未知の性癖
意気地なし、と罵る声が聞こえた気がした。
――今日一日は……。一緒に過ごせたらいいなと思っていて
(流してしまった)
伊久磨は、気付かれないようにそうっと溜めていた息を吐き出す。
そういう意味なのかなとは思ったけど、「そういう意味とは」と自問自答の末、気付かなかったふりをしてしまった。
横目でうかがうと、静香は明らかに気落ちした顔でぼんやりと窓の外を見ている。
綺麗に染め抜いた金髪に、陶器のような白すぎる肌。しょげているとしか言いようがない冴えない表情をしていてさえ、憂いを含んだまなざしは、どこまでもうつくしく。
弱々しく、長い睫毛が伏せられるのを見ると、背筋に悪寒のようなものが走る。
(今すぐ家に連れ帰りたい)
それが偽らざる感情。
かなり努力している。触れたい思いを抑えるのに。
今は昼日中の、それなりに混雑したコーヒーショップの店内という状況に助けられているだけだ。
静香に対する好意を完全に自覚してしまったのと前後して、否応なく突きつけられたのはいたって単純な事実。
欲情している。もうずっと。
一度目の夜はやり過ごしたが、次も大丈夫とは思えない。あの時より遥かに、求める衝動が強くなっている。
手を出さない自信が、全然ない。
(静香は覚悟の上かもしれないけど)
望み過ぎなのかもしれないが、心が伴わないうちはまずい、と。
彼女の希望はあくまで「まずは話したい」なのだ。その段階を飛ばして「付き合っているのだから」と身体まで奪ってしまってはいけないと、自制している。
静香が、男性が苦手というのは、以前よりわかっているつもりだ。
本人の弁を信じるならば、おそらく今まで深い仲になった相手はいない。クリスマスプレゼントを買うのは初めてと、あどけなく笑うところからも、知れてしまう。
しかも、近しい位置にいたのがよりによってあの香織だ。
(自然に相手を気遣い、絶対に傷つけない。友人なら尊敬できるけど、ライバルとして考えると)
そういう相手だから、静香も惹かれるのを止められないのだと思う。
聞いてみたい。
やっぱりまだ、名前の無い関係である香織の方が「特別」なのかと。彼氏よりも。
聞けない。
思いだけが、暗い夜の雪のように降り積もる。
心の底から全身に冷気を行き渡らせて、いつか心臓を止めにくるかもしれない。
空になったコーヒーカップを持て余す。次の行動を決めかねて、二人とも沈黙してしまっている。
「映画でも……見ます? 時間が合うの探して」
久しぶりに声を出した気がした。少し掠れた。
顔を上げてきた静香は、物憂げな視線をくれる。
「デートっぽくていいなって思うんだけど。あたし映画館って苦手で。寝ちゃうかも」
伊久磨は真顔で見返した。
言うべきか言わないべきか悩んで、結局口にしてしまった。
「静香が隣で寝ていたら、まず間違いなく手を出すと思うんですけど」
「手?」
なんの話だろう、という様子で首を傾げた静香であったが、その頬に徐々に赤みが差す。
「え……、駅に引き続き……っ。やっぱり、伊久磨くんだよね? そういう……。えぇ……っ。隙あらばみたいな……」
言いながら、どんどん顔が赤くなっていく。
こんなに血色がいいの初めて見たかも、と感心しながら伊久磨は「何が俺なんですか」と当然の疑問を口にした。
(隙あらば、みたいな?)
