乱反射
晴れた日の雪国は。
純白の積雪が陽射しに照り輝いて、目映いほどの明るさだ。
薄暗い店内から飛び出したら、乱反射してさんざめく光に目を撃たれて立ち眩みを起こした。
圧倒的、光。
ぐらつく頭を手でおさえて、よろよろと歩き出す。
前が見えなかった、ほんの一瞬。視界がさっと暗くなる。
「おっと」
額からぶつかった。
男の人の声。目の前に白い服が見えて、身を引かないとと思うのに、踏みしめた箇所が凍り付いていて、爪先が滑る。
手首を掴まれて、引き寄せられた。
「大丈夫?」
顔を上げる。
透徹と澄んだ青い瞳が見ていた。見間違いではない、青。
「大丈夫です。すみません」
間近で見るにはあまりに綺麗な色。慌てて身を引くと、するりと手首にかかっていた力が抜けて、離れていった。
まだ明るさに慣れない目を何度も瞬いて、見る。
長い黒髪。「椿屋」の文字の入った白い作務衣。頭身が引き立つような小さな顔。
切れ長で清冽な青の瞳の印象が強いが、面差しも息をのむほどに端正だ。形の良い唇に浮かべた微笑みからは、匂い立つほどの危うさが漂っている。
「泣いている」
静香が何かを言う前に、きっぱりとした声で指摘されてしまった。
知らないひとなんだから、見なかったふりをしてくれればいいのに。
「泣いて……ます?」
反応に困って、指で目頭に溜まった涙を潰すようにぬぐい取りながら、笑ってみる。
行く手を塞ぐように立った男は、全然その場から退く気配もなく、笑みを消して重ねて言った。
「どう見ても泣いている。心の中も真っ黒だ。墨を水に垂らしたみたい。何から逃げている?」
変なひとだ。
足が、一歩ひいてしまう。それなのに、とどまってしまったのは、「椿屋」の刺繍のせいだ。工場も近いし、何か理由があってそのままちょっと出て来たというように見える。知り合いではなくても、知り合いの知り合いくらいだ。
特に義理の発生する距離ではないと思い直したときには、無視して去るタイミングを逸していた。
「何からって、ええと……」
逃げて来たんだろうか。あの場にいたくはないというのは、逃げなんだろうか。
いたくなかった理由も、咄嗟に出てこない。まだ頭の中がぐちゃぐちゃで、全然整理がついていない。
自分を見ない香織。事情のある女性。香織の「エレナ」さん。
居心地のよい馴染みのカフェに、受け入れがたいものがたくさんあった。まるでお前の居場所はここじゃないよ、と言わんばかりに。
誰かに言われたわけじゃないのに。
香織が拒絶していたから。
「いま心の中にいるひとは誰? 一番大事なひと?」
青い瞳が胸の奥底まで見透かすように見つめてくる。
いま。
言われた瞬間思い浮かべていた相手は、間違いなく。
(香織……)
罪悪感と後悔をいくつも積み重ねながら、覚えのある自己嫌悪にじりじりと焼かれる。いたたまれない。
目の前に立つ男は、不意に、笑った。笑いながら、優美な所作で自分の心臓の上に手を置いた。
「俺のここにはいつだって死んだ妻がいる。心が狭いから他のものは入る隙が全然ないんだ。だけど、あなたはきっと心が広いんだね。何人も置いておく余地がある。……それとも、隙間だらけなんだろうか。そこに入りたい相手にいつの間にか入り込まれて、しかも自分では追い出せない。弱いね」
明るさに目が慣れた。
涙も乾いている。
「どなたかは存じ上げませんが、『一言余計』ってよく言われませんか?」
言われっぱなしでなるものかと。目に力を込めて見返す。
青い瞳に受け止められる。見つめていると息が止まりそうなほど鮮やかに、笑いかけられる。
「一言どころか、『お前はもう何も言うな』と言われることなんてしょっちゅうだ。だけど、それで黙るのは性に合わない。なんで言われたくない奴に俺が配慮しなきゃならないんだ。俺なんか、ひとに言えばドン引き確実のハイパー不幸な人生送ってきたからね。『強キャラなんだから周りに遠慮しろ』なんて言われた日には、間違いなく千倍にしてやり返す。ぬるい奴が多すぎなんだよ世の中。そう思わないか」
同意を求められた。
(修羅の国から来たひとなのかな?)
