初めての嘘
よろしくお願いします。
父から話を聞いたのは昨日だというのに、昨日の今日でコンラートは早速我が家を訪ねてきた。
「ユーリ、久しぶり」
「……ええ、コンラート様。お久しぶりでございます」
片手を上げて微笑んだまま、コンラートは近づいてくる。相変わらずの美形だ。白いシャツに黒のスラックスというシンプルな格好でも違和感なく着こなしている。それらが質のいいものだというのは、曲がりなりにも伯爵家の娘なのでわかる。
対する私は着古してクタクタになった橙色のドレスだ。この格好を見ただけで我が家が困窮していることなどすぐにわかるだろう。引け目を感じながらも、私は椅子から立ち上がると、カーテシーをした。
ここは我が家の庭のテラス席だ。
だいぶ傾いた我が家には、庭師を雇う余裕がない。私が母の好きだった薔薇の手入れをしているが、それ以外は荒れ放題だ。
今なら新緑の綺麗な季節で、色彩鮮やかな草木が私たちの目を楽しませるはずなのに、それもできない。
本当ならほかの花たちの世話もしたい。だけど皆が反対する。土いじりは淑女の仕事ではないと。
それでも今日はコンラートが来るということで、私付きの侍女であるサラと二人である程度の体裁だけ整えた。
「そんな他人行儀な話し方はやめないか? 婚約者になるんだし」
コンラートは上げた手で、困ったように頭を掻く。
「そう言われましても……」
「昔は普通に話しかけてくれてたじゃないか。なのに、いつからか君はよそよそしくなってしまったんだよな」
いつからか、ではない。私ははっきり覚えている。彼がニーナに一目惚れした時に、私は彼と決別しようと決めたのだ。
私は笑顔を貼り付けて、彼に促した。
「それよりもおかけになりませんか? すぐにお茶も用意いたしますので」
「やれやれ。やっぱり変わらないんだね。それじゃあ失礼するよ」
コンラートが肩を竦めて向かいの椅子に腰掛けるのを確認して、私もゆっくり腰掛けた。すぐにサラがお茶の用意をして持ってきてくれる。
サラが外してすぐ、コンラートが用意してきたらしい紙と羽ペンを、持ってきた鞄から取り出して私の前に置き、切り出した。
「それで婚約のことなんだけど、ロクスフォード卿に許可をもらったんで、すぐにでも書類を提出したいと思っているんだ。申し訳ないが、サインをしてもらえないか?」
「……わたくしに拒否権はございません。ですが、お聞かせ願えますか? 何故わたくしなのですか?」
彼の答えを聞くのが怖くて俯きそうになる。だけど、私は彼の本心が知りたかった。真っ直ぐ彼を見据えて、机の下で拳を握り締める。
彼は虚を突かれたように、目を瞠った。それから一切の表情を消して反対に私に問い返した。
「それは君がこの婚約を嫌がっているということなのかな?」
「それは答えになっていません。あなたが答えてくだされば、わたくしも答えます」
そうしてしばらく私たちは睨み合っていた。やがて彼が折れて嘆息した。
「そういうところは変わってないね。白黒しっかりつけないと気がすまないところ。で、どうして君なのかって話だったね。僕が君のそういうところを気に入ってるから。って言ったら信じるかい?」
「……いいえ」
「本当なんだけどな」
彼は苦笑する。
このままでははぐらかされそうだったので、私は単刀直入に言った。
「ニーナ様はどうなさるおつもりですか?」
彼はキョトンとしている。思いがけない名前を聞いたとでも言いたげな様子が、私の気持ちを苛立たせる。
「あなたとニーナ様は婚約間近だとうかがっていました。それが急にわたくしが婚約者だなんて、おかしいと思いませんか? 何か事情があるのでしたら仰ってくださいませ」
「……ニーナ、か。彼女なら別の男と婚約したよ。それに元々彼女と婚約するつもりはなかった。事情と言われても、僕には君しかいなかった。それだけだ」
彼は淡々と話していた。それがどこか不自然に映ったが、彼はきっと感情を抑えているに違いない。
そして、その言葉で腑に落ちた。
私は所詮代替品。彼女でないのなら誰でもいいと、消去法で選ばれただけに過ぎないのだと。
期待する前にわかってよかった。これなら彼に惹かれていく心を自分で止められるかもしれない。
私はそんな風に楽観視していた。
そして今度は彼が私に問う。
「それで結局、君はこの婚約が嫌なのかい?」
「……いいえ。ロクスフォード伯爵家に援助していただけること、心より感謝いたします。そうでなければ家も手放さなければならなかったでしょうから」
「……まあ、今はそれでいいよ。婚約どころか結婚することも決まっているのだから」
彼はそう自嘲する。
彼自身、この婚約は不本意なのだろう。
それならば私も不本意な振りをしよう。もし彼が心変わりをして私を切り捨てる時に、少しでも罪悪感を抱かなくても済むように。
「あなたも本心では納得されてないのですね。だとしても、お互いに家のためには仕方ないと割り切るしかないのでしょう……」
彼は怪訝に私の顔を覗き込む。私は痛みを堪えて笑顔を浮かべる。
「……大丈夫です。わたくしは、あなたのことなんて好きじゃありませんから」
一度口にしてしまった言葉は取り返しがつかない。私は彼がどんな顔をしていたのか、見ることができなかった。
読んでいただき、ありがとうございました。