苦笑と羽根ペン
冬の女神が冷たい息吹を吹き掛けてくるようになった頃。
アリアはゲストルームで来客を迎える準備を進めていた。
通常貴族はお茶の用意などは側仕えにさせることが多いのだが、アリアの母親などは茶葉の香りを楽しみながら自分で淹れるのが趣味の一つだったりする。
その為、アリアも美味しいお茶の淹れ方を母親から習っていた。
「うん、いい感じ」
お茶を淹れるのは来客後だが、お茶請けにティーセットと準備は完璧だ。
(シオンは甘いものはあまり好きそうなイメージはないけれど……)
突然訪問の伺いを立ててきたシオンの整った顔を思い出し、アリアはうーん、と小首を捻る。
実際は出されたものならばなんでも食べるという感じだが、イメージ的にはコーヒーだ。
(……やっぱり和食が恋しいわ……)
和菓子が食べたいなどと我が儘を言うつもりはないが、「日本人」をやっていたアリアとしては、せめてお米が食べたいと思ってしまうことに罪はないだろう。梅干しや納豆までは望まないから、お米と海苔さえ手に入れられれば、立派におにぎりが食べられる。せめてそれだけでも手に入らないだろうかとアリアは悩む。
この国で和食は見たことも聞いたこともない。
けれど、ふと思い出す。ファンサービスで描かれた、スタッフによる悪戯描き。秋刀魚を前にお茶碗とお箸を持ったシオンに「実はけっこう和食好き」などというメモまで添えられていたラフ画。
(……もしかしてあるかも――?)
スタッフの妄想画とはいえ、世界は広い。小さな島国のこの国になかったとしても、海を越えた遠い貿易国にならばあるかもしれない。
(シオンに聞いてみようかしら……?)
情報通のウェントゥス家なら、どこかで聞いたことがあるかもしれない。
例の薬の進行具合の確認などで時々会ってはいたものの、いつも他の人たちも一緒だった為、こうして二人でゆっくり話す機会は久しぶりだ。この機会に会話のネタとして聞くだけ聞いてみるくらいならば許されるだろうか。
と、使用人がシオンの到着を知らせに来て、アリアはパタパタと玄関に向かう。
するとそこにはすでににこにこと微笑った母の姿があって、アリアは小さな罪悪感に襲われるのをにっこりとした笑顔で振り払っていた。
「今日はお家デートなのね」
「お母様……」
顔合わせ以来、不定期ながらも二人がよく会っていることを知り、恋愛結婚だった母親にしてみればそれはとても喜ばしいことだったに違いない。
元々王女で政略結婚が当たり前の立場にいたはずが、少女のようなこの人は、本当に純粋無垢な性格をしている。
(お父様お母様ごめんなさい……!)
これは偽装で期待に応えられません、などと言えるはずもなく、冷や水たらたら平謝りしてしまう。
娘の婚約者は、近い将来、「男」と大恋愛をする予定で、私はそれを一番近くで見ていたいだけなんです、なんて。
「まぁ、シオン様。いらっしゃい」
「ご無沙汰しております」
下仕えの者に案内されてやってきたシオンは、にこにこと出迎えたアリアの母親へと向き直ると軽く頭を下げて挨拶する。
(この辺はしっかりしているのよね……)
ゲームでは慇懃無礼なイメージのあるシオンだが、この辺りはやはりしっかりとしつけられた公爵家子息というところだろう。
にこにこと微笑う母親に見送られ、急かすようにゲストルームへとシオンを誘い、ほっと呼吸を整える。
そうして自らお茶を淹れ、室内が甘いながらも爽やかな香りに満たされた頃。
「それでシオン。話って?」
白い湯気が上がるティーカップを前に椅子へ腰掛け、アリアは軽く小首を傾げてシオンを見る。
今日は珍しくシオンの方から用事があるから時間を作って欲しいと言われていたのだ。
「あぁ」
世間話などの余計な話はしたりしない。
来た時から小脇に抱えていた薄いバッグのようなものから書類を数枚取り出すと、シオンはそれをアリアの机の前に置く。
「?」
「これにお前のサインをして欲しい」
「サイン?」
なんだろうと軽く目を落とし、アリアはそこに書かれた内容に驚愕する。
(これって……!)
