ボタン掛け直し
「聞いて良いのかわからないんですけど。椿の家と関わること、親御さんに嫌がられていませんか」
大通りに移動し、コーヒーショップの窓際テーブルに並んで座ったところで、伊久磨から尋ねられた。
「答えにくかったら答えなくていいですよ」
自分のコーヒーをブラックのまま一口飲んで、窓の外を見ながら続けて言う。
香織と静香が兄妹かもしれない、という件のことだろう。近づきすぎて大丈夫なのかと。
静香はカフェオレのカップを手で包み込み、考えてから口を開いた。
「良く思ってはいない、くらいかな。黙認、みたいな感じ。さすがに今日椿邸に泊まるとは言えないけど」
「泊まるんですか?」
イエスかノーで答えられる質問。考えるようなものではないが、静香は躊躇ってから、呼吸を整えて告げる。
「帰省を一日早めたこと、連絡していないの。伊久磨くんが、年末年始は椿邸だって聞いていたから、大晦日は無理だと思っていたけど。今日一日は……。一緒に過ごせたらいいなと思っていて」
駅から移動するとき、思い切って言えなかったことを後悔している。
(そのまま部屋に行って、二人でいたいと言えば良かった)
どうしても言い出せず、荷物を持ったままとりあえず「セロ弾きのゴーシュ」で下ろして欲しいと言ってしまった。それが、そもそもの間違いだった。
間違いを取り返したいくらいの気持ちで、ようやく「一緒に過ごしたい」を言った。勇気を振り絞った。
そして、伊久磨の返事を待った。
「今からご実家に連絡を入れたら良いんじゃないですか。椿邸に泊まるというのは、俺はあまり良いとは思えません」
伊久磨からは、感情のうかがい知れない抑制された声で答えられる。
ギシ、と胸が痛んだ。やり過ごそうとして、マグカップに口を付ける。
(一緒に過ごせたら、というのは流された気がする。遠まわし過ぎて気付かなかっただけ?)
「あたしも椿邸の件は良いとは思っていないんだけど。香織の彼女がホテル取れないんじゃないかって、西條シェフが。女性宿泊率を上げようみたいなお誘いだったよ」
何を言っているんだろう。自分の言いたいことからは、遠ざかっている気がする。それなのに、馬鹿みたいに笑いながら言ってしまった。
伊久磨は特に視線をくれないまま、そっけなく言う。
「香織の彼女、今日、東京から札幌に帰省するというのは香織が言っていました。時間が合えば途中下車するかもしれない、と。相手は『会うかもしれないし、会わないかもしれない。その時の気分で決める』とか。結構中途半端な関係みたいですね。だけど、結果的に途中下車して会いに来たなら本人の責任です。大人なんだし。それで椿邸に泊まるのも、よそに落ち着くのも、それは香織と彼女の問題です。静香や西條シェフが心配したり口出しすることですか」
(……怒ってる?)
そこはかとなく機嫌の悪さを感じつつ、静香は理由を探した。
「西條シェフと、香織の彼女さん、なんか知り合いみたいなんだよね。それもあるのかな~って」
さすがに、思ってもみなかったようで、伊久磨からちらりと視線を流される。
すぐに逸らされた。
「シェフはしばらく海外だったはず。知り合いだとしても、『彼氏』より親密な間柄とは思いません。親密でもまずいとおもいますし。まさか生き別れの兄妹ではないでしょう?」
言ってから、あ、というように目を閉ざして眉をしかめた。ごめんなさい、と低い声で言われる。
ううん、大丈夫、と答えてから静香はカフェオレをぐいぐいと飲んでしまった。
(なんだろう。すれ違っている気がする。伊久磨くんの様子がちょっと違う。あたし何か言った?)
