その唇は誰のもの?
「カイン王子にアベル王子…?」
「ご存知ですか?」
「いや…、わからないな」
王子というからには過去の王族の誰かだろうかというアリアの問いかけに、リオは考え込む素振りをみせた後に小さく首を振っていた。
もうお決まりになった学園内の一室で、いつものメンバーにルーカスを加えた面子が顔を揃え、一通り先日の出来事についての精査・報告が行われていた。
とはいえ、シャノンの精神感応能力に関しては本人の承諾もなくアリアが話すわけにはいかない為、その辺りは上手く誤魔化すしかなかったのだけれど。…尤も、この面子が上手く騙されてくれたかと言えば、それは表面上のことだけで、とても自信はない。
ただ、話の中心は「リデラ」と名乗った女の魔族についてのことで、なぜステラが多重人格者だということをアリアとシャノンが知っていたかについてはそこまで深く探られるようなことはなかった。
裏賭博の首謀者の近くにいただけでなく、ステラの父親にも近寄ってきた女は、どうやら神出鬼没のようだった。
彼らと"契約"を交わすわけでもなく、なにか目的を持って動いているというわけでもなく、ただ自分の享楽だけで動いているように見受けられた。
高位魔族であれば、基本的に最終目的は彼らが王と掲げる"魔王"の復活だろうと思うのだが、彼女はそれに関しては興味がなさそうだった。
魔王復活に興味がないと言えば、魔物の類いであるアルカナもそうなのだが、アルカナは元々「魔族」ではない。どちらかといえば魔族にさえ敵対している存在の為、そのアルカナが「敵ではない」と認めているということは、リデラもまた魔の世界から切り離された快楽主義者ということなのだろうか。
考えても答えが出るはずもなく、アリアは自分の知識にないことばかりの展開に、本気で頭を抱えていた。
このズレは、一体どこから生じたのか。
もしかしたら、すでに"前作"の時点で歪みが生まれていたのかもしれないと思えば、そこはもう諦めて受け入れるしかないように思えた。
"ユーリ"の身に起こる悲劇を回避したことを、アリアは後悔していないのだから。
ーー尤も、なにを間違えて自分がシオンに選ばれてしまったのかだけは、未だに大いなる謎なのだけれど。
「あの、"怪盗"を名乗るZEROという男も要注意人物だね」
顔と声とを潜めて口にされたルーカスのセリフに、アリアの鼓動が思わずドキリと高鳴った。
まだ怪盗行為をしていない現時点で、すでに国の上層部から目をつけられるようなことは非常に危険だと思う。
「闇魔法を操るんでしたっけ?」
話を聞き、驚いたようにルークが確認すれば、
「魔族でないことは確かだけどね」
あくまでも要注意人物であって危険人物ではなさそうだと、ルーカスは意味深にくすりと微笑っていた。
「とすると、魔族と"契約"を…?」
メガネを押し上げ、セオドアが低い声色で眉を潜めながらルーカスへと視線を向ける。
「その可能性が高いかな」
あの時、リデラが「アルカナ」と声をかけていた相手がZEROではなく、その肩に乗っていた猫であることは明らかだった。
その会話内容は一方的で、猫から発せられていた言葉はただの鳴き声でしかなかったけれど。
それでも両者の間では成立していたらしい会話から、ある程度のことは推測できる。
恐らく、ZEROが"契約"している相手は、あの猫なのだろう。
「魔族と"契約"してまで、一体なにが目的なんだろう…?」
顎に手をやり、少しだけリオは顔を曇らせる。
魔族と契約して得る力は、その魔族の能力に比例する。リデラが上級魔族であろうことを考えると、彼女と同等に対峙していたあの猫も上級の魔物であることを意味している。
つまりは、"契約"に払うための代償も、それなりのものが求められることになる。
そこまでしてZEROはなにを求めているのだろうとリオは考え込んでいるようだったが、アリアがその"答え"を告げるわけにもいかない。
"代償"というならば、確かに幼いギルバートが差し出したものは対価としてはそれほど犠牲を払っていないが、そもそもその前に両親の命を奪っているのだから充分な"代償"と言えるだろう。
「どちらにせよ、警戒しておくことに越したことはありません」
厳しい声色でリオへとそう提言するルイスに、アリアはこっそりと肩を震わせる。
(すでに警戒されてどうするの…!)
