act.3-4 The goddess of Liberty
貴族社会において、家同士の政略結婚など珍しいものでもなんでもない。
だから、出世欲の強いステラの父親が、自分がのし上がる為に自分の娘を利用したとしても、ステラがそこから逃れる術はない。
それがまた上流貴族相手だとしたら、例えその地位が第二夫人だったとしても、男爵家の娘であるステラはそこに甘んじるしかない。
この世界で一夫多妻が認められているのは、基本的には王族だけだ。けれど、"家"を守る為には後継者が必要であることも確かな事実。その為、正式な妻としては認められていないものの、第二、第三夫人の存在は暗黙の了解ともなっている。
そして、その婚約話の中で、"事件"は起きる。
政略結婚は仕方のないことだと諦めて自分の運命を受け入れるステラと。暴力で娘を従わせてきた父親に憎悪を爆発させるステラの別人格と。
二人のステラが鬩ぎ合い、最終的に表層へと現れたのは、攻撃性の強い人格の方だった。
ーー『殺してやる…っ!』
憎しみに染まった瞳を父親へ向け、ナイフを構えてその懐へと走り込む。
父親を刺し殺すその瞬間、ほんの一瞬ステラの動きを止めたのは、別人格のステラだ。
ーー『…貴方に、もっと早く出会えていたらよかったのに…』
一周目の"バッドエンディング"。
父親に返り討ちにされたステラは、そう微笑んで永遠の眠りにつくのだ。
*****
ステラから自宅へ来て欲しいという手紙を受け取ったシオンは、一人でマルティネス家へと足を運んでいた。
普段であれば、形だけでも丁重にお断りをするか無視をするかだが、アリアがステラを気にかけていることを考えると、これはいい機会かもしれないと思えた。
闇の者と繋がりがあるかもしれない家の者と大切な少女とを、これ以上近づかせたくはない。そして、そんな危険が潜むかもしれない場所に、アリアを一緒に連れて来ようとも思えなかった。
華やかな花の文様が描かれた絨毯に、壁には豪奢な鏡と細かな刺繍が施されたタペストリー。置かれた家具もそれなりに贅沢品で、男爵家ということを考えれば全体的に豪華な作りだと言えるだろう。
待たされた来客室には、シオンの知らない異国風の特徴あるお香の薫りが仄かに漂っていて、なぜかそれがシオンを少しだけ不快にさせていた。
そして。
ココン…ッ、と。
軽いノックの後に覗かせた、見覚えがありすぎるほどあるその顔をみつめて、シオンは少しだけ驚いたように目を見張っていた。
「…アリア?」
それは、今日置いてきたはずの、愛しい婚約者の姿。
「ごめんなさい。驚かせちゃった?」
はにかむように微笑んで、少女は悪戯っぽい瞳を覗かせる。
「ちょっと話したいことがあって、ステラに頼んで呼び出して貰ったの」
「…なんだ」
悩むような仕草で小首を傾げて近づいてくる少女へと、シオンは訝しげな視線を向ける。
話があるならばわざわざステラに頼んで彼女の家へと呼び出さずとも、いつだって話すことはできるだろう。
「…その前に」
シオンの隣へと腰かけて、少女の身体がシオンの方へと向けられる。
「…シオン…」
そっと伸ばされた両の手に。
肩へと添えられた掌に、シオンは僅かに目を見張る。
「……好き」
そうして消え入るような声色で囁かれた言葉の衝撃に、シオンははっと息を飲んでいた。
「シオン……」
目を閉じた少女の唇が目の前まで近づいてきて。
艶めくその唇は、吸い込まれるほどにとても魅力的で。
ゆっくりと、互いの唇が重なりかけた時ーー。
ふわりと漂った香りと共に、シオンは少女の身体をぐいっと引き剥がしていた。
「…お前、誰だ?」
想い人と瓜二つのその顔に、苛立ちさえ滲み出た低い声が放たれる。
「…なに言ってるの?」
疑われ、戸惑うように揺れるその瞳すら、少女にそっくりだ。
好きだと言われ、例え嘘でもその甘美な誘惑に一瞬惑わされそうになった。
けれど。
「…女の子の方から誘うなんて、はしたないって呆れちゃったの?」
コトリと可愛らしく傾けられる仕草さえ、シオンの苛立ちを募らせるだけのものにしかならない。
「本物に誘われるなら大歓迎だ」
どこがどう、と具体的にはわからないが、もはや目の前の少女には違和感しか浮かばない。
本物はこんな風にシオンを惑わせてきたりしないと思えば、くすりと口元を刻んだ笑みはただ冷たいだけのものだった。
「…だったら抱いて?」
「アイツの偽物がなんのつもりだ」
自分の想い人は、この世にたった一人だけ。
誘うように甘えてくる想い人そっくりの擬物を見下ろして、シオンは不快だと言わんばかりの表情を浮かばせる。
少女と同じ顔、同じ姿で同じ声をして。
そんな忌まわしい言動をするなど、感じるものは嫌悪感以外のなにものでもない。
「……どうして……」
少女の瞳が動揺に揺らめいて、絶望にも近い色がそこに浮かび上がってくる。
「なんで…っ!」
ぐっと握った拳に力が入り、不安定に揺れていた瞳が一変して鋭い刃となってシオンへ向かいかけた時。
「あらぁ、失敗しちゃった?」
くすくすくす、と、空気を震わせる嫌に楽しげな笑みが響いて、シオンは扉の向こうから音もなく現れた女へと顔を向けていた。
「お前は…」
「変化の術は大成功のはずなんだけど」
どこからどう見てもそっくりでしょ?と、真っ赤な唇を引き上げる女は、見覚えのある顔をしていた。
豊満な身体のラインを強調する、胸元の空いた黒い服。自分の魅力を理解した上で、惜し気もなくその色香を醸し出しているその人物は、不法賭博事件の際に姿を眩ましていたあの女だった。
「貴方、すごいわね」
感心したようにシオンを上から下まで見下ろして、女はゆっくりと二人の方へと近づいてくる。
赤い口元へと手をやって微笑む女からは色気が漂い、まるでシオンへと誘いかけるかのようだった。
「まぁ、"変化"と言ってもほとんど幻みたいなものだけれど」
姿を変える魔法など、例えそれが"幻影"であったとしても、シオンの知る限り存在していない。
……ただしそれは、"人間の身で"の話。
"変化"と聞いてすぐに思い当たることは一つある。
「……魔族、か?」
ルーカスがステラの父親から匂ったと指摘した"闇の残滓"。
目の前の女が"闇の存在"であるならば、全てに合点がいく。
ピリリとした緊張感を漂わせて口を開いたシオンの問いかけに、女は意味ありげに赤い唇の端を引き上げただけで、否定も肯定もしなかった。
くすっ、と楽しげに洩れた小さな微笑みに。
室内に籠っていた異国の馨りが嫌に鼻につく。
「所詮、偽物ね」
少女の姿そのものを変化させるわけではなく、少女を見た者へと偽りの姿を投影させるもの。
もしかしたらこの不快な香は、幻を見せるための何らかの役目を担っているのかもしれない。
「…残念だわぁ」
つまらないわね。と呟く女は、その台詞に反して随分と楽しそうだった。
そうしてアリアの擬物へとチラリと視線を投げ、軽く手を払ったその後には。
「…お前は……」
シオンへ向かい、憎悪を剥き出しにしたステラの姿があった。