黙らない、配慮しない、遠慮しない。千倍返し。
仲良くなりたくはないが、憧れそうになる。
力の無い笑いがもれた。失笑の類だったかもしれないが、全身からどっと力が抜けて、心の中の黒い霧が少し薄れた気がした。
「ちょっと違うかもしれないんですけど。強キャラというか……、あたしって客観的にわりと恵まれて見えると思うんですよね。あんまり苦労してなさそうとか、不幸じゃなさそうとか」
たとえば容姿で嫌な思いをしたことがあっても、ひとには言えなかったように。
クリスマスの「海の星」でひどい言葉をぶつけられたときも、何も言えなかった。
あの晩伊久磨に思い切って「ああいうのはきつい」と打ち明けられたのは、自分の中ではかなり画期的なことだったのだ。「他人からどう見られても仕方ない」ではなく、「伊久磨にはそう思われたくない」が勝ったということ。自分にとってあれは大きな一歩だった。
「ときどき思うんです。幸せそうな人間は、どんなにひどいことをされても、振り上げた拳を振り下ろしてはいけないの? って。……堪えているんですよ。あなたから見て幸せそうでも、あたしにだって色々あるんだっつーの、とか。もしかしたら相手より幸せな要素もあるかもしれないけど、それだって自分で努力してようやく手に入れてたり……。そういうの、ただ羨ましがる人間に搾取されるいわれはないんです。だけど……」
何を言っているんだろうと思う。
言わされている。
(ほんとだ。あたしきっと隙だらけで、すぐに心の中にひとに入り込まれてしまうんだ)
本来、こんな往来で、初対面のひとと立ち話でする内容じゃないのに。
それでも、言葉を探してしまう。
いま言わなければ先程の光景に潰されてしまうとでもいうように、焦燥に駆られて。
「お前さえ我慢すれば、みんなうまくいくんだ、って。誰かに言われたわけじゃないのに、言われたつもりになって。言いたいことも言えないで。こんなストレス抱えきれないって思っても、どうにかこうにか、美味しいもの食べてみたり。行きたかった場所に行ってみたり。たくさん寝たり。少しずつ、少しずつ自分で自分を回復させてきました……。そういう、方法は、蓄積あるから。嫌なことがあっても自分なら耐えられるって。信じて、生きていくしか」
助けてくれる誰かなんて、きっといない。ずっとそう思っていた。
――せめてマイナスにはならないようにしてください
(たぶん、あの一言で)
抱えてきた脆い部分を突き崩された。本格的に落ちた。彼に。
お前は「持っている人間だろう」「このくらいいいだろう」「怒るなんて心が狭い」と搾取され続けても、自分は「何も奪われていない」顔をして前を向いて生きていなければと。
彼は、奪わないと言ってくれた。何も奪わないと。一緒にいる上で、マイナスにしないと。
それだけで良かった。
目の前に立っていた青い目の強キャラの表情が、変わった。
笑っている。さっきより全然優しい。
何か言おうとしたけど、言葉にならず、静香も笑いかけてみた。少し恥ずかしい。
(なんだか、すごく楽になった……)
頭の中が香織一色だったのに。すっきりして、自分が好きなひとのことを思い出せた。
大切にしたいひとのこと。
いま、恋をしています。あのひとのことが、好きです。大丈夫。
「ところで、晩御飯何がいい?」
にこにことしたまま、男から問われる。まるで一緒に暮らしている同棲相手のような気さくさで。
「晩御飯?」
なんの話だろう? と素直に聞き返したら、天使のように健やかな笑みで言われた。
「今日、うちに泊まるでしょ? というかそういうことになると思う。男だらけの中に女性がひとりだけというのはさすがに抵抗があると思うけど、二人ならまあ、ありかなぁと」
うち? 泊まる? 女性が二人?
疑問符しかない静香に向かって、男は明るい調子で言った。
ちょうどそのとき、「西條シェフ、寒くないですか」と声が聞こえた。伊久磨がすぐそばまで来ていて、静香の横に並んだ。
タイミングをはかったかのように、「西條シェフ」が言った。
「藤崎が来てるって、紘一郎から連絡あったけど。宿決めてないらしいんだよね。この年末ホテルなんか簡単にとれないし、椿邸に泊まることになると思うんだけど。あなたが蜷川の彼女だよね? もう椿邸に泊まっちゃいなよ。いやー大人数の料理って腕がなるよねー。楽しみだなー」
(藤崎エレナさんと、あたしで、今晩、椿邸に泊まる?)
何言ってるんだろう、と思って伊久磨を見上げると、目が合った。
……椿邸に泊まる?
第14話「迷い道雪深く」はこれにて終了です。
このまま椿邸編を書こうと思っていたんですが、長くなりそうなのでいったん区切り。すぐに続きます。
いつもブクマ・評価・感想ありがとうございます。感想欄は、もはやワイワイと作戦会議みたいになっていますが、初めての方でもどうぞ気兼ねなく。読んでいる部分がリアルタイムでなくても大丈夫です!(笑
Twitterの方で最速リアタイ派(※とてもありがたい)の方が次エピソード予想をくださることもありますが「んん??ほぼ当たりかな?」みたいな反応しつつ内心(と、見せかけてーーーー!?)なんて裏をかくことを考えてしまったりもします。それもまた楽し。
御用の際はあちらで話しかけていただいても大丈夫です!!
@arisawamahiro
ということで、皆さまのお力のおかげでここまで書いてこれました。どうもありがとうございます。
まだ続きまーす!!