黒く染まる
「椿屋さん知っているの? いま、聖がね、母屋にお世話になっているんだって。部屋余しているからもうみんなどうぞって家主さんに言われて、僕も今日から何故かお泊り」
女性に対して、とてもにこやかに語る紘一郎を、静香はぼんやりと見てしまった。
(西條聖さんって、シェフのお知り合いの料理人だよね、やっぱり。伊久磨くんと椿邸にいるとは聞いていたけど、この写真家さんも……?)
男四人で年越し……? と疑問でいっぱいになっている静香の横で。
藤崎さん、と呼ばれた女性がぼそりと言った。
「家主さんって、香織さんですか」
香織。
思わず、静香はその顔を見てしまった。知らない女性の口からその名前が出てくることに、少なからぬ驚きがあった。
「香織くんと知り合いなんだ?」
紘一郎の問いに、女性の視線が、頼りなげにさまよう。
静香の目は、その首元のマフラーに吸い寄せられてしまった。
(それは香織の?)
視線を感じたのか、女性が顔を上げて、静香を見た。それから、すうっと目を逸らされた。
「まずは何か飲んだら良いんじゃないかしら。コーヒーは大丈夫ですか? メニューもありますよ」
梓が声をかけると「はい。コーヒーお願いします」と言いながら、先程静香が座っていた席に向かう。
「どうしたの? 元気がないように見えるよ。って、僕が聞いてもいいのかな。聖呼ぼうか」
おっとりとした罪のない様子で紘一郎が言い、女性は椅子に座りながら焦ったように手を振った。
「いえ、いいえ。会いたい気持ちはありますけど。そもそも、工場に入れてもらってるって、鷹司くんいま何しているんですか」
(あ……「鷹司くん」か)
一瞬、なんの話かわからなくなった単語。紘一郎は気にした様子もなく「料理。元から料理には凝っていたけど、きちんと修行したみたい。和菓子はただ単に興味があって押しかけているみたいだけど」と笑って言った。
静香は、ひとまず窓際のテーブル席にコーヒーを置いて、座ってみる。
(西條聖さん=鷹司くん? 「藤崎さん」と西條さんは同級生で、藤崎さんは香織と……?)
聞けばいいよね、と思うものの、どう会話に混ざっていけばいいのかわからない。
だが、ひとりで座っていればしぜんと話は耳に入ってしまって、それも盗み聞きのようでおさまりが悪い。
困ったな、ともぞもぞしていた矢先。
引き戸がからりと開いた。
今度こそ伊久磨が来たに違いない、と期待して腰を浮かしつつ顔を向ける。
後から続く人を気にしたように、戸をくぐって待っているのは、見慣れた立ち姿。細く束ねた長い茶髪に、キャメルのコートを羽織った背の高い人影。繊細に整った横顔。
(香織)
会うと思っていなかったタイミングだけに、胸がどきりと鳴る。痛いほどの強さで。
ゆっくりと続いてきたのは、一瞬子どもかと思った。くるんとした茶色の髪に背の低い女性。
あ、と静香の口が声を発さぬまま開く。
クリスマスに「海の星」で出会ったスタッフの女性だ。妊娠しているという。
――なんで香織と?
喉の奥に何か詰まったみたいに声が出ない。胃がぎゅっと痛くなる。
苦手意識のある女性を見ただけで気が立っているのに、その相手を香織が気遣っている姿はなんだかものすごく。
心が狭いという自覚はできるのだが、大変非常に。
出来れば、見たくなかった光景。
いっそ気付かなかったふりをして、窓の外を見ながらコーヒーでも飲んでいようか、と白々しいことまで考えてしまったのだが。
「香織さん?」
という、震えた女性の声にそんな姑息な思惑も吹き飛んでしまう。
紘一郎の横に腰を落ち着けていたはずの女性が立ち上がって、香織を見ていた。顔は強張っていて、明らかに静香以上に驚いている。
一瞬、香織は店内に視線をすべらせた。
静香に気付いた様子はあったが、優先したのは静香の知らない女性の方だった。
「エレナ、来てたの? 連絡くれれば良かったのに」
香織が女性連れであることを気にしている藤崎という相手に対し、香織はよそ行きの愛想の良さで微笑みかけていた。
* * *
「少し難しい話があって。この年末なんですけど、うちの顧問弁護士が動いてくれるということで、待ち合わせているんです。『セロ弾きのゴーシュ』が開いていて良かった。梓さん、少し席をお借りしますね。穂高先生は、御用がお済みでしたら、どうぞうちに来て寛いでください。宿代替わりに西條が三食作るって言ってました」
如才なく梓と紘一郎に説明してから、「海の星」の女性に「足元、気を付けて。そこ濡れてない?」と優し気に声をかける。
香織は優しい。もちろん、知っている。静香にも優しいし、伊久磨にも優しい。
だけど、「エレナ」と。静香以外に名前を呼ぶ相手がいて、静香に凄く意地悪をした小柄な女性にも親しそうな態度を取っている。
面白くない、と思う筋合いではない。
香織の交友関係なんか、静香の知ったことではないのだ。
(兄妹かもしれないけど、確かめたことはないし。彼氏彼女でもないし)
お互いに知らないこともたくさんある。あくまで、人に説明するときの関係性は「中学からの知り合い」だ。
それなのに、胸の中に自分でもびっくりするくらい黒いものが広がっていく。
いまは静香に「彼氏」がいる。自分で決めたし、伊久磨のことは好きだ。
(香織も、なんてあり得ない。わかっている。繋ぎ止めても、あたしは香織に与えられるものが何もない)
掴みかかられて押し倒されたときの記憶も「恐怖」として刻み込まれている。その「恐怖」を越えて、もしどうしても香織が欲しいなら、自分の持つものすべてを与えてもいいとすら思ったのは、気の迷いだと結論を出していた。
であれば、香織は香織の望むものを手に入れるべきだし、そこに静香は口出すことなどできない。
ここで迷えば、伊久磨の信頼を失う。たとえ伊久磨が静香を好きではないとしても、静香から裏切ったことによって失恋するのは嫌だ。
正しいこと、頭ではわかっているのに。
「齋勝さん。先日は本当に申し訳ありませんでした。ひどいことをたくさん言って……」
香織がつれてきた「海の星」の女性が、静香の前まで歩いてきて、神妙な顔で頭を下げる。
――お客さん? 休みの日や閉店後に狙ったように来るひとがですか? ハルさんも蜷川くんも甘いなー。それとも、香織さんの知り合いだからですか? まあいいですけど。好きにしてください。そういう風に男の人に食べさせてもらう女の人、私はあんまり好きじゃないですけど
(ひどい、どころじゃないよ。ほとんど初対面だったのに、いきなり。どんなに虫の居所が悪くても、あんな風に言うひとがどこにいるの!?)