まだなにも起こしていないというのに、今からこれでは本当に先が思いやられてしまう。
「…アリア?」
そんなアリアへ、ユーリから「大丈夫?」と顔色がよくないことを指摘され、アリアはぎこちない微笑みを返していた。
「大丈夫よ。ちょっと混乱しちゃっただけ」
アリアの記憶にある知識と、知らない情報と。そしてそこから推測されることを考えていると本当に頭が痛くなってくる。
これから先、自分は一体どんな行動をすればいいのか。
「それにしても」
眉を潜め、セオドアがリオの方へと顔を上げる。
「人を操る能力なんて、厄介ですね」
「…上位魔族はみんなできたりするんスか…?」
セオドアの呟きに、ルークもまたルーカスの方を窺い見る。
こういったことに関する知識ならば、誰よりも実戦をこなしている天才魔道師の領分だろう。
「多分、それは術との相性の問題だと思うよ」
するとルーカスは手元のティーカップを傾けながら、さらりと自分の見解を口にする。
「僕たちにも得意分野と苦手分野があるように、できたりできなかったりするんじゃないかな」
それは至極最もな答えで、そうでなければ以前対峙したバイロンやヘイスティングスが使っていないはずはないと指摘するルーカスへ、アリアは「…あ…」と声を上げていた。
「アリア?」
「いえ…、ちょっと思い出したことがあって…」
首を傾げるユーリの顔をじっとみつめ、アリアはヘイスティングスがユーリに向かって話していた言葉を思い出す。
ーー『ちゃんと術をかけておいたのに』
ユーリがバイロンとヘイスティングスの元から逃げ出したあの時、確かにヘイスティングスはそうユーリに問いかけていた。
それはもしかしたら、ユーリに「この場を動くな」というような暗示をかけていたのかもしれないと思ったのだ。
ユーリがそれにかからなかったのは、ルーカスが言うようにそれがヘイスティングスが苦手とする分野だったからなのか、ユーリの無意識の光魔法がそれを弾いたのか、もしくはその両方が原因か。どちらにしても、ここで憶測ばかりを口にしても答えは出ないのだけれど。
「まぁ、そうだね。どちらにしても、あのリデラとかいう魔族は、幻影だとかそういった類いの能力に長けているんだろうね」
アリアの推測に軽く同意して、ルーカスは小さく息をつく。
夢魔やセイレーンのような架空の生き物は、そのモデルとなった魔族が実在しているのではないかと言われている。
その色香で人を惑わせる魔女。
そう考えれば、あの妖しいまでの艶かしさは納得いくような気がした。
「まぁ、厄介なことには違いないな」
まさにその毒牙にかかりかけたシオンは、その時のことを思い出したのか、酷く苛立たしげに吐き捨てる。
直接的な攻撃魔法よりも、人を惑わせる魔法の方が、時にはよほど面倒で質が悪い。
「先生は…」
「ん?」
「…使えたりするわけ?」
人を操る魔法。と、言い淀むように向けられたユーリの瞳に、ルーカスは一瞬だけ考えるように時を止めた。
ルーカスが"闇"魔法を扱えることをこの場で口にしてもいいのかと悩みながら問われたその言葉に、ルーカスは少しだけ可笑しそうな微笑みを溢していた。
「…試してみる?」
「え…」
それは、ルーカスもまた人を操る"闇"魔法を使えるということだろうか。
小さく目を見張ったユーリへと意味ありげな瞳を残し、ルーカスはパチン…ッ、と指を鳴らす。
「シオン。僕にキスしてみてくれる?」
「……」
微笑んだ先。ピクリと不快そうに蟀谷辺りを動かしたシオンが沈黙したまま睨むような視線を向け、それを受けたルーカスは「だよね」と面白そうに苦笑する。
「…一体なんだ」
「まぁ、君は元々僕に心を許してないからね」
不愉快そうなシオンの反応に思った通りの結果だったとでも言いたげにくすりと笑い、ルーカスは「じゃあ、次だね」と席を立つ。
「…ルーカス?」
「アリア」
アリアの隣まで来たルーカスはテーブルへと手をついて、無防備にパチパチと瞳を瞬かせるアリアへと艶めいた笑みを向ける。
