心の在り処
(椿邸に泊まる?)
何を言っているのだろう、と呆然としてしまった。
それから、視線を感じて顔を上げた。
触れそうなほど近くに立った蜷川伊久磨が見下ろしてきていた。
もの言いたげな顔。
なに? と目で聞こうとしたのに、伊久磨はさっと西條聖に向き直った。
「懐石のフルコースでお願いします」
ん、と聖が青い目を軽く見開く。
構わず、伊久磨は穏やかな声で続けた。
「楽しみです。西條シェフに不可能はないと信じていますので。何か必要なものがあったら買い出しにも行きますから遠慮なく。御用の際は連絡ください」
接客時の受け答えを思わせる爽やかさで言って、にこりと微笑んでいる。
「懐石のフルコース……?」
「最近飲み過ぎた気がするので、身体に優しいものが食べたいです」
晩御飯何にする? というくだりから聞こえていたに違いない。
虚を突かれた様子の聖であったが、すぐに瞳に剣呑な光が宿る。
「面白いな蜷川。いいな、それ」
「シェフ、和食の経験は」
「ねえよ」
すかさず聞いた伊久磨に、聖は切りつけるように返す。それから、口角を吊り上げてにやりと笑った。
「板場の経験はないが、和食は嫌いじゃない。作ればいいんだろ?」
圧を加える物言いであったが、伊久磨は何でもないことのように頷いた。
「さすがです。じゃあ器出しから手伝いましょう。向付、汁物、煮物、焼物、預鉢……、強肴、箸洗、八寸、香物、でしたっけ。椿邸、たぶんフルセットありますからね。以前はお茶会なんかもしていたんじゃないかな。香織も作法は知っているでしょうし」
腕を組んで伊久磨を見つめていた聖が、苦々し気に口を開いた。
「おい。蜷川」
「はい」
「なんの嫌がらせだ」
滔々と流れるように話しているので、ぼんやりと聞いていた静香であったが(あ、嫌がらせなんだ?)と遅れて気付いた。
伊久磨はといえば、特に気にした様子もなく、平静を装った声ですらりと言った。
「俺の彼女泣かせてませんでした?」
聖の頬が、ひくっと痙攣する。
「俺じゃない。泣いていた。なぐさめていたんだ。お前が遅いから」
言われた伊久磨は、ひとつ頷く。
「それはありがとうございました。遅くなったのは事実です、申し訳ありません」
如才なく告げた後、聖をまっすぐに見つめたまま、続けた。
「なぐさめるだけではなく、困らせているようにも見えたので。西條シェフはただでさえ手が早いので心配になりました。手を出すのはうちのシェフだけにしておいてください」
手が早い? 手を出す?
話についていけている気がしない静香を差し置き、聖はつまらなさそうな顔で投げやりに言った。
「あいつ今いねえし」
「すぐに戻ってきますから」
あくまでにこやかな笑顔を崩さずに言ってから、伊久磨は静香の背に軽く腕をまわして歩くように促してきた。
行きましょう、と言われてそのまま歩き出す。
「晩御飯は19時予定だからな! 夜遊びしないで帰ってこいよ!」
聖の声を、背中で聞いた。
肩越しに振り返った伊久磨が「承知しました」と返事をしていた。
* * *
少し歩きますか、と誘われて、断る理由もなく頷いた。
ひとまず川原の遊歩道まで石段を下り、並んで進む。ベンチにたどり着いたところで、座りましょうとすすめられた。
ひと一人分くらい、間をあけて座る。
二人とも、しばらく口をきかなかった。
目の前を流れる川は、鈍い色合いながらもきらきらと光を反射して眩しいほどだった。
どうしたものかと考えてから、思い切って距離を詰めてみる。とん、と触れたところで、体重をかけて寄りかかった。
抱き寄せられた。ぐ、と心臓に痛みを感じながら、目を瞑って身を任せる。
「さっきの。西條シェフは悪くないんですが。すみません、なんか変な空気に」
「いえ。あのひとああいうの喜んでいるから大丈夫です。ドSなんですけど、たてつかれるのも、ぞくぞくして燃えるって言ってました」
たてつかれる……。気持ちいいくらいきっぱりとした強者目線だ。
目を開けて、きらきらと流れる川面を見つめた。
「実際、作れるのかな。さっきの……」
伊久磨はすらっと口にしていたが、静香は咄嗟に何も出てこなかった。言いたいことは伝わったようで、伊久磨は淡々と言った。
「その気になればできると思いますけど、さすがに今日いきなりは無理だと思います。器を確認して、料理を決めて、材料を揃えて仕込みをして、ですから。時間内に、本人が満足できる出来にはならないかと」
コートのポケットをごそごそさせてスマホを取り出し、アプリを開くと、画面を静香に見せながら文字を打ち始める。
『一番食べたいのは肉じゃがです。他に何もいらないくらい』
『俺も!』
返事は、早かった。伊久磨はスマホをポケットに戻して、微笑みながら見下ろして来た。
「結構、かわいいひとですよ。扱いやすいです」
「うわー……? そうなんだ……」
素直に「すごい」という気持ちはあるものの、うっすら警戒心も呼び覚まされる。
あの負けん気が強そうで口が立つ聖を、掌で転がしているとは。
(あたしも裏でこんな風に言われているのかな……。単純だしわかりやすいし。見透かされてそう)
怖いなぁ、と思ったところでぎゅっと腕に力をこめられた。
「それで、静香はなんで泣いていたんですか」
「あー……。うーん……」
もらい泣きかな? と咄嗟にごまかそうとした。
一時的に感情が高ぶってしまっていたが、今となっては自分でもはっきりとわからない。
