王女の恋
アリアお姉様もご自分で紅茶を淹れると伺ったので練習したんです。と。
そう静かに微笑んだ婚約者のその言葉がなにを意味するのかわからないまま、セオドアは心の水面が小さく波打つのに気づかないふりでいつも通りの穏やかな表情を浮かべていた。
「なかなかこちらに伺えずに申し訳ありませんでした」
ここは、王族が住まう王宮の一室。
小さな応接間は窓辺から陽の光が射し込んでシャンデリアを輝かせ、白を基調した室内を明るく照らし出している。
その、お茶の用意もできる部屋の一角で、この王宮の住人の一人でもあるシャーロットは、想い人へと背を向けて、彼の為の紅茶を淹れていた。
「いえ…、いろいろと大変だったと聞いていますから」
ティーポットを傾けるその手が一瞬震え、シャーロットはきゅっと指先に力を込める。
「…少しは、落ち着かれたのですか?」
「はい。ご心配おかけして申し訳ありませんでした」
軽く椅子に腰かけて向けられる穏やかな瞳は、シャーロットの知るいつも通りの、大好きな婚約者のものだった。
相変わらず丁寧な口調の抜けない婚約者へと諦めたように微笑みかけ、シャーロットは湯気の立つティーカップをセオドアの 前に置く。
「…上手く淹れられたかわかりませんけど」
「嬉しいです。…ありがとう」
言葉の間で少しだけ悩む様子を見せ、それから敬語を外して向けられた暖かな眼差しに、シャーロットはきゅっと胸が締め付けられる心地にさせられる。
いつだって穏やかで優しいこの婚約者が大好きで。
けれど、恐らくは、シャーロットへとこの表情を向けられるようになるまでは会わないようにしていたのだろうと思う。
苦しい時。心に余裕がない時は、決して会いに来てくれない。
もしかしたら、心配させたくないと思ってくれているからかもしれないけれど。
そんな風に、気を遣われていることがとても苦しい。
いつだって一定の距離を取って、踏み込まれないようにしているようで。
「…いい薫りだ」
ティーカップを持ち上げて、口にする前に薫りを楽しむその姿に胸がきゅんとする。
他人の心を温かくさせる気遣いを知っている人。
こんな人と、ずっと一緒にいられたら幸せだと思う。
感情よりも、理性を優先させてしまえる、そんな強く優しい人だから。
それなのに。否、だからこそ。
無理を、させてしまっているのではないかと不安になる。
傍にいたい。隣にいて欲しい。
なにをしてでも、繋ぎ止めておきたい。
強く、強く、欲する。
そんなこと、今まで一度も思ったことはなかったのに。
シャーロットは、自らも手にしたティーカップを強い力で包み込む。淹れ立ての熱さも、気にならなかった。
「……っ?」
不意に、なにか異変を感じたらしいセオドアが、口許に手をやり、驚いたような表情を垣間見せる。
「…シャーロット……?」
なにか…?とみつめられる瞳は、よもやこの大人しい王女がそんな強行手段に及ぶことがあるなど考えもしていなかったであろう戸惑いが浮かんでいる。
「…………お姉様が……」
かなりの沈黙があって、シャーロットは俯きがちにきゅっと手に力を込めると、大好きな婚約者と目が合わせられないまま、勇気を振り絞って静かにゆっくりと言葉を紡ぐ。
「……アリアお姉様のことがお好きですか?」
「…っ。一体、なにを…」
一瞬息を呑んだセオドアに、シャーロットはスカートの膝部分にくしゃりと皺を作って両手を握り締める。
気の置けない幼馴染みだという話は耳にしている。
互いの両親同士が親友で、将来お互いの子供を結婚させたいと笑い合っていたくらい仲がいいのだと。
けれど、現実にはそうはなっていない。それはシャーロットにとっては喜ぶべきことで、悲しむような要素はない。
アリアの婚約者であるシオンは彼女を溺愛していて、シャーロットの目から見ても羨ましいくらいに理想の恋人同士だ。
それなのに。
胸に浮かぶ焦燥感とこの不安はなんだろう。
大好きで。ずっとみつめているからこそわかることがある。
彼の少女といる時だけ、この婚約者の空気と瞳の色は変わる。
いつも優しく柔らかいその雰囲気はそのままに、それがさらに甘く慈愛に満ちたものになる。
時には、シャーロットへと切なさすら感じさせるほどに。
「…アリアお姉様はシオン様の婚約者です。貴方のものになることはありません」
自分は、残酷なことを口にしているのだろうか。
震える指先を重ねて握り込み、シャーロットは目を閉じる。
「…だから、いいんです」
例えセオドアがあの少女のことを好きだとしても、少女はもう他の男のものだ。
だから、気にすることなんて、ない。
王女と公爵令嬢。身分だけで見た時にはシャーロットの方が地位は高いけれど、血筋を考えた時にはアリアの方が尊かった。
この優しい人がそんなことでシャーロットを下に見たりしないことはわかっている。
それでも、今のシャーロットが持つ唯一の武器は、自分が紛れもない王女であるという身分だけ。
「……さっきの飲み物になにか…?」
口元を抑えてなにか確認するかのような仕草をみせる優しい婚約者へ、シャーロットは意を決したように顔を上げる。
「…アリアお姉様のことを好きなままでもいいんです。心に秘めていて下されば」
理性を優先してしまえるこの人は、自分の婚約者以外の想い人がいたとしても、決してそれを口にしたりはしないだろう。
だから、シャーロットのことを大切に想っているふりをして。誰からも見えないように隠してくれていればそれでいい。
「抱いてください」
席を立ち、セオドアの元まで歩み寄る。
「お姉様のことを想いながらでも構いません」
そっとその手の上に掌を重ねると、ぴくりとその指先が反応した。
自分に、本当の想い人を投影して。
身代わりでも、構わないから。
全部全部、身体を犯した薬のせいにして、逃げて貰って構わないから。罪になんて、思わなくていいから。
「…シャーロット……」
シャーロットが、飲み物になにかを入れていたのには気づいていた。そんな不審に気づかないほどセオドアも鈍くはない。
ただ、睡眠薬程度のものだと思っていた。例の騒動で疲れている自分を気遣って、少し眠らせようとしているのかもしれない、くらいに。
会いたいと言われても、この婚約者ときちんと向き合う余裕ができるまで、いつもなんらかの理由をつけて今日この日まで引き延ばしていたのは自分だ。
そのツケを払わなければと。この少女の気持ちに報わなければと思っていた。
それが、まさか。大人しいこの王女が、そんな強行手段に出るとは思わなくて。
「セオドア様…」
不安の色に揺らめく瞳で、縋るようにみつめてくるシャーロットへと手を伸ばす。
「好きです」
苦しげなその告白にずきりと胸が痛む。
「…シャーロット……」
この少女が、ここまで自分のことを想ってくれているなどとは思ってもいなかった。
これほどまでに、追い詰めていたなんて。
手を伸ばし、その頬へと静かに触れる。
今まで、そういった意味では一度も触れたことはない。
促されるように目を閉じたシャーロットに、その唇へと顔を寄せた瞬間。
ーー『セオドア?』
コトリと無防備に首を傾げて微笑む少女の姿が目に浮かんだ。