先ほどと同じく、パチン…ッ、と指鳴らし、その音に反射的に肩を揺らしたアリアの瞳を正面から覗き込む。
「僕に、キスしてくれる?」
(…え……)
瞳の奥。その妖しい光に囚われたかのようにアリアは時を止める。
脳はなにも命令していないというにも関わらず、自然と腕が動いてルーカスの肩へと手が伸びた。
そしてそのまま。
なにかに操られるかのように椅子から腰が浮き、そっと瞳を閉ざしたアリアがルーカスへとキスの角度にその顔を傾けた時。
「可笑しな実験はしなくていい」
「きゃ…っ?」
ぐいっ、と。二人の間へと腕を差し入れたシオンがアリアの身体を抱き寄せて、アリアは強制的にシオンの胸元へと納められていた。
「まぁ、つまりはこういうことだよね」
わざとらしく空を仰いで、ルーカスは溜め息とともに肩を落とす。
結局"操れる"といっても、ルーカスにはこの程度が限界だ。
自分へ気を許した相手に不意打ちでないとかけられない。
だから、シオンは操れないし…、
「アリアが僕にキスをしてもいいと思う程度には心を許してくれているのは嬉しいね」
「っ、な…っ!?」
少しだけ賭けではあったけれど、目論見通りにいった結果に満足気に微笑んだルーカスへと、アリアは瞬時に真っ赤になる。
ルーカスは"前作"の"攻略対象者"。好きか嫌いかと問われれば、それはもちろん好きには決まっている。けれど、そんな深層心理をこんな形で暴かれるのは恥ずかしくて堪らない。
「僕ができるのはこの程度だよ。でも、逆にいえば僕程度でもこれくらいのことはできる、ってことだけどね」
基本的には光魔法が強ければ対抗できるはずだから、ここにいる面子はそれほど心配しなくていいと微笑んで、ルーカスは羞恥に潤んだ恨めしげな瞳を向けてくるアリアを見つめる。
シオンがリデラの術に堕ちてしまったのは、彼女の能力がかなり高かった為と、あの香がなんらかの役目を担っているのではないかと推測された。
「だから、ね」
意味ありげな微笑みに、アリアはびくりと小さく肩を震わせる。
パチン…ッ、と再度ルーカスの指が鳴り。
「アリア。もう一回キスしてくれる?」
「……」
にこやかな微笑みを崩さないルーカスへと、シオンが睨むような視線を向けるが、ルーカスは全く悪びれる様子はない。
そして、再び口にされたその暗示に、アリアが動く気配はなかった。
「…ほら、無理だろう?」
警戒されると通じないのだと、その証拠を実践してみせて、ルーカスは大きく息を吐つく。
「だからまぁ、僕程度じゃあんまり役には立たないよね」
この中で術にかかりそうなのはアリアとユーリくらいだと笑われて、アリアはもちろん、ユーリも「なんだよそれ…!?」と頬を膨らませる。
良い意味で言えば純真無垢。悪い言い方をすれば無防備で無警戒。
誰もが苦笑いしながらルーカスのそんな指摘に同意する中、ルーカスはシオンへと意味深な瞳を向けていた。
「お詫びに、もう一つ試してみてあげるよ」
「…なにが"お詫び"だ」
どうせ録なものではないと警戒を強め、腕に納めたアリアを守るように少しだけその腕に力を込めたシオンを無視して、ルーカスはまだ熱の引かないアリアをみつめる。
「お前は目を合わせるな」
反射的にルーカスを見返してしまったアリアの目を手で塞ぎ、その瞬間、パチン…ッ、と四度目の音が聞こえた。
「アリア」
妙に甘いその呼びかけに、警戒心が生まれると同時に、その言葉が身体に染み込んでくるような錯覚に襲われた。
「この中の誰でもいいからキスしてくれる?」
くすっ、と。意味ありげに向けられた双眸。
(…え……)
充分、警戒していたはずだ。
不意打ちの一度目ならばまだしも、そう何度もルーカスの思惑通りにはいかないと睨むような視線を返そうとして。
自分を抱き寄せていた人物の肩へと、アリアの意思に反して伸びる両の手に、アリア自身が一番驚く。
(嘘嘘嘘…っ!?)
