act.5-2 Blessing of the Muse
昼間の出来事を思い出し、ノアは「ぶ…っ!」と思い出し笑いをしてしまっていた。
「『猫ふんじゃった』…?なんだよ、それ」
そんな曲、見たことも聞いたこともない。
本当にあの少女には、毎回驚かされると同時に腹を抱えて笑い出したい衝動に駆られてしまう。
確かにテンポのよい明るい曲ではあったけれど、それが一体なんだというのか。
「…弾けた、んだ……」
自宅のピアノの前へと座り、ノアはまじまじと自分の両手を見つめて独りごちる。
あの時。なにも考えていなかった。
事件のことも、今、自分が置かれている状態も。
ただ、少女が弾いてみせた曲があまりにも可笑しくて。
ついつい隣で眺めていたら思わず手が伸びていて、あっさりと弾けてしまったことに酷く驚いた。
この数週間の自分の苦しみは、一体何処に行ってしまったのかと。
「……」
目を閉じて、膝に手を乗せ、深い深呼吸を数度繰り返し。
そっと目を開け、ノアは少しの緊張感と共に意を決して鍵盤へと手を伸ばす。
が。
「ーーっ!」
手を落とそうとしたその瞬間。
指先が、震えた。
手が、凍りついたように動かない。
「…弾けねぇじゃん……っ!」
自分へと向けられる人々の白い視線。
ひそひそと影で口にされる嘲り。
雑音。雑音。雑音。
けれど、そんなものは慣れていたはずだった。
そんなものは自分に関係ないと、そんな雑音が耳に入ることはなかったのに。
本当は、スランプに陥りかけていた自分の心の弱さが一番の原因なのだとわかっている。
ピアノを弾くことが、純粋にただただ楽しかった子供時代。
上手ね、と褒められて、もっと難しい曲が弾けたらもっと喜んで貰えるだろうかと一生懸命になって。
それが、いつの日か。
楽しい、ということが、よくわからなくなってきていた。
自分は、なんのためにピアノを弾いているのだろうかと。
音楽はいつも楽しく、が家族の合言葉だった。
それが、周りの人間たちからトップに立ち続けることを求められ、少しだけ息苦しさを覚えるようになって。
そこに起こったあの事件。
あの事件か、少しだけ感じていたスランプか。そのどちらか一方がなければ、今も普通にピアノを弾くこと自体はできていたはずだと思う。
けれどそれは、ただ「楽しくて」純粋にピアノと向き合っていた頃とはきっと違う。
「なんで……っ!」
昼間は、あんなにいとも簡単にあっさりと弾けたのに。
ダン…ッ!と叩きつけた掌に、不協和音が響いた。
ーー『作曲とかしないの?』
少女の純粋な声だけが、頭の中に残っていた。
*****
「コレ、お前が?」
手書きの楽譜を眺め、たった今その曲を初見で弾いてみせたノアの父親は、無精髭を笑みの形に変えて驚いたように我が子を見つめていた。
「すごくいい曲じゃないか」
元々穏やかな性格をしている父親は柔和な瞳をノアへ向け、初めて作曲したという記念作を絶賛する。
明るくテンポのいい曲は、女の子が人形遊びに夢中になるような、そんな楽しさを感じさせていた。
「…小さい子の練習曲にいいと思って」
少しピアノが弾けるようになった子供向けに、簡単すぎず、難しすぎず、そして楽しく弾けるような。
頭の中にチラついたのは、子供っぽく頬を膨らませた少女の顔。
不意に浮かんだメロディに、今まで一度もしたことのない作曲をし始めたら、いつの間にか日が沈んでいた。
「お前に作曲の才能まであったとはな」
「…あら、本当。素敵な曲」
後から顔を覗かせて、ピアノに置かれた手書きの譜面に思わずその音を口ずさんだ高い歌声に、ノアはそちらの方へと振り返る。
「母さん」
「…なにも、ピアノを弾くことだけが全てじゃないもの」
線が細く、女性にしては珍しいショートカットの母親は、少しだけ複雑そうな表情を垣間見せながらも緩く微笑んだ。
両親は、ここ数週間ピアノに触れることもできずに苦しんでいる我が子の状態を誰よりも理解しているつもりだった。
「例え弾けなくても、貴方は頭の中にある音楽をこうして形にできる」
「才能開花だな」
音楽は楽しむもの。
苦しんだり、辛くなるものではない。
そう考える両親は、それでも音楽から背を向けずに新しい道を切り開いた我が子へと、これはこれでいい機会だったのではないかと前向きに笑ってみせる。
「…そんなつもりじゃなかったんだけど…」
"弾く"側から"作る"側へ。
作曲家に転身しようなどと、そんなことを考えて始めたわけじゃない。
ただ…。
「…なんか、夢中で作ってて」
音符を罫線に乗せている間、久しぶりにとても楽しんでいる自分がいた。
初めて書いたこの曲を、あの少女は弾いてくれるだろうか。
間違ったところをダメ出ししたら、きっとまた頬を膨らませるに違いない。
そう思うと、それだけで楽しくて仕方がなかった。
音楽は楽しむもの。
久しぶりに、両親のその言葉を実感した。
確かに、ピアノが弾けないことなんて、大した問題ではない、と思ってしまう。
弾けなくても、頭の中の音楽は消えることはない。
音楽を作ることを考えたことはないけれど、今回、夢中になってペンを走らせている自分がいた。
「…悪くないかもな」
そう呟いた自分は今、きっと笑えている。