番外編1 僕の嘘31(コンラート視点)
よろしくお願いします。
母上はしばらくして目を覚ました。明瞭ではないものの言葉を紡いでいる。僕は母上と父上やユーリとのやりとりを黙って聞いていた。だが、ユーリが心配しているのに母上が返した言葉には看過できなかった。
「……そんなものは必要ないわ。わたくしなんて、どうなっても……」
──あなたはまた……!
そうやって目を瞑った結果、自分が心を閉ざしたのだとわかっているのだろうか。
誰もが皆、母上を追い詰めたことを悔いて、家族になろうと頑張っているというのに。
「母上、いい加減にしてください」
僕は皆から顔を背ける母上を睥睨して言った。今の母上は顔だけでなく、心まで背けようとしている。そうやって逃げるのなら踏み込むしかない。僕は敢えて厳しい言い方を選ぶことにした。
だが、ユーリはまた母上が傷つくのではと、僕を止めようとする。
「コンラート、あまりきついことを言っては……」
「……わかってるよ。だけど、このままでは今までと何も変わらない。僕に任せてくれないか?」
ユーリは不安そうな顔をしながらも僕に任せてくれた。ここで僕が感情的に怒りをぶつけるだけでは、母上はきっとまた逃げてしまう。だから、僕は静かな口調で話しかけた。僕はあなたと話がしたいのだということを伝えるために。
「……母上。ニーナの話をした後に倒れたのを覚えていますか?」
「ええ……」
「その後のことは?」
「……いいえ」
短い言葉でも母上が返事をしてくれることに安堵の溜息が漏れる。話を聞いてくれるなら、僕はまず先に謝ろうと思っていた。
「……父上も僕も、母上が現実から逃げたくなるまで追い詰めたことを反省しています。母上が回復すれば話し合いたいと思っていました。もう逃げるのはやめませんか?」
「……話し合って何になると言うの。もう全て壊れてしまったのに……」
「違うでしょう? 壊れるも何も、始まってすらいなかった。そもそも僕らが家族だったことがありますか?」
言いながら胸が痛む。
家族になろうと子どもの頃、僕は努力したつもりだ。構ってくれない両親に一所懸命に話しかけ、追いかけて、わかってもらおうとした。だが、僕一人で頑張ってもダメなのだ。相手に通じなければ、一方通行では成立しない。
母上は僕の言葉に傷ついたのか、すすり泣く声が静かな室内に響く。
事実から目を背けていては前に進めないことも、母上に知って欲しかった。僕は自分の弱さを受け入れることでユーリと向き合うことができたのだから。
「……だから、新しい形で始めませんか?
僕はあなた方に見向きもされなくて、誰も信用できなかった。だからユーリもニーナも、自分の手で守らないといけないと意固地になっていました。その結果、ユーリも母上も傷つけてしまって、申し訳ありませんでした……
それに、僕にも子どもが生まれたんです。だけど、僕には愛された記憶がないから、ウィルフリードの愛し方がわかりません。だから、教えてくれませんか? 母上が先程言った言葉が間違いではないのなら……」
母上はそんなことは言っていないと認めないかもしれない。それでも僕は、一時でも幸せな夢を見ることができたのだからもういいと思った。
「夢……だと、思ったのよ……」
僕の気持ちを見透かすような言葉に僕は驚いた。だが、そこまで言うと母上は咳き込んでしまった。無理もない。しばらくぶりに話したせいで喉が悲鳴をあげたのだろう。そこで父上が母上に水を飲ませて、母上は落ち着いたようだ。
「それで、何が夢だと思ったのか、教えてくれますか?」
僕が問いかけると、ようやく母上は僕を見てくれた。目を腫らし、憔悴した様子の母上は初めて見る。心を閉ざしていた時はここまで弱っていなかった。母上もずっと強いふりをしていただけなのだと、今はわかる。
「……あなたが生まれた頃の夢。ユーリが抱いている子があなたに似ていたから……」
「覚えていたのですか?」
「……忘れたとわたくしも思っていたわ」
「だけど、どうして混乱したのですか?」
「……似ているけど、やっぱり違う。それならあの子は、と思ったら成長したあなたがいたから、何が現実なのか、わからなくなった……」
憎い父上に似ている僕は、母上にとっては見ることが辛かったのではないのだろうか。僕には母上の気持ちがわからない。返す言葉が見つからず、僕は黙るしかなかった。