静香は「あう」と言いながら俯いてしまう。
見落としがないように見つめていた伊久磨は、唾を飲み込んだ。
ついで、頭を抱えそうになった。「あう」ってなんだ「あう」って、と。
(可愛すぎなのでは)
こんな生き物を往来歩かせていていいのか。いいわけがない。フリーで働かせてていいのか。不安しかない。
悪い人間に騙されたり捕まったりする前に、自分が監禁してしまった方が安全なのでは。首輪や手錠に興味を持ったことなどないが、いまようやく有用性がわかったような気がす
本格的に頭を抱えた。
(まずい。絶対にまずい。未知の性癖に目覚める)
静香が弱っているのがいけない。どう見ても、少し元気がなくて、弱っているのだ。自分に加虐趣味があると考えたことはなかったが、これは耐え難い。
もう一度泣き顔を見たいし、自分が泣かせたいまである。
自制心に、ひとかけらも信頼を寄せられなくなっていた。
静香と十年以上一緒にいて、一切手出しをせずに信頼を得て来た香織の足元にも及ばないのがよくわかる。
手出しを……。
そこまで考えたときに、脳裏に閃いたのは先日の朝の光景。どう見ても近すぎる距離で、ほとんどキスをするかしないか、という位置で向き合っていた二人。
表情が、思い出せない。よほど自分にとって見たくないものであったのがよくわかる。記憶が曖昧だ。
だけど、時々思い起こしてみる。痛みを伴いながら。
あれはいったい、どちらから仕掛けたことだったのかと。
(香織は、静香が俺と付き合うのをよく思っていない。「特別」だから。だけど、静香に言わせれば二人は将来的にまったく結ばれる可能性はないと。振り切るために他の男と付き合う選択をするくらいだ。それは……要するに、両思いなのでは)
お互いを見ないように必死に目を逸らしてはいるが。別々に恋人を作り、距離を置こうとしているが。
そうまでしなければ離れ難いほどに。
深く、思い合っているのでは。
「伊久磨くんってさ。なんかこう、全然あたしに興味なさそうなのに、そうやってすごく彼氏感を出してくるから困る……」
静香がひとりでぶつぶつと言っている。
(彼氏感?)
「彼氏なので。出しちゃまずいですか」
考える前に聞き返していた。むしろ考えたら何も言えなくなっていただろう。
何しろこれはどう考えても別れ話の前触れだ。困る、とは。別れ話に違いない。
別れ話か……。
いざ持ち出されると胃にくるな、と思っている伊久磨の前で、静香はがばっと顔を上げた。
目が潤んでいた。
それを見ただけで、胃以上に心臓が痛くなる。監禁しないと、と湧き上がってきた考えにはかなり相当苦労して蓋をした。
そんな伊久磨に構うことなく、静香は早口に言った。
「そういうわけじゃないんだけど。好きじゃなくてもそういうことできちゃうんだ? って。あたしはさ、伊久磨くんのこと好きだから、いちいち舞い上がっちゃっているんだけど。伊久磨くんはシェフに言われたからあたしと付き合っているだけじゃない? なのにすごい優しくて、彼氏っぽくて。役割演技にしてもうますぎるっていうか。一流レストランの接客ってこういう感じなのかっていうか。あ~……何言ってるのかわかんないけど。そういうの、ダメだと思うんだよね。ほんっとだめ」
耳では聞いていたが、何を言っているのかがわからなかった。
最終的に仕事にダメ出しをされたのはわかった。
「差し支えなければ、どのへんがだめか……。善処しますので、教えていただけますか」
身体ごと向き直り、神妙に聞いてみる。
たしかに、当初は由春に「愛がない」と言われたのがきっかけだった。それで交際となったわけだが、自分でも正直なところ、仕事にどのような影響が出ているのかわからない。もし静香の目から見て、悪い影響が出ているというのなら、早急に対処しなければならない。
まじまじと見つめると、静香も大きな目で見上げてくる。
「ホストじゃないんだよ? いくら仕事でも、そんな接客してどうするの? 世の中の女性をみんな落とすつもりなの? あたしだけでよくない?」
彼女が何を言っているのかよくわからない。
「落ちないと……思います」
ようやくそれだけ言った。精一杯。
静香は、きっとまなじりをつりあげ、挑むように前のめりになりながら、一切納得していない様子で言って来た。
「じゃあなんであたしは落ちてるの?」
彼女が何を言っているのかよくわからない。
(わからないけど、家に連れ帰るのはまずいし、部屋が一緒なのもまずい。今日は香織と寝よう)
思考停止したまま、決意を新たにした。