いくつかの再会
いらっしゃい、と迎えてくれたのは懐かしい声。
ふわっと温かい空気とコーヒーの香りに包み込まれる。
薄暗い中、オレンジの光を放つペンダントライトがいくつも吊るされて光源になっている店内。
カウンターの奥にいたのは、よく通っていた高校の頃、いつもそこにいた姿勢の良い女性。以前より白髪が増えているが、雰囲気は全然変わらない。
「静香? おかえりなさい。お正月はこっちで過ごすの?」
「梓さん、お久しぶりです。今日戻りました」
古ぼけた木の床の上、スーツケースを引かずに軽く持ち上げて店内に足を踏み入れる。
相変わらず客席に人はいないが、カウンター席に背の広い男性がひとり、座っていた。
ちょうど口を付けていたマグカップをカウンターに戻して、顔を向けてくる。
柔らかそうな濃い茶色の髪に、瞳はガラスのように透き通った茶色。
年齢は全然あたりもつけられないが、強いて言えば四十歳前後に見える。
古い外国映画の俳優を思わせるような風貌だ。
(「花咲ける騎士道」「地上より永遠に」「エデンの東」……ええと)
具体的に誰、と名前が浮かぶわけではないが、彫りの深い二枚目がそのまま年を重ねたような印象だった。
「駅から真っすぐきたの? コーヒーでいい?」
馴染みの客なのだろうか、不在の樒和明の代わりにカウンターに立つ樒梓は、男を気にする様子もなく静香に気安く話しかけてくる。
「友達に迎えにきてもらいました。自宅が近いみたいで、いま車置きに帰っています。あとで来るって」
「お昼は食べた? 何か用意する? 友達が来てから?」
「はい。待ちます」
カウンターには先客がいるから、どこかのテーブルがいいかな、と店内を見回していたら「座らないの? こっちにどうぞ」と梓に呼ばれた。
たしかに、久しぶりだから話したい気持ちはある。
いきなり伊久磨と二人の姿を見られる前に何かしら伏線を張っておきたいというのも、もちろん。
(彼氏なんか、ここに連れてきたことないから。彼氏……彼氏……)
回想しない。回想してはいけない。甦りかけた最前の記憶に慌てて蓋をして、男性から一つ置いた席に座った。
梓はにこりと笑って、言った。
「写真家の穂高先生。今度この辺の小さなお店いくつかをギャラリーに見立てて写真展をするの。ええと、この子は私の友人の娘で静香。いまは東京で働いているんだけど、高校生くらいまではよくお店に来てくれていて」
簡単に紹介されて、写真家は静香にあたたかな笑みを向けた。
「はじめまして。穂高紘一郎と申します」
「はじめまして、齋勝静香です。インドアグリーンのコーディネート中心に仕事をしています」
それだけじゃなくて、色々やってます、と付け足す。
(写真家か……)
自分自身がフリーランスで働いているので、その意味では「同種」のような思いを抱く。食べて行くのが大変そうな職業という気はするが。
「グリーン? 植物に詳しいんですか」
しずかな声だった。明らかな年齢差があるのに、丁寧な話し方なのも好印象だった。
「仕事で扱う範囲に関しては、プロとしてお金を頂いているので。でも、もちろん知らないこともたくさんあります。毎日、とにかく勉強です」
「大学は農学部だったのよね」
梓に合いの手のように言葉を挟まれて、頷く。すると、紘一郎が目を輝かせた。
「そうなんですね。農学部を卒業するとそういうお仕事があるんだ」
親しみやすい、ひきこまれるような笑みだった。目を逸らせなくなりながら、静香は口を開く。
「もちろん、他にも色々あると思います。あたしはたまたま、実家が花を扱っていて、祖母も母も華道をしていましたし、植物が身近で……」
そんなに面白い話だとも思わないのに、「そうですか」と大きく頷かれる。
「先生、何か植物のことで気になることでも?」
反応が良かったせいか、梓が口を挟んだ。
静香に身体ごと向いていた紘一郎は「そうですね」と言ってから、梓を振り返る。
「以前、身内に農学部に行っていた子がいたんですよ。その頃、僕はあまり詳しく話を聞いたことがなくて。ただ、あのまま卒業していたら、そういう仕事もあったのかなぁと……」
どこか不思議な物言いだった。紘一郎も自分で気付いたのか、マグカップを持ち上げてコーヒーを一口飲んでから、ゆっくりと続けた。
「ごめんなさい。自分だけがわかっている話で。僕は事情があって、遠縁の子どもを預かって育てていたんですけど、その子が結婚した相手のことなんです。常緑樹の常緑と書いて『ときわ』という名前で、名前の通り緑が好きな女性でした。大学を卒業する前に、病気で亡くなってしまって……。彼らの結婚生活自体はとても短くて、僕も旅で家を空けがちだったのでそれほど話はできなかったんですが。いま思い出して、懐かしいなと」
まあ、と梓が曖昧な相槌を打つ。
(大学卒業前に亡くなる……。亡くなるのを見越しての結婚?)
