螺旋
透明な拒絶。
香織の全身が拒否していた。寄るな、と。
(あたしを見ないんだ)
いつも。いつだって。年単位で会わなかった後でさえ、隣に居場所を作ってくれていた。他の誰とも違う、特別な存在であるかのように。
寄るな。
横顔で。背中で。傍に来るなと言っていた。
(無理やりキスをして、「浮気した」と罪悪感を植え付けたくせに。あたしの恋愛を壊そうとしたくせに。自分は「エレナ」さんと、平気で付き合うの?)
ザラザラとした不快感が止まらない。
手を付けないままコーヒーは冷め始めている。
紘一郎とエレナは何かの思い出話をしていた。
香織が待ち合わせていたという弁護士はすぐに現れ、海の星の女性と三人で話し始めた。静香の座る席と、テーブルひとつ挟んで、香織と女性が座っている。背中合わせだが、距離が距離だけに声は聞こえる。
確認のように、香織が手早く説明していた。妻子がいることを隠したまま付き合っていた男との間に子どもができた。妊娠後、男が既婚者であることが発覚。とにもかくにも話し合おうとしたが「妻にバレたら不倫をしたお前も慰謝料請求されるぞ」と脅されて、話し合いに応じてもらえなかった、という。
子どもは生む。認知させ、養育費も請求したい。その線で相手と交渉を始めたい。急ぎで。
(こんな話、聞いている場合じゃないのに)
三人の話しぶりは落ち着いていて、事務的ですらあった。同情だとか、何かしらの感情を喚起させるようなものではなかった。
だが、痺れ毒を打たれたように、身体が強張っている。
彼女の抱えた事情。「望まぬ妊娠」と、信頼していた相手に裏切られ、脅迫を受けていたということ。
だからといって、誰かに八つ当たりしていいわけじゃない。
全然無関係ながら、人脈があるということで協力してくれる香織が側にいただけで、彼女はきっと恵まれている。状況が最低であることには変わりないけど。
子どもを生んだら、という話に戻る。
養育費とかは実はほとんど期待していない。里子と里親のマッチングを行っているNPOとも連絡をとっている、と女性が話し始めた。まだ決断はしていないが、選択肢としては、と。
本来、結ばれない相手との間に子どもをもうけて、生むだけ生んで手放して自分では育てない。
穏やかな声で、香織が相槌を打っている。心中は知れない。振り返って、その顔を見ることもできない。
……育てられないなら生むなというのは正論で、この上なく正しく。
――妊娠、二度目なんです。東京で働き始めて二年で結婚して、妊娠しました。その時は、もっと仕事したくて、まだまだ全然大丈夫だって無理して働いて、だめにしちゃったんです。結婚もだめにしちゃいました。それで、今回妊娠したときに、相手に対するやりきれなさはあったんですけど……。一度目のこともあったから、ここで堕したら、もう二度と妊娠できないかもしれないとか。一度目の子が戻ってきてくれたんじゃないかとか。考えているうちに、どうしても決断できなかったんです。だから、生むのは生みたいんです。育てられるのかっていうのは、みんな言いますね。……ハルさん以外、みんな。どうやったら、親子二人で生計立てられるか考えよう、って。そう言ってくれたのはハルさんだけ。
感情の抑制された声が濡れたのは「ハルさん」と口にしたとき。
不幸なひとが、不幸だからといって、他の人を攻撃することは正当化されない。
また、攻撃に対して怒るのは正当なことだ。怒るなとか、許せとか他人が言うことじゃない。
(「男の人に食べさせてもらう女の人」とか、侮辱されたのはあたしだ)
彼女がわかりやすく不幸な状況だからといって、その痛みを静香が引き受けるのはおかしい。
無関係なのだ。
ここで静香が相手を許さないのを責めるのはおかしい。相手だって、許されない覚悟くらいあるはず。
だけど、無関係といえば、香織も無関係だ。海の星のシェフだって、無関係だ。それなのに。
見返りなんて望めないのに、手を差し伸べている。
なんらかの心境の変化によって、「静香のことはもう見ない」と決めたらしい香織であっても、他人への優しさを喪失したわけではないということだ。
ただ、静香にだけはもう背を向けている。背中合わせで、お互いの顔を見ることもない。
――生む前から、本当にだめな母親で……。どうにか幸せにしたいけど、幸せにできる要素なんかどこにもなくて。生んじゃいけないのかと思うんだけど、最近お腹の中で動いているんです。どうにか生かしたいんです。たとえ手放すことになっても……。手放さないで育てたいというのが一番ですが。生めなかった一人目が戻ってきたなんて、思っちゃいけないってわかっているのに。わたし、本当に、母親になりたいんです。
涙に濡れた声で話すそのひとに、香織はどんな顔を向けているのだろう。
穏やかな声が耳に届く。
「俺も片親だけど、なんとかここまで育ったよ。あんまり自分のことだめって言わない方がいい。……子どもを産むのって大変なんだよね。今まで考えないようにしていたけど。俺にも母親がいるわけだから、どういう気持ちで産んだのか、少しだけ、本当に少しだけ、考えてしまった。不幸になれなんて、そんなこと、きっと思ってなかっただろうなって」
これはただの俺の願いみたいなものだけど。
その席に座っているから、聞くつもりもない会話が聞こえてしまうのだ、とようやく気付いた。
静香は立ち上がって、戸口に向かう。
泣いているのを見られたくなくて「梓さん、ごめんなさい。後でまた来るから。荷物と会計」と顔を向けずに言うだけ言って、外に飛び出した。