La traviata ~ノア・スタンリー~
この世界にも、貴族の趣味として。淑女たちの嗜みの一つとして、「観劇」というものは存在している。
アリアは今日、オペラが観たいという母親に付き合わされて歌劇場へと足を運んでいた。
完全に"あちらの世界"の"ロイヤルオペラハウス"をモデルにしたとしか思えない豪華な建物で、元王女の母親は当然のように一番の特等席に座って素敵な歌声を楽しんでいた。
演目は『椿姫』。青年貴族が高級娼婦に恋をする物語。真実の愛を見つけるものの、父親の反対で引き離され、最終的にはその恋人を病で失くしてしまう悲恋モノだ。
「アリアちゃん、ちょっと」
終演後。魔法学園時代の友人を見つけたと嬉しそうに声をかけてきた母親に、アリアはにっこりとした微笑みを返す。
「一人で帰れるから大丈夫よ?」
久々に会った友人ならば弾む話もあるだろうと、アリアは気を遣って別々に帰ることを提案する。
「初めて来たから、私も少し中を見学してみたいし」
白い壁に、たくさんの絵画。赤い絨毯の敷かれた階段に、金色の装飾が光っている。
"イギリス旅行"をした際に、実際歌劇場へと足を運んだことがある身としては、"懐かしい"という気持ちで中をゆっくり探索してみたい気持ちに駆られていた。
「そう?」
休日のまだ陽の高い時間帯。元々治安に優れている王都でなにかが起こることもないから、アリアの母親も特になにも気にすることなく娘の好意を受け入れる。
「気をつけてね」
「お母様こそ」
自分より、温室育ちの母親の方がよっぽど一人歩きは心配だ。
迎えの馬車をもう一台手配しておくことを約束して、アリアは一人で歩き出す。
ガラスでできた円形の屋根。ステンドグラスがキラキラと輝き、幻想的な雰囲気を醸し出す。
金色の手摺が光る階段を登り、終演からしばらくたって誰もいなくなった広いホールを進んでいく。
いくつか並ぶ特別室。なぜか薄く扉が空いていた一室を覗き込み、アリアは誘われるように中へと足を踏み入れる。
(ピアノ…?)
広くもなく狭くもないその部屋の片隅に。一台のグランド・ピアノが置かれていた。
(懐かしい…)
思わず過去の記憶に囚われて、アリアはそのピアノの傍へと歩み寄る。
この世界の貴族は、基本的に音楽を目と耳で楽しむことはあったとしても、自ら演奏するようなことはない。恐らく上級貴族で楽器を習っているような子息子女はいないだろう。
もちろんアリアも楽器に触れたことなどないが、もう一つの記憶の中では、幼い頃からピアノを習っていた。
(…誰もいないわよ、ね…?)
懐かしさに、ついつい触れてみたい衝動に逆らえず、アリアはきょろきょろと辺りを見回した。
当然ながら、室内には誰もいない。そして、部屋の外にも、アリアのわかる範囲内では誰の気配もしなかった。
(少しだけなら…)
「…これ、トルコ行進曲?」
広げてあった楽譜を見て、遠い記憶で覚えのある楽曲に、アリアは小さな呟きを洩らす。
誰かが練習用に弾いていたのだろうか。
確か、"小学校中学年"くらいで弾いた、それほど難しくはない楽曲だ。
「…これくらいなら弾けるかしら?」
なにせもう、何年もピアノになんて触れていない。
それでも初級程度ならばなんとか弾けるだろうかと恐る恐る指を伸ばし。
(なんとなく、くらいなら…)
まだなんとか読める楽譜に悪戦苦闘しながらも、一応はそれらしい音が指先から紡がれたのに、アリアは納得できないというように眉を寄せる。
(もう一回…っ!)
"昔"は、もっとハイレベルの楽曲も弾いていたというのに。
なんとなく悔しくなって、ついつい夢中になって弾いてしまう。
そうして何度か同じ曲を繰り返し弾くこと十数分。
「…あっ、割りと弾けるようになったかも」
時々間違えながらも一応はそれなりの形になった音楽に嬉しそうに笑みを溢し。
「下手くそ」
その瞬間、後方からかけられたその言葉に、アリアは反射的に振り返っていた。
「な…っ」
集中していて近づく人の気配に気づかなかった。その為、突然かけられた声に驚いたことはもちろんのこと、けれど、かけられた言葉の一言が一言だ。
「『下手』って…っ!」
決して上手くなど弾けていないことの自覚はあるけれど、初対面の人間に対してその言葉はないだろう。
が。
(……ノア…!?)
華奢な身体に翠色の髪。人を小馬鹿にしたようなその毒舌キャラは。
ーーノア・スタンリー。
まさかこんなところで会うとは思わない、「2」の"攻略対象者"の一人。
(なんでこんなところに…っ?)
