婚約者
「どうしてお前がここにいる」
ここにいるはずのない少女の姿を見咎めて、シオンの眉根が不機嫌そうに跳ね上がった。
王宮は、呼ばれてもいない人間が簡単に入れるような場所ではない。だが、仮にも顔の知られた公爵令嬢。その上シオンもアリアもここ最近王宮に訪れる機会が多かった為、婚約者であるシオンに用事があると告げれば、存外簡単に許可は下ろされてしまっていた。
「…ちょっと、心配で…」
「お前がいたところで状況はなにも変わらない。帰れ」
ごめんなさい。と素直に謝るアリアにも、シオンの凍るような態度は容赦がない。
シオンとルーカスがまた議会に呼ばれているとセオドアに聞いてから、アリアは落ち着かない気持ちを持て余していた。その気持ちの正体がなんなのか、アリア自身にもよくわからない。
心配、と言ってしまえば確かにそうだけれど、それよりもきっともっと複雑な心情だ。
「そんな言い方はないんじゃない?」
心底申し訳なさそうに身を小さくするアリアをみつめ、シオンと共に呼ばれていた天才魔道師がその横からフォローのような声を差し込んでくる。
「…ルーカス」
「僕たちだけで事が済むならそれで充分だから。君まで巻き込みたくないんだよ」
優しい微笑みでアリアを見下ろして、さらりと金色の髪を掬うルーカスの仕草に一瞬シオンの蟀谷がぴくりと反応したが、特にそれを咎めるでもなくシオンはアリアから目を逸らす。
「"巻き込む"、って…」
元々は、アリアがシオンとルーカスを巻き込んだ。それなのに自分だけ蚊帳の外で守られているなど我慢できなくて、アリアは泣きそうに瞳を揺らめかせる。
二人が心配で、申し訳なくて。
それと同時に、もう一つの声が頭の中に響く。
ーー『できれば状況を知りたい。アンタの一番の役目はそれだ』
ZEROが捕まるようなことがあってはならない。
宝玉は、集めなければ。
ここ最近忘れかけていた歪みに心が悲鳴を上げかける。
だからといって立ち止まることは許されない。
「どうしても心配なら重鎮たちの目に触れないところで待っていればいいよ」
一緒に中に入ることは許可できないけれど、ひっそりと近くにいるだけならばと優しく声をかけてくるルーカスに、シオンの咎めるような視線が向けられる。
開口一番「帰れ」と言い放ったシオンの言葉は間違いなく本音だろう。
そこにアリアを守りたいという気持ちがあったとしても、大人しく守られてはくれないアリアの行動に憤りを覚えてしまうのは当然のことかもしれなかった。
「ただ、どれくらいかかるかはわからないけどね」
特に時間が決められた会議ではないからと苦笑するルーカスに、アリアは身を小さくして俯いた。
「…わかりました…」
自分は、裏切り者だ。どんな理由を並び立てたところで、それだけは変わらない。
アリアは当事者だけれども、シオンやルーカスと一緒にその場に立つ資格はない。
「君が大切なんだよ。それだけはわかってくれるよね?」
向けられる穏やかな瞳と声色に胸が痛む。
「…ごめんなさい……」
ぎゅっと、胸元を握り締め、アリアはその場にただ佇んでいた。
*****
想定よりも遥かに早く終わった議会に、シオンとルーカス、そしてリオは、なにをしていたわけでもなく、すでに誰もいなくなった会議室から一番最後に退室していた。
国の主要人物たちはとにかく忙しい。こんなところで無駄な時間を費やしてはいられないと、さっさと次の予定に向かったというのは間違いない。そしてそれは、特に進展の見えなかった「宝玉とZEROの捜索」にも同じことが言える。新たな情報がほんどないというならば、これ以上の会議は無駄だと判断するのは妥当だろう。
責任だのなんだのということを詰問する段階はとうの昔に終わっている。
特になにを話すでもなく、そのまま解散の空気が滲み出る流れに、シオンはその場を後にしようと踵を返しかけ。
「…今、なにか…」
不意に、はっと顔を上げて辺りへと視線を巡らせたリオの反応に、シオンは訝しげに眉を寄せていた。
「……王子も感じた?」
「なにがだ」
意味ありげなルーカスの微笑は少しだけ緊張感を醸し出し、シオンは勿体ぶるなと不快そうに二人を見遣る。
「…なにか不吉なものが侵入した気配がした」
「ただ、あまりにも微かな気配すぎて杞憂かとも思いかけるレベルけどね」
「!」
まぁ、そんなわけないよね。と苦笑するルーカスに、シオンはすぐに意識を額へと集中させる。
"不吉なもの"という例えが、余計にシオンの焦燥感を駆り立てる。"魔族"だとか"暗殺者"だとか、その存在を明確にされた方がよほど対処の方法がある。
「…あの子が心配だね」
遠い何処かへと視線を廻らせるルーカスの言葉に、"あの子"が誰のことを示すのか瞬時に察したリオが「ここに来ているのか」とシオンへと振り返る。
「!シオンッ、アリアを…っ」
そして、そう口にした時には、すでにシオンはその場から走り去っていて、リオはなにかを迷うように視線を巡らせた後、ぐっと拳を握り締める。
「ボクたちは気配を辿りましょう」
「了解」
自分は、自分に課せられた役目を。
二人並んで歩き出しながら、リオもルーカスもお互い胸に浮かんだ想いは一緒だと確信していた。
同時刻。
(あれは…)
王宮の広い庭園を散策していたアリアは、視界の端を駆け抜けた黒い影に小さく目を見張っていた。
(アルカナ……?)