すると、ユーリがぽつりと言った。
「お義母様はコンラートを愛しているのですね」
何故そうなるのだろうか。ユーリには母上の気持ちがわかるようで、説明してくれた。
「お義母様は、すごく嬉しそうにあなたを呼んだのよ。幸せな夢だったからでしょう? お義母様、そうではありませんか?」
「……ええ、そうよ。わたくしはずっと後悔していた。どこで間違えたのかわからなくて、やり直したくてもどう修正すればいいのかもわからない。だから、一番幸せだった時に戻りたかった」
一番幸せだった時に戻りたかった。母上は確かにそう言った。それはひょっとしてこういうことだろうか。僕は期待を込めて母上に尋ねる。
「……僕が生まれた時が一番幸せだったんですか……?」
「ええ……実家にいても誰にも顧みられることもなくて、ようやく家族ができたと初めは嬉しかった……
……だけど、ほとんど顔も合わせない夫にあなたが段々似てくるのが辛くなってきた……
夫の愛人から嫌味を言われ続けて耐えること、欲しくもないのに子爵夫人としての体裁を整えるためだけに形だけの夫に金銭や物を強請らなければいけないこと、何より夫に顧みられないこと……
わたくしは自分が酷く劣った人間に思えて、自分が嫌いだった。そして、わたくしを惨めな気持ちにさせるあの人も嫌いになった」
そうやって母上は徐々に歪んでいったのだ。父上を横目で見ると、父上は辛そうに顔を顰めている。長年かけて追い込んでしまったことに責任を感じているのだろう。
「……あなたに八つ当たりをしそうで怖かった。自分が受けた仕打ちを人にはしたくなかった……なんていうのは言い訳に過ぎないわね。結局わたくしは逃げたのだから。あなたがわたくしを憎むのは当然よ」
母上が受けた仕打ちとは何だろうと思ったが、聞くのはやめた。きっと母上は実家で僕が思ったような待遇だったのだと思う。
それよりも、母上の最後の言葉について考えてみた。憎むというよりも母上に対しては恨めしい気持ちが強かった。僕がこんなに話しかけても興味も持ってくれない、と。
子どもだった僕は、自分が思う分だけ母上は思いを返してくれるはずだと思っていた。報われない思いがあるとは露にも思わなかったのだ。そして、それはいつからか諦めに変わっていった。
「……僕は正直、あなたを憎んでいるかはわかりません。そこまでの関わりがありませんでしたから。ですが、こうして心配するくらいにはあなたのことを思っています……僕はずっと、あなたに振り向いて欲しかっただけなのかもしれません。あなたの先程の言葉を聞いて動揺しましたから。本当の気持ちを教えてくれませんか?」
「あ……ああ……」
母上は口を押さえる。やっぱり言ってくれないかと期待は少しずつ薄らいでゆく。だが、母上は言ってくれた。
「……愛しているに決まっているでしょう……」
──僕はずっとその一言が聞きたかったのだ。
ユーリからは聞いたことのある言葉。そして僕を長年苦しめてきた言葉。
子どもの僕が歓喜に震えている。僕はどうしてこんなに両親の愛情にこだわっていたのかずっとわからなかった。ユーリが愛してくれているのがわかっているのだから、もうそれで充分なはずだった。
だが、僕という存在を形作ったのは両親だ。その両親に否定されたことで、僕は僕の存在を否定されているようで辛かった。
生まれてきたことが間違いだった、誰からも必要とされないということは僕自身の自己肯定感を歪めてしまった。
母上の言葉を聞いただけで、すぐに自己肯定感が回復するわけではないとわかっている。それでも、これは僕にとって大きな一歩だ。僕はこれから少しずつでも自分を好きになっていけるのかもしれない。
「……先程は聞き間違いか、嘘なのかと思いました。だけど、混乱していたあなたが嘘を吐く必要はないでしょう。僕はその言葉を信じます。
それじゃあ、今度こそ父上とも向き合ってください。母上の悪いようにはならないはずですから……」
父上を許すかどうかは母上次第だ。だけど、母上の中にまだ父上を思う気持ちが残っているのなら、母上のためにも気持ちを昇華するべきだと思う。
これ以上は夫婦の問題だと、僕はユーリと一緒に部屋を後にした。
読んでいただき、ありがとうございました。




