素直になること
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「コンラート、今日は休んでもいいか?」
結婚式を三日後に控えた日の昼、伯爵家を訪れたコンラートに、兄は玄関ホールで会うなりそう言った。コンラートは面食らっている。それもそのはず。前もって休むつもりなら、連絡をするのが礼儀だ。その辺りがきちんとしている兄にしては珍しい。
偶々二人の横を通り過ぎようとした私は、思わず足を止めて兄を見た。すると兄は悪戯っぽく口角を上げた。
それでわかってしまった。兄はきっと私とコンラートを会わせるためにわざと連絡しなかったのだと。
そして兄は言う。
「その代わりと言ってはなんだが、ユーリの相手を頼めるか? あいつも今日は勉強やダンスのレッスンが休みなんだ。結婚式の準備も終わったんだし、たまには二人で出かけるのもいいだろう?」
「……ユーリがいいのなら」
コンラートはちらりと私を見る。せっかく兄が作ってくれた機会なので、私は頷いた。
「わたくしなら大丈夫です」
「……ということだからコンラート、ユーリを頼む。俺は父上のところに行ってくる」
兄は手を振って、さっさと父の書斎に行ってしまった。後に残された私たちの間に微妙な沈黙が訪れる。コンラートは私と目が合うと困ったように笑った。
「……それじゃあ、どこか行きたいところはあるかい?」
「そうですね……」
と言いつつも、全く思い浮かばなかった。伯爵家の財政が逼迫している状況で、無駄遣いをする気にもならなかったのだ。
ふとコンラートを見ると、どこか疲れているように見える。そんな彼を連れ回すのも悪いと思った私は、ある場所を提案した。
「それなら……」
◇
そうして二人で向かったのは我が家の庭だった。私はまだ行ったことがないけど、コンラートの家に比べたら遥かに寂しいだろう。それでも私が手入れしている母の薔薇だけは見応えがあると自負している。
「本当にここでよかったのかい? 買い物だってよかったのに」
二人で庭のベンチに並んで座ると、コンラートが私の方を向いて尋ねてきた。
「ええ、いいんです。特に欲しいものもありませんし」
そこで私は言葉を区切った。兄と約束したとはいえ、すんなりと素直な気持ちを話すことは難しかった。それをどう思ったのか、コンラートの眉間に皺が寄る。私は恥ずかしさにコンラートから視線を逸らして言った。
「……それに、たまにはこうして二人で話したいと思いまして……」
「ユーリ……」
コンラートは私の名前を呟いた後、黙り込んでしまった。私は普段から思っていることを、この際伝えることにした。
「コンラート様には本当に感謝しています。兄からも伯爵家の借金はまだまだあるものの、返済が少しずつ進んでいると聞いていますし、何より兄が活き活きしているのが嬉しいんです。これまでは先が全く見えなくて難しい顔ばかりでしたから」
「……そう言ってもらえると僕も嬉しい。エリオット様は優秀だから、今に僕は必要なくなると思うよ」
「そんなことありません。コンラート様がいてくださるから、お兄様は頑張っているんだと思います。本当にありがとうございます」
前よりも楽しそうな兄を思い浮かべて、私の表情が緩む。そんな私にコンラートが笑った。
「やっと笑ったね」
「え?」
「最近はずっと痛々しい表情ばかりで心配していたんだ。婚約から結婚まであっという間だったから疲れてるんじゃないかい?」
コンラートは心配そうに私の顔を覗き込む。だけど、私よりもコンラートの方が疲れているはずだ。子爵家当主になるための勉強、商会の仕事、兄の家庭教師。そんな忙しい合間に、こうして私の相手をしてくれているのだと思うと申し訳ない。それによく見ると顔色があまり良くないように見える。
「それはコンラート様の方でしょう? 顔色が優れないように見えます。お休みした方がいいのなら、すぐに客室を用意しますから」
私の言葉にコンラートは逡巡していた。きっと私に悪いと思っているのだろう、そう思っていたけど、コンラートは予想外なことを言った。
「いや、それなら膝を貸してくれないか?」
「どういうことですか?」
私が首を傾げると、コンラートは私の太ももを枕にそのまま横になってしまった。彼の思いがけない行動に私は慌てた。まさかの膝枕に私の顔が熱くなる。
「ちょっ……コンラート様?」
