできないこの現実に立ち尽くしていた。
「ちょっと調べてみたが、この近くには水すらないんだ」
枯れた井戸があるだけで、だからせめて水だけでもと、少し歩いた場所にある水を汲んで来たのだとイーサンは言う。
言われてみれば、イーサンの手元には並々と水の注がれた桶が下げられていた。
「枯れた井戸……?」
なにか試案するように呟いて、アリアはイーサンの顔を見上げる。
「そこに案内してくれないかしら?」
は?と訝しげに潜められた顔に、アリアは思い出したように自分の荷物の中からなにかを取り出し、イーサンの前へと差し出してみせる。
「っと、その前にこれを着て貰ってもいい?」
「……なんだよこれ」
アリアが手渡したのは、今アリアたちが着ている防護服だ。
馬車の中でこれを差し出した時には、シオンとルークも同じように不審気に顔をしかめたものの、感染防止に役立つはずだと告げると、渋々ながらも袖を通してくれていた。
「……こうか?」
半信半疑で手渡されたそれを着こんでこちらへと伺ってくるイーサンに、井戸があるという場所へと案内して貰いながらアリアはそういえばと思い出す。
「ごめんなさい。紹介が遅れたけど、私はアリア」
マスクとメガネに隠されて表情はよくわからないものの、少女の周りの空気がふわりと柔らかくなったのをイーサンは感じていた。
「こっちがシオンで……」
「ルークっス」
こちらもマスク越しにニカッと向けられた明るい笑みに、イーサンは「希望」という二文字を見つけたような錯覚を起こす。
「私たちはみんなを助けたいと思ってる。協力してくれる?」
荒れ果てた大地に、優しい空気が流れ出す。
力強く、けれど春の日差しを思わせるような暖かな微笑みに、イーサンははっと息を呑んでいた。
*****
「……どうっスか?」
井戸と一言で言っても、ここは魔法の世界。水さえあればその隣で所在なさげに立っている蛇口のようなものから真水を得ることはできる。
錆び付いてはいるものの、装置そのものは使えそうだと判断し、アリアは井戸の縁へと手をかける。
「水源さえ地下に残っていれば…」
水源そのものが消えてしまったのであればどうにもならないが、単純に井戸へ沸き上がってくる水だけが力を失くしてしまったのならば勝算はある。
アリアの家は水属性の家柄だ。物心つくより前からそれが当たり前のように水の流れを感じて生きてきた。ここ数年は、なにかあった時のためにと、日々魔法を磨いてきた。
ここでそれを実行できなければ、今まで努力してきた意味はない。
「……」
瞳を閉じ、アリアは地下深くに眠る水の気配へと意識を向ける。
(お願い……!)
水を感じること自体は息を吸うようにできる。けれど、問題はその先。その流れを操ること。
(……あった……!)
奥深く。確かに流れる水の奔流を見つけ出してアリアは静かに呼吸を整える。
「水よ……!」
魔法発動時に呪文を用いる必要はないが、言霊の一種としてアリアは高らかな声を上げる。
強い言葉には力がこもる。
そうして見えない"なにか"がアリアの身体の中央へと渦巻いていき、その直後、ゴポッ……という音が響いて、枯れた井戸へと水が溢れて出していた。
「うしっ……!」
「……アンタら一体……?」
ガッツポーズを作るルークに、イーサンは呆然とその光景を眺めやる。
枯れた井戸を甦らせるなど、いくらここが見離された地だということを差し引いても、それが尋常ではないことくらいはわかる。
今までだって、水属性の魔力持ちくらいいたであろうから。
「イーサン。次は病人を看病できるような場所はある?」
それなりの魔力を使ったことは間違いなく、大きく肩で息をついて呼吸を整えながら問いかけられたその視線に、イーサンは気圧されたように「ええと……」と頬を掻く。
イーサンとて、ここへは今日始めて来たわけで、そう簡単に適当な場所が思いつくわけではない。
そうしてイーサンが考えを廻らせている間に、ここに来て始めてシオンが口を開いていた。
「ルーク。お前は全体の状況を簡単に把握して一度戻れ」