確かにピアノは音楽家であるノアの専門で、そう考えればこうなるべき予兆はあったのかもしれないけれど。
「マジで下手くそだな」
あまりの驚きに一瞬思考回路が停止するアリアへと、情け容赦ないノアの評価が突き刺さる。
彼はとにかく毒舌で、ものすごく口が悪いのが特徴だ。
「っ、仕方ないでしょっ、もう何年も弾いてないんだからっ」
「…何年も?」
思わず口から突いて出たアリアの言い訳に、ノアの眉が訝しげに潜められる。
見るからにまだ"少女"のアリアが、「何年も」と口にするのは確かに不審だろう。
「っ、とにかくっ、すごく久しぶりなのっ」
「ふ~ん?」
"初代"の"攻略対象者"が上級貴族ばかりだったせいか、"今回"の彼らは随分と砕けた態度の"キャラ"ばかりだ。
慌てて食い下がるアリアへと小馬鹿にしたような視線を向けて、ノアはそれでも一応は納得したらしい様子を見せていた。
「まぁ、アンタみたいな令嬢がピアノを嗜むなんて珍しいもんな」
身につけているものなどで貴族令嬢だということを察したらしいノアは、皮肉気に笑みの形へと唇を型どると、アリアのすぐ隣までやってくる。
「もう一回弾いてみてよ」
「嫌よっ」
酷く楽しそうに口にされたアンコールは、確実にアリアを馬鹿にしている様子が見て取れる。
(絶対に録な感想じゃないことなんてわかりきってるもの…っ!)
将来を期待される超毒舌ピアニストの前で楽曲を奏でて見せる強い心臓など、アリアは持ち合わせていない。
「ある意味癖になる下手さ加減だったんだけど」
「そこまで言うなら貴方が弾いてみなさいよっ」
売り言葉に買い言葉でそう言って。
(…あ……)
途端、目を丸くしたノアへと、アリアは自分の失言を後悔する。
(…そうだった……)
ーーノアは、精神的なものから、ピアノが弾けなくなっている。
「…オレに無料で弾かせようなんて思うなよ?」
だが、アリアの動揺など気づかぬ様子で、ノアはあっさりとアリアの要求を切り捨てる。
ピアノが弾けなくなっているとはいえ、確かにノアはこういう性格だ。
「…随分な自信家ね」
「オレにはそれだけの才能があるからな」
ふんっ、と鼻を鳴らすノアからは、ピアノが弾けなくなっていることへの焦燥感など微塵も感じられない。
"ゲーム"でノアのことを知るアリアでさえ、その態度だけ見れば"ゲーム設定"の"呪い"など彼にはかからなかったのではないかと疑ってしまうほどだ。
そこへ。
「…アリア…、様、ですか?」
ふいに現れたもう一つの人影に。その聞き覚えのある声色に、アリアはその声がかけられた方へと振り返る。
「…ギルバート…、様…?」
"子爵"仕様のギルバートは、卒のない仕草でアリアとノアの元へと歩み寄りながら、目だけは「なんでまたお前がここにいるんだよ」とでも言いたげにアリアの顔を見つめてくる。
(それはこっちのセリフよ…っ!)
とはいえ、"攻略対象者"の一人であり、"ゲーム"の中では今後ZEROの"仲間"となるはずのノアにギルバートが近づいているのは当然で、アリアは思いもよらないこの出逢いに内心とても慌てていた。
「"アリア"?」
だが、そんなアリアの動揺も、大きく目を見張ってその瞳を瞬かせたノアによってすぐにどこかへ飛んでいく。
「アンタ、"歌"って名前なの?」
驚いたように確認を取ってくるノアへと、アリアは沈黙で肯定する。
自分の名前が音楽に関係するものなど、目の前の毒舌少年に知られたらなにを言われるかわからない。
「完全に名前負け」
「!」
くっくっと人を小馬鹿にしたように楽しそうな笑みを溢すノアへと、アリアは悔しげな瞳を向ける。
ノアのように音楽の才能に溢れているわけではないが、父親と母親から貰った一生ものの"名前"は、とても大切に思っている。
「…知り合い…、ですか?」
「それはこっちの台詞」
アリアを見、ノアの方へと顔を向け、戸惑うように向けられたギルバートのその瞳に、ノアは「今知り合った」と淡々と口にする。
アリアの"記憶"によれば、ノアは平民だけれど少しだけ魔力があって、ギルバートとは同じ学校という設定だった。
一学年上のはずのギルバートに対しても、ノアの毒ある性格は変わらない。それでも、それなりに親交を深めているのか、二人の間からは少しばかり気安い雰囲気が見て取れた。
「…なぜ、貴女がここに?」
「…お母様が『椿姫』を観たいっていうから…」