「婚約者なんだからいいだろう? しかも三日後には結婚することも決まってるんだ」
「それはいいのですが、わたくしの足は硬くて寝心地が悪いので、ベッドの方がいいと思うのですが……」
コンラートがくっと笑う振動がドレス越しの足に伝わってきた。
「そういう問題なんだ? ユーリはたまに真面目な顔で面白いことを言うよね」
「わたくしは面白いことを言っているつもりはないのですが……」
「僕はこっちの方がいいよ。部屋で休むよりも外の風が気持ちいいし」
そう言ってコンラートは目を閉じてしまった。さあっと初夏の風が吹き抜ける。今日は暖かいほうだけど、このままだとコンラートが風邪を引きそうだ。
近くに控えていたサラに合図してブランケットを持ってきてもらった。彼は眠ってしまったのか、ブランケットを掛けても動かず、そのうち規則的な呼吸音が聞こえてきた。
余程疲れていたのだろう。
コンラートの目の下も黒っぽくなっている。私は思わずコンラートの目の下にある隈に手を伸ばした。
少し冷たい肌を指先でなぞる。彼が起きていたら絶対にできなかったことだ。
「……どうしてこんなに優しくしてくれるんですか?」
聞こえてないだろうと思い、私はぽつりと呟く。優しくされたら期待してしまうのに。目の下をなぞっていた指を滑らせてコンラートの唇に触れた。すると、少しカサついた唇が震えた。
「……優しくしたいからだよ」
「え……」
薄っすらとコンラートが目を開いて笑う。驚いた私が手を引こうとしたらコンラートが私の手を掴んだ。
「君は僕にとって大切な人なんだから、優しくしたいと思うのは当然だろう?」
「わたくしが……?」
掴まれた手が熱い。
もしかしたらなんて期待をしたくなる。だけど彼は目を伏せて言った。
「……婚約者で、未来の妻だろう?」
「……ええ、そうですね」
それも形だけのでしょう、とは言えなかった。
わかっていた。それでも虚しさに私の目に涙が浮かぶ。
兄と話してから、私は親しい人たちには少しずつ感情を表すようにしていた。だから、これまで堪えてきた分が一気にきたのかもしれない。
これまではこんなことくらいで泣かなかったし、笑って誤魔化していたのに。ぽつりとコンラートの頬に私の涙が落ちた。
驚いたコンラートが体を起こして私の顔を覗き込む。
「ユーリ……?」
「……見ないでください。何でもありません」
私はコンラートから顔を背ける。だけど、コンラートは納得せずに私の涙を人差し指で拭う。
「そんなわけないだろう。どうしたんだ? やっぱり結婚が嫌なのか……?」
何故か彼の声は沈んでいた。気になってまた彼を見ると、眉を寄せた彼と目が合った。
「……違います。少し寂しくなっただけです」
これは本当だ。こんなに近くにいるのに彼の心は遠いままで、二人でいるからより寂しく感じた。コンラートは私の頬を両手で挟むと間近で視線を合わせる。
「お願いだから言ってくれないか。いつもそうやって我慢するから、たまには本当のことが聞きたい」
「……わたくしはちゃんと本当のことを話しています。結婚が嫌なわけではありません。ただ、不安で少し寂しくなったんです……」
「ああ、そういうことか。そういえばニーナも結婚前はそうなるのだと言っていたな」
私は痛みを堪えるように唇を噛み締めた。彼は心配しながらもまたニーナの名前を出すのだ。
心が痛い。また泣きたくないのに涙が流れてくる。
「ユーリ……ごめん」
何に対する謝罪なのかと言う前に、私は彼に引き寄せられ、抱きしめられていた。顔が彼の肩口にあたると、ほのかに彼のコロンの香りがした。
「……何が不安なのかわからないけど、泣きたければ思い切り泣けばいい。僕が見えないように顔を隠しているから」
「ありがとう、ございます」
私はそのままコンラートにしがみつき、声を押し殺して泣いた。泣かせたのも彼なのに慰めるのも彼。彼だけが私の心をここまで揺さぶることができるのだ。
彼が好きだ。
素直になりたいのに、まだその言葉を口にできない。自分が思うよりも、まだ相手にどう思われるかを考えてしまう、そんな自分が嫌で仕方ない。
それにこんなに泣いたらコンラートを困らせるだけだ。だけど、コンラートは私を抱きしめたまま、私の背をさすってくれる。その手の温かさと彼の優しさを感じて、余計に涙が止まらなくなったのだった。
読んでいただき、ありがとうございました。