それから必要な物資と人材を用意してこいと告げるシオンにルークはコクリと首を縦に振る。
「わかりましたっ」
そしてすぐにでも踵を返してその場を去ろうとするルークの背中に、
「あっ、ルーク。ちょっと待って……!」
と、アリアは慌てて声をかけていた。
「アリア嬢?」
足を止めて振り返ってくれたルークに、アリアは先ほど考えた、濃厚接触者リストとその管理について簡単に説明する。それに大きく頷いてみせたルークに少しだけ安堵の吐息を漏らし、アリアは頼もしいその背中を見送っていた。
「くれぐれも感染予防には気を遣ってね……!」
「わかってます!」
これ以上感染を広げないこと。それがなによりも重要だ。ルークが医者を連れてきてくれたとしても、彼らが感染してしまったら本末転倒だ。
「イーサン。いい場所はありそう?」
ルークの姿が小さくなるまで見守って、アリアはイーサンの方へと向き直る。
「適切かどうかはわからないけど」
案内するから見て判断してくれと言われて、アリアはこくんと頷いて歩き始めたイーサンの後に付いていく。
するとそこからすぐ傍の場所に、錆びれた教会のような建物が建っていることに気づかされる。
(そっか……。元々水場の近くだものね)
水場近くに人々の生活圏があるのは、人間が生きる上で当然の摂理だ。
魔王信仰の成れの果てなのか、建物内に足を踏み入れても内部には家具の一つも見当たらない。
なにもない広い部屋。けれど他とは違って何十年の時を経ても頑丈そうなその建物に、アリアはここならばと目処をつける。
「だけど、随分と汚れているわね……」
何十年と人の手が入ることなく捨て置かれた場所。なにもない、ただ広いだけの空間は使い勝手を考えるとむしろ最高の選択肢だが、埃だらけでは清潔感がなさすぎる。
(そうだ……!)
ふと思いつき、アリアは再び目を閉じると水魔法を組み上げる。
イメージは、吹き上がる水流。"あちらの世界"で言えば、洗車機の中のようなイメージだ。
(お願い……!)
見えない水の精霊へと願う。アリアの想いが形となって届くように。
ふわりっ、と水が舞い、室内の壁や床、天井までをも洗い流していく。室内になにもないことが幸いし、水の流れが引いた後には、天井から洩れ入る陽光にキラキラと輝く世界が広がっていた。
(……でも、乾くまでは時間がかかるわよね……)
天井から壁、壁から床へと滴り落ちる水滴。美しいけれどこれではすぐに作業に入れないなと苦笑して、アリアはふと隣に立つ存在を思い出す。
「シオンっ!貴方の風魔法でここを乾かせたりする?」
期待の光で瞳を輝かせるアリアに、シオンは反射的にぴくりと眉根を動かしてから、抵抗を諦めたかのように小さく息をつく。
アリアと同じく瞼を落としてから数秒後。
再び目を開けて前へと突き出された掌から、ふわぁ……っと初夏のような暖かな風が吹き上がる。
恐らく、風魔法に火魔法を掛け合わせた温風。"あちらの世界"のドライヤーの原理を思い起こす風の勢いに、アリアは思わず目を覆う。
「……これでいいか?」
後には、すっかり綺麗になった広い空間。
「さすがシオン!」
「……アンタたち、本気でナニモンだ……?」
ありがとう!と満面の笑みを浮かばせるアリアに、再度イーサンの呆然とした呟きが向けられる。
「……えっと……」
別段隠すようなことでもないとは思いつつ、なんとなく自分たちの身分を明かすことは憚れて、思わず口ごもってしまう。
「私たちは……」
「イーサンっ!どこにいるかと思ったら!」
探したんだからな!?
と、不意に割って入ってきた少し高めの少年のその声に、アリアもシオンもその声が聞こえてきた方へと振り返る。
……そして。
「とりあえず、持ってこられるだけ持ってきた!」
ぷりぷりと。まだ幼さの残る少女のような可愛らしい顔に「怒っています」とばかりの表情を浮かべるその少年は。
「ユーリ!」
イーサンが呼んだ、その少年のその名前は。
(な、んでここ……、に……?)
まだ出逢うには早すぎる、見覚えのあるその顔は。
――もうすぐ始まるはずの、この世界のゲームの主人公。