強いて言えば、聞くつもりのなかった妊娠の事情だとか。
その線で、説明しようとしたが、口が重くなって、声がうまく出ない。
(うん。それだけじゃないね。やっぱり……香織)
香織に拒絶されたこと。
香織のマフラーをしたひとのこと。
自分以外に、香織に「特別」扱いされる女性がいること。香織の、彼女。
今までは。
香織に彼女がいても、どこかで安心していた。たとえば、何かあったときに「助けて」と言えば香織は何があっても駆けつけてくれると。
優先されるのは自分で、香織の中の一番は自分なのだと。
その関係を、香織は終わらせることにしたに違いない。
理由はもちろん静香にある。静香が伊久磨と付き合い始めたから。もしこの先何かあって「助けて」と言っても「伊久磨に言え」と。
そうやって突き放す準備を始めたのだ。
「この間の、香織とのことね。なんて言おうかずっと考えていたんだけど……。あたしと香織って、名前のない関係なんだ。親戚でもないし、付き合ったことがあるわけでもない。それなのに、近くて。不健全な距離だったのはわかる。ここ数年は離れて暮らしていたから、ほとんど考えたこともなかったけど。でも、お互い彼氏がいるとか、彼女がいるとかいうと、『あ、そうなんだ』みたいな……」
相槌はなく。
仮にも、付き合っている相手にこんな話をしなければならない自分に大いに自己嫌悪をしつつ、静香は続けた。
「すごく心が狭い話なんだけど、さっき香織の彼女とバッティングしちゃって。彼女、香織のマフラーをしていたんだよね。それだけで結構落ち込んで、そんな自分がまた嫌で。その……どういう流れで彼氏のものを身に着けることになるんだろうとか。あと、あたしがあんまり物を欲しがらないっていうのはあるけど、香織から何かもらったこともなくて……。愛され系彼女は、幼馴染みたいな曖昧な関係、簡単に超えるなって」
何を言っているのか。
自分でもわからなくて、死にたい。
(言う相手が違うよ。彼氏にこんな話をする彼女がどこに)
絶対にまずいと、わかっているのに、始めてしまったせいで、止まらなかった。
黙って聞いていた伊久磨であったが、わずかに身動きをすると、コートのポケットからリボンのかかった小さな箱を取り出した。
開けてみて、と言われて、リボンをといてみる。箱を開ける。
「いつも手が冷たいから、すぐに身につけられるように包装簡単にしてもらったんです。使ってもらえますか」
なめらかな触り心地。カシミヤ製の黒の手袋。
「ありがとう……?」
プレゼント? と飲み込めないままお礼を言うと、「クリスマスプレゼントです」と答えられる。
「香織から物を贈られたことがないのは意外でした。でも、付き合っていなければ機会はないかもしれませんね。誕生日も?」
「あたし三月末で春休み期間だし。何かのついでって時期でもないから……」
わざわざ呼び出して会って、というのは「交際」していないのでややハードルが高い。クリスマスも言うに及ばず。
ひとまず、手袋を両方の手にはめてみる。ふわっとして温かい。
その様子を見ていた伊久磨が、普段通りのさりげなさで言った。
「俺も心が狭いことを言いますけど、いま結構嬉しいです。彼氏として、香織に勝ちたい気持ちはありますし。すぐには無理でも、静香に振り向いてもらいたいと思っています。……マフラー使います?」
どことなく悪戯っぽく付け足して、不意に自分の首に巻いていた黒のマフラーを抜き取ると、静香のすうすうとしていた首に巻き付けてきた。
どきりとするくらい柔らかい温もりに包み込まれる。
「伊久磨くん、寒くない?」
「静香が寒いよりは良いです。ずっと寒そうだなって思っていたから、きっかけがあって良かった」
屈託のない微笑みがまぶしい。
ちょうど、犬の散歩で通りがかったひとがいなければ、どちらからかキスしていたかもしれない。
見つめ合ったまま、なんとなく笑ってしまう。
首と手が温まったせいもあるだろうが、心が凪いでいくのがわかる。
(やっぱり、このひとのことが好きなんだ――)
胸のうちから思いが溢れ、溜息をつきたくなるほどの幸福感に満たされた。
自分はこのひとと一緒に歩んで行きたい。このままずっと。
その気持ちに嘘はなく、過去との決別の意味も込めて、静香はその言葉を口にした。深く考えもせず。
「伊久磨くんがいて良かった。ほら、あたしがいつまでもふらふらしていると、香織も彼女とまたダメになったかもしれないしね。あたしと伊久磨くんが幸せそうにしていたら、羨ましくて自分の恋愛も真面目にする気になるんじゃないかな。これで良かった。うん」
話をする前から、香織の彼女には抵抗を覚えていたが、それは狭量に過ぎる。
今日、椿邸で顔を合わせたらきちんと話してみよう。
そんなことを考えていた静香の耳に、伊久磨の独り言のような呟きが届いた。
「そっか。いま腑に落ちました。静香はなんで俺と付き合う気になったのかなって疑問だったんですけど。『香織を幸せにするため』だったんですね」
「え?」
顔を上げて、聞き返す。
向けられた伊久磨の笑みは、どこにも瑕疵のない、完璧なものだった。
まるで初めて会ったときの、仕事中のような。
声も穏やかで優しく、非の打ちどころがないほどの最高の接客を思わせた。
「俺にとっても香織は恩人で、幸せになって欲しい相手です。香織を幸せにするための道具になれというのなら、もちろん喜んで」