ほんの一瞬、アリアの視界へと映り込んだ小さな影。
それがアルカナだという確証はない。
王宮は広く、緑も多い。黒い小動物など山のようにいるだろうし、ただの黒猫が迷い込んだということもある。
けれど。
なにかの予感に駆られて走り出したアリアへと、遠くから呼び声がかけられる。
「…アリア!」
風に乗り、その低い声は僅かにアリアの耳元を掠めたが、もはや別のところへ意識を向けているアリア自身にまで届くことはなかった。
なにかに掻き立てられるかのような様子で走っていく後ろ姿をみつめながら、シオンはアリアの行く先へと目を凝らす。"なにか"を追っているような雰囲気はあるが、その先にはなにもない。
だが。
ーー『…なにか不吉なものが侵入した気配がした』
嫌な予感は拭えない。
いつだってアリアは、自ら厄介事に首を突っ込んでいく。
「アリアッ!」
ちっ、と大きく舌打ちを洩らし、シオンはすぐに風を身体へ纏わせる。
風魔法を使役して駆けていけば、これくらいの距離を追い付くのは簡単だ。
不吉なもの、というのがなにかはわからない。
それを、アリアが追跡しているという確証も。
ただ、己の勘だけが、これ以上アリアに関わらせてはいけないと告げている。
(…消え、た…?)
しっかりとした姿形を捉えたわけじゃない。リオやルーカスのように王宮へと侵入した"異質ななにか"を察する能力があるわけじゃない。
だからアルカナだと思った影は見間違いかもしれないし、そもそもアルカナだということ自体が勘違いかもしれない。
けれど。
(…こんなところで一体なにを……)
雑木林、というほど木が生えているわけではないが、それなりの数の木が空へと伸びている、少しだけ拓けた場所。
見失った、というよりも、空気に溶けて消えたと言った方が正しいその幻の影をみつめながら、そういえば、と、"ゲーム"の内容を思い出す。五つの宝玉を集めた後、異界への扉を開ける為にそれらを納める神台は王宮にある。そう考えれば、アルカナがギルバートの元を一人離れて"下見"に来ていたとしても不思議じゃない。
(…最終的には、王宮にも潜り込まなくちゃならない…)
果たして、そこまでのことが可能なのか。
…と。
「こんなところでなにしてる」
「っ!」
突然背後からかけられた声に、アリアはびくりと肩を震わせる。
自分の思考に入り込んでいて、周りの様子など目に入っていなかった。なにか気になることがあるとすぐに他の全てを忘れてしまう自分の視野の狭さはなんとかしなければと反省しつつ、アリアは見慣れたその長身に少しだけ肩の力を抜く。
「…シオン」
思いもよらないところでかけられた低音に驚きはしたが、警戒心はすっかり失くし、それでもアリアは憤りを隠せないシオンの様子に少しだけ身構えてしまっていた。
「お前はまた、なにをしようとしてるんだ」
明らかに苛立っているシオンを前に、アリアの足が無意識に後方へと逃げの体勢を取っていく。
「な、なに、って…」
「一人で突っ走るなと、何度言ったらわかるんだ」
じり、と距離を狭まれて、アリアは少しずつ後方へと下がっていく。
なんとなく、今のシオンに捕まったらダメだと、本能のようなものが告げている。
「シオ…」
「…本気で、わからせてやろうか?」
「……っ」
ゆっくりと距離を詰められて、踵で踏んだ木の根の感触に、もう後がないことを知る。後ろを見ずに下がっていたためか、運悪くアリアの背には大きな木の幹が聳え立っていた。
「シオ…ッ、んぅ…っ」
背後の障害物へと押し付けられ、勢いのまま塞がれた唇に呼吸が苦しくなってくる。
「ん、んん…っ、やめ…っ」
「どうしたらお前はわかるんだ」
息の上がったアリアを見下ろし、シオンは苛立たしげにアリアの身体へ手を伸ばす。
アリアが、ただ守られるだけでいることを由としない性格であることなどわかっている。むしろ、守りたい、救いたいと、いつもそう思って行動していることを。
けれどそれは、いつだってアリアの身の安全を置いてきぼりにして成り立っている。それを、シオンは容認できない。
ルーカスをして"不吉"と言った"なにか"にアリアが関わろうとしているならば、そこから引き離さなくてはならない。
愛しいこの少女が自分以外の"なにか"に傷つけられるなど許せなかった。
「…や…っ!シオン…ッ」
怖くはない。
不思議と怖くはないけれど、アリアは腰を引き寄せて再度唇を塞いでこようと下りてくるシオンの熱に嫌々と首を振る。
シオンの怒りの原因はわかっている。それは全て自分が撒いた種が起こしている。
どうしようもない罪悪感がある。
だから。
このままでは、流されてしまいそうで。
それがわかるからこそ、アリアは今までにない抵抗でシオンの愛情を拒絶する。
そんな気持ちでシオンのいいようにされるのは嫌だった。
流されて、全てぐずぐずに溶かされてわけがわからなくなってしまうことが怖い。
「いや…っ!シオン…ッ」
やめて…!
と、今までで恐らく一番大きな拒絶を示しながら、アリアはシオンの唇から逃れるように首を振る。それを、逃さないとでもいうかのようにシオンの片手がアリアの顎を固定する。
「やめ…っ」
眼前まで迫った端正な顔に、アリアはぎゅっと目を瞑り。
ーーぶわっ…!
と。
突然舞い上がった突風に、シオンは腕を払うような仕草でその衝撃をあっさりと霧散させていた。