さらりと流し読みをしてわかった内容は大まかに二種類。以前アリアが呟いた公共交通機関の整備と、薬を売り出すための行程。その、発案者であるアリアへの一部利権書だった。
「こんなこと……っ」
自分が発案したと主張する気も利益の一部を貰うことも考えていないと慌てて否定するアリアへと、シオンは真剣な瞳を向ける。
「そんなわけにはいかないだろう。元はと言えばお前の案だ」
「……案、って……」
私はなにも……、と困ったように微笑して、アリアは小さく首を振る。
記憶の中の知識を呟いてしまっただけで、アリアはなにもしていない。その知識を使ってなにかしようとも思わなかった。アリアの呟きを耳にして、それを形にしたのはシオンだ。シオンだからこそできたこと。
まさかバス発言がこんなことになるとは思わなかったけれど、市民が気軽に遠くまで行ける手段ができるのはいいことだ。人の行き来が増えれば経済も活発化するだろう。
「公共交通機関に関しては、早ければ来月にも試運転が始まることになっている。これは確実に成功するだろう」
計画書を出した時、シオンの父親はもちろん、その上の国の機関もその発想に驚愕して即採用されたという。そして国の施策の一つとして起用・整備をし、事業・運営はウェントゥス家に一任された。
「この企画が上手くいけば確実に利益も上がる。権利の一部はお前にある」
シオンが前面に立って立案しているが、あくまで発案はアリアであり、二人の共同事業として黒字の一部はアリアに権利があるものだとシオンは強く主張する。
「でも……」
「薬の方は未定だが、こちらも準備が整い次第、すぐに市場に流せるように手配してある」
3ヶ月足らずでそこまで話が進んでいるのかと、アリアは驚きを通り越して感心してしまう。
仕事が早いにも程がある。しかも、忘れがちだが、天才とはいえまだ12歳の少年だ。
「……」
見つめ合うこと数十秒。
全く譲る気配の見えないシオンに、律儀だなぁ、と苦笑いが溢れてしまう。
公共交通機関のことにしたって、アリアは独り言を漏らしただけなのに。ちゃんと聞いてくれているのかと思うとくすぐったくなってしまう。
「……ここにサインすればいいの?」
結局はアリアが折れる形になって、室内に置いてあった羽根ペンへ手を伸ばす。
「あぁ」
さらさらっ、とペン先を滑らせて、空いたスペースへと名前を綴る。
(これでボールペンの話を出したりしたらどうなるかしら)
見た目美しい羽根ペンは、ゲームの見映え重視で考えられているのではないかと思う。正直使い勝手がいいとはお世辞にも言えないもの。
けれど、その後の展開を思うと恐ろしくて、そんなことは口にしない。
(あちらの知識は極力口に出さないように気をつけなくちゃ)
胸に刻み、アリアはふと思い立って顔を上げる。
「もし婚約解消する時には遠慮なく言ってね?ちゃんと権利放棄するから」
「…………ぁあ」
その言葉に、シオンはなんとも表現しがたい顔で首を縦に振る。
婚約解消後も共同事業を続けるなど、おかしな話だろう。
その時はきちんと身を引くから心配しないでと、アリアはにっこり笑ってみせる。
書かれたサインを確認し、インクが乾いた頃合いで、シオンは書類を整える。すぐにもそれを仕舞って帰りそうに見えるシオンの行動にアリアは思わず声をかけていた。
「ねぇシオン。まだ時間ある?」
良かったら付き合ってくれない?
決して強制ではないその誘いに返された沈黙は、シオンなりの肯定だと解釈し、アリアは「ありがとう」と微笑んだ。
*****
覚えたての火属性で火の刃を作り出し、ナイフ投げの要領で投てきすると、真正面からぶつかった氷の刃にあっさりと撃墜される。
シオンが水と風の融合で生み出した鋭い放水が迫ってくるのを感じ、アリアは光属性の小さな盾を作ってそれを阻む。
次に、地の力を借りて木の根のようなものをシオンの足下から出現させ、シオンを拘束しようとその先を伸ば……
したところで、カマイタチのような鋭い風の刃がそれを見事に霧散させる。
そのまま舞い上がった風が竜巻のようにアリアへと迫り……
「……く……っ」
それを押し返そうと同じ風魔法で臨戦するも、敵わず、アリアは唇を噛み締める。
(……だめ……っ!)