胃の腑が燃えるように。沸き立つ感情が、目から瞬間的に怒りとなって迸った。自覚はあった。唇が震え、言葉は出てこなかった。
「静香。何か行き違いがあったみたいだけど、謝っている相手に対してその態度はないんじゃない。あと、心愛ちゃんいま妊娠しているから。優しくしてね」
睨みつけるだけの静香に対し、香織が冷然と言った。
(香織……!)
頭がくらくらして、目の前が暗くなる。
「……何言ってるの、香織。香織はその場にいなかったじゃない」
妊娠しているから。優しくしてね。
何言ってるの?
そういう問題じゃない。いきなり、「男の人に食べさせてもらう女の人」って。決めつけて、怒鳴りつけられた。
(香織はそんな経験したことないでしょ……!?)
「香織さん、違うの。わたしが悪かったの。妊娠しているからとか関係なくて、すごく失礼なこと言った。許してもらえないの、当たり前なの」
心愛は、身長差のある香織を見上げて、切々と語る。
(何それ。今になってそんな、「わかったようなこと」言えるなら、あのときなんであんなこと言ったの……!?)
怒り過ぎて、まだ声が出ない。
そんな静香を捨て置き、香織は心愛にやわらかに微笑みかけた。
「和嘉那さんが言っていたけど、感情の乱高下が妊娠前と明らかに違うって。湛さんに八つ当たりすることもあるくらい、って。自分じゃどうにもできないときがあるから、そういう人が他にいても不思議はないと思うってさ。心愛ちゃんもそうなんじゃないの? いつもとは違うんでしょ。静香は心愛ちゃんの普段を知らないから、そういうときに会ったらびっくりしたかもしれないけど。ごめんね、なんか今日はへそを曲げているけど、普段は素直なんだよ、静香」
勝手に、静香のことをぺらぺらと話している。
(違う。そうじゃなくて……。そういうフォローはいらない)
怒っているのだ。怒らせて欲しい。
そう思いつつも、もはや面と向かって怒る気力は削がれてしまっていた。この期に及んで自分がこのひとに怒りをぶつけたら、ただただ狭量という印象にしかならない。
あまつさえ、香織に「女性の敵は女性だな。優しくできない?」なんて言われてしまうかもしれない。
それは。それは嫌だ。
「……何か用事があるんだよね。あたしは伊久磨くんと待ち合わせだから放っておいてくれていいよ」
なんとか笑みを浮かべて、それだけ言って身体ごと背けた。コーヒーカップに手を伸ばしたが、指先がカタカタと震えている。
(悔しい)
香織がまったく自分のことをわかってくれない。こんなに怒っているのに、不当な目にあったのに、相手の肩を持って、全然こっちを見てくれない。
「あそこに座ろう。もう立っているの結構辛いんじゃない?」
「そんなことないよ。この年末までお仕事もしていたんだし、まだまだ平気。ありがとうございます」
香織が、心愛の背中に触れない程度に手を回して、連れて行く。
様子のおかしい静香のことは放置だ。
しかし、ひとつテーブルを置いた席に心愛を座らせてからすぐに引き返してきた。
何か。
声をかけてくれるのかと思ったのに、静香には目もくれずカウンターの方へと向かってしまった。
エレナが立ち上がって、香織に駆け寄る。
「エレナ、今日時間あるの? 予定を聞いてもいい? 俺、午後は時間あるけど」
「うん。また途中下車しちゃった」
香織を見上げたエレナの顔は、春風にほころぶ花のような笑み。
静香の位置からは、香織の背中しか見えず表情はわからない。だが、見なくてもどんな表情かは想像がつく。
香織は、手を伸ばしてエレナの髪に触れた。
「また? じゃあ、ホテルも何も決めてないんでしょ。俺に任せてみる? 今晩はいつもより長く一緒にいようか」
親密な関係を思わせる、甘い声で囁きながら。