その年代と言えば、付き合って別れて、失恋したとは言って泣いて飲んで。恋愛しても結婚なんか現実感がない。静香に至っては、そんな男女交際問題とすら一線を画していた。距離をおきまくっているうちに「青春」と呼ばれるような時期は通り過ぎてしまった。
(それでいまほとんど初恋みたいな……。片思いなんですけど)
思い浮かべるだけで、胸がじくじくと痛む。
伊久磨にとっては、あくまであの場の流れでの交際の申し込みであって、付き合ったきっかけはいわゆる「告白」とは違っている。「好き」だから付き合ってくださいではなく、「差し支えなければ彼氏彼女体験しませんか」みたいな。
それで、今は生真面目に彼氏として振舞ってくれて、自分も舞い上がってしまっているが。
いつか、正式に付き合う日が来るのだろうか。
(普通だったら、好きになって告白して付き合うんだろうけど。現状「付き合って」はいるんだよね。それでこっちは好きになっちゃって……、伊久磨くんは将来的にはどう考えているんだろう)
遠距離だ。結婚なんてことになったら、現実の壁が立ちはだかる。そもそも、この関係はいつまで続くのだろうか。彼が、仕事をする上で必要十分な「愛」を理解したら終了なのだろうか。
「しんみりさせて申し訳ありません。もう数年前のことですし、彼も自分の道を見つけて生きています。そうだ、先日ご挨拶させて頂いたみたいですが。聖です。西條聖」
静香の前にコーヒーのカップ&ソーサーを差し出しながら、梓が話に乗る。
「あ、はい、来ました来ました。その節はご丁寧にありがとうございます。不思議な雰囲気の方だなと思いましたけど、そういうことがあったんですね」
(不思議さでは和明さんも負けていないんだけどなぁ……)
思い浮かべて、静香は思わず小さく笑った。
そのとき、珍しく店の戸が開いた。
伊久磨が来たのか、早いなと思いながら静香は振り返ったが、そこにいたのは目当ての人物ではない。
ふわりとパーマがかった髪を肩にのせた、若い女性。一目で美人と知れる、目鼻のくっきりとした顔立ち。暖かそうな、ホームスパンみたいな織りの焦げ茶色のコートが洒落ていてよく似合っている。首元にはマフラー。紺色の。
(……あのマフラー)
どこかで見たことがあるな、と記憶を探った。思い出したのは、去年顔を合わせたときに香織がしていたのに似ている、という。偶然だろう。
「いらっしゃいませ。お好きな席にどうぞ」
入口に立ち尽くしていた女性に、梓が声をかける。
はい、と答えながら、黒のロングブーツを履いた足が床を踏みしめた。
見るとはなしに見ていたときに、静香が背にしていた方向から、紘一郎が声をあげた。
「あれ?」
その声につられたように女性が顔を向けてくる。
(やっぱり美人さんだ)
化粧は薄そうだが、猫のような目も、高い鼻も小さな唇もパーツのすべてがバランス良い。
その目が大きく見開かれた。片手で口元を軽く覆って、まっすぐ紘一郎を見ている。
「穂高先生……!! うそ。写真展のことネットで知って、在廊期間があるのは見ていたんですけど、まだ早いですよね……!?」
すごい。ちゃんとファンがいる写真家さんなんだ、と感心しきりの静香を通り越して、紘一郎のやわらかな声が響いた。
「藤崎さん? だよね。聖の同級生の。わざわざ調べてきてくれたのかな。ありがとう。あ、もしかして聖と連絡とってる?」
「いえ、鷹司くんとはべつに。海外に行ったって聞いてそれっきりです」
誰の話をしているのだろう、と不思議に思う静香をよそに「どうぞ座ってください、寒かったんじゃないですか」と梓が女性に声をかける。
カウンター席は紘一郎が一番奥に座っていて、間一つ置いて静香。さらに間一つおいて女性が座ろうとしたので、静香は慌てて立ち上がった。
「あの、どうぞ、ここ。お知り合いでしたら、積もるお話もあるでしょうし。あたしはどこか向こうに座りますので」
まだ口を付けていなかったカップ&ソーサーを自分で持ち上げて、テーブル席の方へと歩き出す。
「すみません。私が後から来たのに、そんな追い出すような真似は」
慌てて女性が追いすがってきたので、肩越しに振り返った。
「いえいえ。待ち合わせなんです、連れももう少しでくると思うので」
間近で向かい合う。また、マフラーに目がいってしまう。
(ヴィヴィアン……。香織もじゃなかったっけ)
王冠か宇宙船みたいなロゴマークが目に入って、連想してしまったが、すぐに視線を外した。
「藤崎さんっていまこの辺なの?」
まだ立ち尽くしたままの女性の気をひくように、紘一郎が優しく話しかける。
「いえ。帰省の途中で、途中下車といいますか。普段は東京で。たまたま」
「そうなんだ。でもちょうど良かったかな。いま、聖も帰国してこっちにいるんだ。このすぐそばの和菓子屋さんで、工場に入れてもらってるって言ってた。呼んでみたら来るかも」
和菓子屋。それはもしかして、と思った静香の心の声と重なるように、女性が言った。
「もしかして、椿屋さんですか……?」