風に流され、身体が宙に浮く。
アリアの小さな身体が大地に激突するかと思われたその瞬間。
魔法陣の描かれたテーブルを挟んで向かい側にいるシオンの姿が目に入った。
「やっぱりシオンには敵わないわね」
ふぅ、と肩から大きく息を吐き、アリアは少しだけ悔しげに呟いた。
特殊な魔法陣を使って精神世界で魔法を行使する、現実の肉体にはなんのダメージを与えることもない、ゲーム内では主にレベル上げのために使われていた手法。
それを使い、アリアはシオンに手合わせを願い出ていた。
(ゲームではこれを応用して戦うのよね)
現実世界で戦えば、回りに甚大な被害が及ぶ。その為ゲーム内では、掌サイズの三角錐の中に小さな球体が入っている、"コア"と呼ばれる特殊魔具を使って、こことは違う、隣合った別次元でこの世界に影響を及ぼすことなく戦闘を繰り広げていた。
(なんかもう、ここまでくると突っ込みどころ満載だけど)
ゲームご都合主義にも程のある設定。
敵との戦いでいちいち周りを破壊するわけにもいかないということなのか、上手く出来ていると感心する。
ちなみに、特殊魔具を使った"結界"の展開は、魔法の基礎知識を学んですぐに全員が練習するものだ。各々のレベルにより強度に個人差もあったりで、ゲームの中では強制的に破壊されるような話もあったように思う。
「もう一回……」
そうしてアリアはもう一度と口を開こうとして、
「もう何度目だと思ってる」
呆れたように溢された細い吐息に苦笑いを浮かべていた。
「……だって、誰も相手をしてくれないんだもの」
通常、家庭教師から教えを乞おうとする時は、まず座学があって、それから周りになにもない広い場所で基礎魔法を習得するところから始まる。それから応用に入って実践へと移っていくのだが、アリアはよく、こうして一人で魔法強化に励んでいた。
歴とした王女だった母親は魔力そのものは高いのだが、その優しすぎる性格上、戦闘にはまるで不向きとしか言いようがない。忙しい父親や兄達に時間の合間で頼み込んでも、どうにもアリアに甘すぎて、こちらも本気の練習にはならなかった。
「……お前は一体なにがしたいんだ」
高等部へ行けば本格的な魔法演習は嫌でも行わなければならなくなるし、貴族の子息ならばまだしも、令嬢は通常学園に入るまでは基礎演習を家庭教師から学ぶだけでそれ以上を求めたりしない。アリアのように戦闘練習をする令嬢など異例中の異例だ。
「……趣味かしら?」
ゲーム開始時に向けてできる限り魔術を学んでおきたいというのもある。その為アリアは、父親に頼み込んでそれなりの家庭教師を時々呼んでもらっている。
けれど、それを差し引いても、あちらの世界にはなかった魔法というものを学んで操れるようになるのは単純に面白い。
ゲーム展開を考えてアリア個人が特に強化しておきたいのは回復系・防御系だが、元々水と光属性の強いアリアは、目まぐるしい成長を遂げていた。
「そういうシオンだって、相当じゃない」
貴族は幼い頃から家庭教師をつけ、ある程度まで魔力の応用も習っていたりもするが、やはり本格的には学園に入ってから、といのが通例だ。幼いうちはまだ魔力が安定しないだとか、魔術の組み立てが上手く行使できない、などと理由はあるらしいが、これもただの"ゲーム"のご都合主義ではないかとアリアは思ったりしている。
"ゲーム"ではシオンも初級レベルの魔法から始まって、段々と成長していくはずだが、現状はかなりのレベルまで上達しているように思われる。
恐らく、ゲーム開始直後の敵なんて一瞬で消滅させてしまうのではないだろうか。
「お前に完全に防御に回られるとさすがにキツイがな」
アリアが得意とするのは主に防御系と補助魔法系で、仮にも王女の血を引くアリアは、水属性に次いで光属性にもかなりの才がある。逆に攻撃特化の火属性は水属性とは正反対に位置する為、アリアとは少し相性が悪い。努力次第で少しずつ上達はするけれど、元の属性との相性はどうにもならないだろう。
そして日々自分の得意とする属性を中心に魔力を磨いているアリアは、"天才"と名高いシオンの目からみても相当なものだった。
「よければまた付き合って」
シオンとの演習はアリアにいい刺激をくれる。
黙ったまま深く吐き出された溜め息は渋々ながらも了承の意味だろうと理解して、アリアはにっこりと嬉しそうな微笑みを浮かべていた。