口調と雰囲気は丁寧ながら、その瞳だけは「今度はなんだ」と言いたげに鋭い光を見せるギルバートに、アリアは気圧されたように口を開く。
「アンタも観てたんだ?」
母親に付き合わされて。と告げるアリアに、ノアもまた同じ舞台を鑑賞していたらしい疑問符を投げていた。
「…二人も?」
完全な部外者が素通りで中に入ることができる場所でもない為、ここにいる時点でなんらかの関係者であることは明白だ。
音楽家のノアであればその関係でここに来ているのかとも思ったが、どうやらきちんと鑑賞していたらしい。もしかしたら、知り合いが今回の舞台の参加者だから、などという理由はあるかもしれないが。
「別に一緒に観てたわけじゃないぜ?偶々だ」
ギルバートはなんらかの目的を持ってノアに近づく為にここまで足を運んできたのかもしれないが、そんなことなど知る由もないノアは、先輩との偶然の出逢いにアリアへと軽く空を仰ぐ。
「で?そっちはどういう関係?」
それからアリアとギルバートを交互に見遣り、ノアはニヤリと口許を歪めていた。
「椿姫と貴族青年とか?」
「っ」
からかうように投げられた台詞に、アリアは反射的に息を飲む。
単に先ほど観た舞台にかけて面白がっているだけだとはわかるものの、ギルバートと"恋人関係"などとは冗談でも止めて欲しい。
「言い得て妙ですね」
けれどギルバートはノアの可笑しそうなその揶揄に、くすりと意味あり気な笑みを溢していた。
「なに、パトロンとかいるわけ」
その女。と少しだけ驚いたように目を丸くするノアへと、ギルバートはチラリとアリアに視線を投げてから口を開く。
「他の男に指一本触れさせないように目を光らせてる恐い婚約者がいますかね?」
「っ!」
ギルバートがそう揶揄する相手は、もちろんシオンのことに他ならない。
(だからどうしてそんなに挑戦的なのよ…っ)
本人不在だというにも関わらず、どうにもシオンには闘争心が煽られるらしい。
アリアは目だけで窘めるような空気を醸し出すが、ギルバートは素知らぬ顔で意味深な色をその瞳に浮かべるだけだった。
「へー」
こちらも面白そうに口元を緩めてアリアを眺めてくるノアへと、アリアは少しだけ焦りの滲んだ否定の声を上げる。
「ただの知り合いですっ」
「ただの、はちょっと酷くないですか?」
「…ギルバート様っ!」
表向きだけ紳士な雰囲気を装って、意味ありげに触れてこようとするのは止めて欲しい。
妙に近づいてくるギルバートから半歩距離を取り、アリアは睨むような視線を送っていた。
「で?こんなところでなにをしてたんですか?」
一通りアリアの反応を楽しんで気が済んだのか、ギルバートは思い出したかようにノアへと不思議そうな目を向ける。
するとノアは途端吹き出す寸前のような表情をして、可笑しそうにアリアのことを指差していた。
「コイツがめちゃめちゃピアノが下手だから」
「失礼ねっ」
"ゲーム"で知ってはいたけれど、その毒舌ぶりが実際に自分へと向けられると、ついつい反射的にムキになってしまう。
むぅ、と頬を膨らませるアリアへと、ギルバートは意外そうに目を丸くしていた。
「…ピアノが弾けるんですか?」
上級貴族は、演芸事は見聞きが専門。
場合によってはお抱えの芸術家がいる場合もある。
そんな"常識"でギルバートのその驚きは尤もで、アリアは肯定し難そうに頷いてみせる。
「…昔、少し齧った程度だけれど」
もう何年もピアノに触れていない、かなり腕の落ちた今現在のこの実力で「弾ける」と口にするのは憚れるけれど。
「"歌"って」
マジウケる。と、思い出し笑いで吹き出すノアに、思わずカチンときてしまう。
「…っ!次までにはもっと弾けるように練習しておくわよっ」
「へー。それは楽しみだ」
どこまで上達するか見物だな。と、ノアは明らかに無理だと決めつけている様子でニヤニヤとした人を小馬鹿にした笑みを崩さない。
「馬鹿にして…っ」
そうして二人は、知らないうちに「次の機会」というまた会う約束を取り付けてしまっていることに気づかない。
「アリア」
「人の名前を連呼しないでっ」
くっくっと楽しそうに肩を震わせるノアへと、絶対に見返してみせると変な対抗心を燃やすアリアだった。
"攻略対象者"の一人、ノア・スタンリー。
彼は、あるトラウマからピアノに触れることができなくなってしまっていた。
そんな彼に救いの手が伸ばされるのは、まだもう少しだけ先の話になる。