番外編1 僕の嘘27(コンラート視点)
よろしくお願いします。
駆け出した僕の頭には、ただ逃げたい、それしかなかった。見たくない現実や気づきたくなかった自分の心から。だから無意識に選んだのは子どもの頃に逃げていた場所だった。
だけど、今は母上は心を閉ざし、父上が愛したのはクライスラー男爵夫人だけで、あの頃僕を愛してくれた乳母はもういない。
「……僕は馬鹿だな。またあの頃と同じように誰かが探しに来てくれることを期待するんだから」
自嘲するように乾いた笑いが溢れる。
これからのことと言われても、もう決まってしまっているではないか。母上は静養、父上はそんな母上の看病をする。そして僕は父上のように一人でこの家のために尽くすのだ。心を殺しながら。
もう嫌だ。どうせ僕には力なんてないのだから。
自分の無力感に苛まれていると、外から僕を呼ぶ声がした。
「コンラート? そこにいるんでしょう?」
ユーリだ。情けないところばかり見せて、嫌になっているのではないだろうか。いたたまれなくて、すぐには出て行けなかった。
だが、出て行ってユーリの姿を見たらたまらない気持ちになり、僕はユーリを腕の中に抱き込んだ。
僕はあの頃と違って一人じゃない。守りたい人がいるのだ。
「……頭を冷やそうと思って飛び出したのはいいけど、どこに行けばいいかわからなかったんだ。結局思いついたのは、子どもの頃の逃げ場なんて、僕は全く成長していないってことなんだろうね」
「……ご両親のことがあったからじゃないの?」
「そう、かもしれない。子どもの頃から見ないようにしてきたものを突きつけられて、どうすればいいかわからなくなったんだ。さっき、父上の話を聞いて、母上同様、許せない気持ちと理解できる気持ちがせめぎ合って苦しかった。父上も、ニーナを守るために君を蔑ろにしてしまった僕と一緒だったんだ。そんな僕に父上を責める資格なんてないんだよ……」
「……私もそう。あなたの気持ちなんて考えることなく、自分のことばかりでわかり合う努力をしなかった。それはお義父様もお義母様も同じ。こうなる前に気づけばよかったと思っても、もう戻れない……」
ユーリの言葉が胸に刺さる。僕は目を背け続けていた自分の責任を痛感していた。
「……そうだね」
「だから、また始めましょう?」
「え?」
「私はお義母様が回復することを信じているわ。今は疲れているから休んでいるの。また、元気になったら色々話すつもりなのよ。私はもう後悔したくないから」
ユーリはまだ信じているのだ。全てが壊れたわけではないと。ユーリの瞳の中には強い光が宿っていた。僕は思わずユーリに見惚れる。僕はユーリのそんな強さに憧れていたのだ。
「それに、こうなったからにはもう、意地を張る必要なんて、お義父様にしろ、あなたにしろ、ないわ。当主交代については私にはわからないけれど、あなたが仕事で困ったら素直にお義父様に助けを求めればいいと思うし、お義父様がお義母様のことで困ることがあれば私たちが力になればいい。それが家族なのではないの?」
「……それは」
「それに、色々なことを間違えてしまった私たちにはお義父様の覚悟を見届ける責任があると思うの。みんなでまた、やり直してお義母様が元気になった時に支えましょう?」
これまでずっとバラバラだったものが、そんな風に変わることができるのだろうかと、僕には自信がなかった。
「……そんなことできるんだろうか」
「できるかじゃなくて、やるの。わかり合うためには努力しないといけないって、あなただってわかったでしょう?」
できるかではなく、やるんだという意思。だからユーリの言葉には力があるのだ。そして、それが僕には欠けている。
「そうだね。だけど、不安なんだ……」
ユーリやニーナを守りたいと思っていた時のような強い気持ちが両親には持てない。期待と不安、憎しみが交錯して、自分でも両親に対する気持ちがよくわからないのだ。
「……嫌いになれたらよかった。憎むことができていたら、あんな状態になった母上を見て、ざまあみろって思えて楽だったのかな……
だけど、できないんだ。また、拒絶されるかもしれない、そう思っていても、家族に戻れるんじゃないかと期待してしまうんだ……
おかしいだろう? 家族だったことなんて一度もなかったのに」
「違うと思うわ。あなたは表面上では否定していても、心の奥底では家族だと思っていたのよ。期待することに疲れたから、封じ込めていただけ」
