act.3-5 The goddess of Liberty
少しだけ時は遡り。
シャノンは、一学年下のクラスが並ぶ校舎の廊下を歩いていた。
"気にかける"とはいえ、年頃の異性へとそう直々会いに行くわけにもいかない。
だからこうして、何気ない風を装って教室に隣接する廊下から時々ステラの様子を窺うのが最近の習慣となっていた。
けれど。
ドン…ッ!と軽い衝撃があって、シャノンは思わずその勢いに負けて揺らめいた。
「ごめんなさ…っ」
自分の横を駆け抜けようとしていた影は、ここ数日シャノンが気を配っていた少女のもの。
ステラは自分がぶつかった相手がシャノンだと気づくと一瞬驚いたように目を見開いて、それからなにかを振り切るように顔を背けると再び走り出していた。
「待…っ!」
反射的に、ステラのその後ろ姿を引き止めるかのように手が伸びる。
だが、急激に自分の中へと流れ込んできた映像に、シャノンはくらりと頭をよろめかせると、その痛みに耐えるかのように唇を噛み締めていた。
「シャノン…!?」
遠くから、ちょうどのタイミングでやってきたアラスターが、額を抱えて苦しそうな表情をするシャノンの元へと走り寄ってくる。
(…コレは、ステラの記憶ーー!?)
ぐらりと傾く頭に、シャノンは必死に足元へと力を込めていた。
『お父様…っ!止めて…っ!』
髪を掴まれ、床へと叩きつけられたステラが、恐怖に駆られた瞳で自分の父親を見上げていた。
『アクア家の令嬢と懇意にしているそうだな?』
よくやった。と、残忍に歪められた唇。
『ちょうどいい。ウェントゥス家の子息を誘惑しなさい』
絶対的支配者に見下ろされ、細められたその双眸にステラは肩を震わせる。
『…お父…、さま…?』
父親のその言葉の意味をわかりかねて揺れる瞳に、男はうっすらとした笑みを浮かべる。
『正妻は無理でも、既成事実さえ作ってしまえば、第二夫人に収まるくらいはできるだろう』
『っ!』
出世欲の強い男が見出だした、自分がのし上がるための踏み台。
『そんなの無理です…っ!』
必死に首を振るステラへと、男の手が大きく振り上がる。
『…あ…っ!』
『無理じゃない。やるんだ』
バシン…ッ!と音を立てて頬へと放たれた掌。
『いや…っ!お父様…っ!止めてくださ…っ』
顔への暴力は一度きり。
後は目立つことがないように、腹部を蹴られ、背中を踏み潰される。
『痛っ…!止め…っ』
『可愛いステラ。いい子だからできるだろう?』
甘い甘い声で囁きながら、男の暴力は止まらない。
『そんな…っ、無理です…っ!』
彼の婚約者への溺愛ぶりは、目の前の父も知っているはずだ。
自分などの誘惑に乗ってくれるはずもない。
『嫌…っ!お父様…っ』
乱暴に髪を掴まれ、ぱらぱらと何本かの髪が抜け落ちていくのを視界の端で捉えながら、ステラは懸命に赦しを乞う。
初対面の人間ばかりのパーティーで放り出された自分へと優しく接してくれて、わざわざ自分に会いに来てくれた少女。
そんな少女を裏切るような真似などしたくない。
『大丈夫だ。彼女が協力してくれる』
『…彼女、って…』
父の言う"彼女"とは、ここ最近この父親に纏わりついている、不気味なまでに妖艶な女。
『できるな?』
『痛いっ、痛い痛い…っ、お父様…っ!』
暴力を受けながらの問いかけは、もはや確認ではなく強制だ。
『嫌です、お父様…っ!』
『やるんだ』
引き倒された身体を無理矢理吊り上げられ、その苦しみに顔が歪む。
『お前は、できる子だな?』
ガタガタと身体が震え、緩く頭を振ると涙の雫が宙に舞った。
『私の命令は絶対だ』
『嫌…っ、お父様っ、止めてくださ…っ』
いつしか持ち出された鞭がステラの華奢な身体へ振るわれ、ステラは少しでもその痛みから逃れるように背中を丸めて縮こまる。
『いやぁ…っ!もう、止めてくださ…っ』
『…できるな?』
怖くて、痛くて、恐ろしくて。
そうして、少しずつ正常な思考は失われていく。
ーー暴力に、支配される。
『やります…っ!やりますから…っ!』
もう許して…、と泣き濡れた顔は、そのまま気を失うかのように床へと倒れ込んでいた。
「シャノン…ッ!?大丈夫か…!?」
真っ青な顔をして今にもその場に倒れ込みそうなシャノンの身体を支えるようにして、アラスターはその顔を覗き込む。
「どうし…」
「…アラスター」
心配と焦りの混じった相棒の瞳にゆっくりと顔を上げ、それからシャノンはきゅっと唇を引き結んでいた。
「ステラの後を追ってくれ」
「…え?」
すでに見えなくなった後ろ姿へと顔を向け、シャノンは今視た映像から考えられるステラの今後の行動を予測する。
「多分、自宅に帰ったんだと思う」
「自宅、って…」
いくらアラスターが情報通だと言っても、最近知り合ったばかりの少女の家まで把握しているはずもない。
とはいえ、とても優秀なこの幼馴染みであれば、ステラの自宅を特定するのにそう時間はかからないだろうから、シャノンはアラスターへと信頼の目を向ける。
「そっちは頼んだ」
ーーそっち。
つまりは自分はどうするつもりなのだとアラスターは眉を寄せる。
「…お前は?」
みつめた横顔は強い意志を湛えていて、こんな顔をするのかと驚かされる。
ーー否、幼馴染みのこんな表情を見るのは二度目だった。
一度目は、カジノで幼い少女の救出に向かった際。
だからきっと、今度もまた。
「俺は別に行くところがある」
誰かを救うために動き出したシャノンへと、アラスターもまた一歩踏み出すことを決めていた。
*****
偶々ゆっくりと帰路に着いていたアリアは、馬車の窓から自宅の外門付近で焦った様子であちこちを見回しているシャノンを目にして、外へと降り立っていた。
「…シャノン?」
どうしたの?と、嫌な予感に駆られながら問いかければ、
「…アリアッ!」
馬車から降りてくるアリアの姿を見つけたシャノンがすぐに走り寄ってきて、アリアはその勢いに目を丸くする。
シャノンは、ステラを気にかけてくれると言っていた。
つまり、シャノンがこんなに急いでアリアの元へと訪ねてきたということは…、と考えて。
「なにかあ…」
「アイツ…、シオンは!?」
顔を潜めてシャノンの様子を伺ったアリアへと、思いもよらない質問が返ってきて、アリアは瞳を瞬かせていた。
「…家に帰ったと思うけれど…」
いくら仲の良い婚約者同士だからといって、いつも一緒にいるわけじゃない。
一体なにがと困惑するアリアに向かい、シャノンは焦った声を上げる。
「アンタの婚約者が危ない…っ!」
「…え…?」
シオンが"危ない"などと言われても、全くもってピンと来ない。
シオンの魔法力は最高クラスで、頭脳だって明晰だ。
そんなシオンが極普通の日常の中で窮地に立たされることなど、想像もできなかった。
「とにかく、すぐに来い!」
詳しいことは道中で話すからと先へ急ぐシャノンの様子に、さすがに危機感を煽られたアリアは、シャノンを同乗させた馬車を学園へと引き返させていた。