その広い肩に手が添えられて、自然、踵が浮いて爪先立ちになる。
眼前にアリアの唇が迫っても、その相手ー、シオンは僅かに目を見張っただけでアリアを引き剥がすような気配を見せなかった。
(なんで…!?)
全く言うことを聞かない身体に半分パニックに陥りながら、アリアは目を閉じ、そのまま唇を重ねようとして。
「ストーップ!」
真っ赤になりながらも二人の間に割って入ってきた人物へと、アリアは心中ほっと安堵の吐息を落としていた。
「…ユーリ」
「お前はまた邪魔するな」
自らは全く止める気などなかったことを示唆して咎めるような声色を向けてくるシオンに、ユーリは呆れたような視線を返す。
「…お前なぁ…」
こんな人前で。と説教をしたところで、この友人にそれが通じるとも思えない。
むしろ堂々とアリアから与えられた権利を見せつける場を奪われたと反論さえされそうで、ユーリはただ溜め息を漏らすより他はない。
「"恥ずかしいから"したくないとは思っても、キス自体は嫌じゃない証拠かな?」
そこへ、しっかりアリアの深層心理を解説してくるルーカスの言葉が差し込まれて、アリアは火を吹く直前のように顔を真っ赤に染めていた。
嫌だとは思っていないから、こうも簡単に操られてしまう。
そう指摘されれば恥ずかしくてすぐにでもこの場から逃げ出したくなってくる。
それこそシオンとのキスなんて今さらで、すっかりシオンに染められてしまっている。それでもいつまでたっても慣れたりはしないし、いつだって恥ずかしくて堪らない。
「妬けるね」
言い訳をしたくてもなんの言葉も出ずにただただ困惑を極めている少女を見つめ、ルーカスはくすりと笑みを洩らしていた。
*****
「…なんか、思いっきり流れ弾に当たった気分なんだけど」
そんなこと、とうの昔から知ってはいたけれど、わざわざ見せつけてくれなくてもいいだろうと咎めるように向けられた恨めしげなユーリの視線に、ルーカスは少しだけ不貞腐れたような様子を見せていた。
「僕一人だけなんて癪じゃないか」
それは悪かったね。と謝罪する言葉には、全くと言っていいほど感情が込められていなかった。
「だからって、人を巻き込まないでください…」
はぁ、と大きく肩を落とすセオドアに、ルーカスは「おや?」と意外そうに目を丸くする。
「…なんですか?」
「いや?なんでもないよ?」
リオとルイスはすでに退席し、アリアもまたシオンに引っ張られるようにして帰って行った。
その為、今ここにいるのは残されたルーカスとユーリ、セオドアとルークだけだった。
「…なにはともあれ、気をつけないと、ですね」
そうして不意に真剣な瞳になったルークへと、三人は無言で頷いていた。