ユーリには見抜かれている。自分が本当に情けない男で落ち込みそうだが、ユーリは至って普通だ。そんな僕でも嫌わないでいてくれるということなのだろうか。僕は本心を吐露した。
「……そうだね。どんなに思っても一方通行だから、自分が惨めになりそうで、なんでもない振りをしていた。つまらないプライドだよ」
「もう、それも終わりにしましょう。これ以上みんながバラバラになるのは辛いわ……」
「……ああ。僕ももう嫌だ。もう目を背けるのはやめる。きちんと父上とこれからの話をするよ」
つまらないプライドなんて捨てて、僕は弱さを認めなければいけない。そのために父上に助けを請うことも必要とあればしよう。今の僕では何一つ守れない。
「それがいいわ。思うところはあるだろうけど、言葉を端折るのはやめてちゃんと向き合って話しましょう」
僕はユーリの言葉に頷いた。これからもきっと僕は情けない姿をユーリには見せるのだろう。それでも僕から離れていかないユーリを信じて、僕は自分の弱さに立ち向かいたいと思う。
そして僕らは父上の元に戻ってこれからの話をした。今はバラバラになるよりもそれぞれが分担して補う方がいいと父上を説得したが、父上はまだ渋っていた。そんな僕をユーリが援護する。
「お義父様、私からもお願いします。元々は私とコンラートがすれ違って、お義母様を巻き込んでしまったからこうなってしまったんです。私にもお義母様と関わる権利をください」
「いや、別に君は……」
「そうだよ。ユーリは……」
悪いのはユーリではない。僕がユーリの気持ちを無視してユーリは傷つき、母上はそんなユーリを守ろうとしただけで、誰の目にも僕が悪いのは明らかだ。だから気にしなくていいと言いたかったのだが。
「関係ないなんて、寂しいことは言わないでください。私は家族ではないのですか?」
また僕はやってしまうところだった。気にしなくていいというのは、ユーリは当事者じゃないからと弾いてしまうことにもなるのだ。ユーリは責任を負うことで、僕らと関わりたいと言いたかったのかもしれない。
父上はようやく頷いてくれた。
「……ありがとう。君たちの好意に甘えることにするよ」
「父上、それじゃあ……」
「ああ、お前の提案に乗るよ。考えてみれば私に何かあった時にお前たちがいれば、アイリーンも困ることはないだろうし」
「父上、縁起でもないことは言わないでくれませんか」
「いや、いつ何が起こるかわからないことを今回思い知ったからな……」
後悔を滲ませる父上の言葉は、僕の気持ちを代弁していた。何が起こるかわからないから、今を、人を大切に生きること。それを僕は思い知った。
それからユーリは、両親の部屋を一緒にすると決め、僕らは本邸で皆で暮らすことに決めた。また僕はユーリの気持ちを聞かずに勝手に決めてしまって謝ったが、ユーリはそんなに気にしてないようだった。
「いいえ。私の気持ちが伝わったのかと思ってすごく嬉しかったの。お二人は私にとっても大切な方々だから」
「どうして君が? 君には直接関わりのない人たちなのに」
「そんな寂しいことを言わないで。最初はお義母様もお義父様もとっつきにくい方なのかと思って敬遠してたけど、お二人を知って、やっぱりコンラートのご両親だと思ったのよ。不器用で、優しくて、良かれと思って突っ走ってしまうところとか」
「……それは褒めてないだろう……」
僕の欠点を聞かされて恥ずかしくなる。呻く僕にユーリは笑う。
「そういうところも含めてあなたを愛しているのよ」
息が止まるかと思った。不意打ちの言葉に僕は母上のことを思い出さなかった。嫌悪感の代わりに満たされたのは多幸感。ユーリの言葉は信じられるとわかったからだ。
この胸から溢れてくる思い、これがユーリが言う愛しているということなのだろうか。
ありがとうと言ったものの、それだけではないもどかしい思いに、僕はユーリに口付けした。
「言葉の代わりに行動で示してみたよ。伝わったかい?」
「……それだけじゃわからないって言ったら?」
「……どうすればいいんだろう」
気持ちを伝える方法は何があるだろう?
僕は本気で悩んでしまった。そこでユーリが言う。
「時間はかかってもいいから、いつか言ってくれる? 愛してるって」
「……努力する」
僕の言葉にもユーリからもらった『愛している』のような気持ちがこもるのだろうか。今の僕が口にしてもまだ、薄っぺらく感じる。
いつか本当の意味で理解できた時に、ユーリに心を込めて伝えたい。愛していると──。
読んでいただき、ありがとうございました。