どこかでボタンの掛け違いがあったような、不吉な予感が胸に広がっていく。これはきっと、このままにしてはいけない。
そこまではわかるのに、正解がわからない。
この状況で「二人になりたい」とごり押しししても良いものか。また流される気がする。
かといって、実家に帰ってしまえば、落ち着いて話す機会がない。伊久磨だけでなく、香織とも、彼女とも。
解決の糸口がつかめないまま、時間だけが過ぎてしまうのは怖い。
いつも顔を見て話せるわけではないからこそ、距離的に近くにいるときは、できるだけそばにいたい。
「すごくタイミングが悪いこと言うんだけど……。スーツケースの中に、伊久磨くんへのクリスマスプレゼントが入っていました」
とてつもなくカッコ悪いが、打ち明ける。
伊久磨が問うような眼差しをくれたのを感じつつも、うなだれて続けた。
「東京で、和明さんに会って。恥ずかしながら、男性への贈り物は何が良いのか相談するというベタな」
「……和明さん?」
聞き返されて、静香は伊久磨の顔を見る。
全然なんのことかわかっていない顔をしていた。
「あの……『セロ弾きのゴーシュ』の。樒和明さん。店主してる……」
どこからわかってないんだろう? とうかがいつつ説明すると、伊久磨が「えっ」と変な声をあげて持ち上げかけたマグカップを傾けてしまい、慌ててテーブルに置いていた。
「樒さん、名前あったんだ!? そんな普通の名前なんだ」
「ええー。な、名前はありますよ。年末年始、チェロのミニコンサートで東京に。音大のときの友達と」
「音大。あ、なるほど。たしかにチェロは上手いなって思ってました。そうなんだ……」
チェロの演奏は聞いたことがあったらしい。突拍子もない作り話と思われないで良かった。
「それで、東京に行くときに新幹線が同じで、会って話して。伊久磨くんのことも知っているみたいだったから、相談をしてですね。男の人にクリスマスプレゼント、初めて買いました。もう年末ですけど、受け取ってもらえたらいいなと。あの、あたしももらっちゃったし。ありがとうね」
ようやく落ち着きを取り戻した伊久磨は窓の外を眺めながら「そうですか」と呟く。
そして、笑みを浮かべて静香の方へと顔を向けた。
一瞬、傾いた機嫌が持ち直したのかと、期待してしまうほど、完璧な笑顔で。
「彼女だからって、そこまでしてくれなくても。次からあまり俺のことは気にしないでください。何かが欲しくて付き合ってもらっているわけではないので。こうやって顔を見せてくれれば、それで十分です」
(うん?)
何か。
引っかかる。
浮かべた笑みはそのままに、静香は返事が出来ずに固まってしまった。
付き合うことでマイナスにはならないように、と静香に言う伊久磨だ。プレゼントが欲しくて付き合っているわけではない、というのも一貫している。間違えたことは言っていない。何も求めてはいないと。
だけど、見えない線を引かれたような、きっぱりと距離を置かれた感覚があった。
付き合ってもらっている。
些細な言葉選びだ、気にするところじゃないかもしれない。ただ、落ち着かない。
(やっぱり、何か変。一緒にいるのに、避けられている)
亀裂がそこにあって、あちら側とこちら側に分かれてしまっている。
今はまだ手を伸ばせば届くけど、躊躇っているうちにあっという間に大きく離れてしまって、もう二度と。
それは嫌。
気が付いたら、伊久磨のセーターの袖を掴んでいた。
空になったコーヒーカップをテーブルに置いた伊久磨が、不思議そうに見て来る。
きっと。
溺れてすがる者の目をしているに違いない。
恋は数をこなせば上手くなるなんて思っていないけど、大切なときに間違えてしまいそうな自分に「これまでさぼってきたせいだ」と毒づきながら。
今この瞬間は間違えたくないと、掴む指に力を込めて言う。
「彼氏が欲しいから付き合っているわけじゃなくて、伊久磨くんだから一緒にいたい。あたしの気持ちは通じていないかもしれないけど、他の人じゃだめで、伊久磨くんしかいないと思っているから」
じっと見つめ返してきていた伊久磨は、唇に微かな笑みを浮かべた。
「そうだと、良いなとは思っています。望み過ぎかもしれませんが」
ほんの少し。
閉じかけていた心の向こう側に触れられた気がした。
だけど、まだ足りない。ここで離れたらだめだ。もっとしっかり結びつきを深めなければ。
その思いから、意気込んで告げる。
「今日は椿邸に泊まる。もっとたくさん話をしよう。この間みたいに、朝になったら時間がないわけでもないし、二人で、たくさん話をしよう」
もし望むなら、肌に触れてもいい。
目に力を込めて言った静香に対し、伊久磨はゆっくりと目を瞬いてから、優し気な表情で言った。
「俺もそうしたいとは思うんですけど。もし静香が泊まるなら部屋はどうなるんでしょう。この間とは違いますし。これだけ人数いるときに、俺も香織も彼女と同室というのも……。良いのかな。それより、女性同士で部屋を使った方が自然じゃないですか」
言われた内容を、よくよく頭の中で考えてみた。考えに考え抜いてから、静香は自分の常識や世間体やいろんなものをかけあわせて検討したあげく、問い返した。
「そういうものかな?」
どこかに否定してほしい気持ちがあったのは否めないが、伊久磨は迷うそぶりもなく頷く。
そうなるんじゃないですか、と自身の見解を添えて。