少々お待ちください
改札を抜ける前から、姿が見えていた。
(ほんとうに……っ、彼氏がいるとお迎えとか来てくれるんだ……っ)
夢みたい。
二十代後半に差し掛かって、こんなことでこんなに感動しているなんて人には言えないが。
齋勝静香は、真っ赤なスーツケースをガラガラと押しながら改札を抜けて手を振ってみる。
黒一色を身に着け、少し前から視線をくれていた蜷川伊久磨は、ほんのりと微笑を浮かべて軽く片手を上げていた。
すぐそばまで早足に歩み寄って見上げると、目を細めて見つめられる。まなざしが、本当に優しい。思わず、頬がゆるんでしまう。
それでいて、声がなかなか出ない。なぜか伊久磨も黙ったままだ。
(この間会ってから一週間経ってないのに……)
帰省を一日早めて、30日に帰ってきた。新幹線の時間を伝えがてら電話したら、「駅に迎えに行きます」と言ってくれたから、いるのはわかっていたのに。
顔を見たらほっとして、微笑まれたら、胸がいっぱいになってしまう。
何度か呼吸を繰り返してから、ようやく喋ることができた。
「あの、わざわざありがとう」
「いえいえ。おかえりなさい。こっちに着いたら、急に寒いでしょう」
耳馴染みのよい穏やかな声が返る。
電話と同じだ。話すまではものすごくドキドキしているのに、いざ話し始めると驚くほどスムーズに会話になる。
そのまま、何か言おうと思っていたら、伊久磨がひょいっとスーツケースを手にして持ち上げた。
帰省時はいつも大して荷物がないので、小さめサイズではあるものの、軽く持たれて「えっ」と静香は思わず声を出してしまう。
「荷物……」
荷物、持たれた。
「持ちますよ。車、駅ビルじゃなくて裏の駐車場に入れました。少し歩きます。そうだ、食事はどうしたんですか。何か食べてからにします?」
驚いている静香の様子に、少しだけ不思議そうな顔をした伊久磨。問うようにじっと見つめられてしまう。
改札を抜けて出て来た人の波が、立ち話をする二人を避けていく。それほどたくさん降りなかったせいか、すぐに改札前からはほとんど人がいなくなった。
とりあえず行きますか、と言いながら伊久磨が歩き出す。
あわあわ、と声にならない声を上げながら静香は半歩遅れて後に続いた。
(か……、彼氏って、荷物持ってくれるんだ!?)
今まで、そういう行為を「なんかいけ好かない」と思っていた。たとえば、いかにも女の子仕様の小さなブランドバッグをわざわざ持つ男なんか、普通にキモイとすら思っていた。
もちろん、持たせる方も。
重さなんかないに等しいだろうに、持つ・持たせる意味がわからない。
荷物なんか自分で持て、と。
ところが、ここにきてなんの躊躇いもなく、伊久磨は静香のスーツケースを持ってしまっている。客観的に見れば、小さなブランドバッグを持たせるほど見栄えは悪くない。だが、まさか自分が男性に荷物を持たれる日がくるとは思っていなかった。
(あたし、「荷物なんか自分で持て教」の教えを大切に守って生きてきたんですけど……)
今日を境に、二十数年大切に胸に抱いて来た教えを棄てることになるかもしれない。いいのか、それで。
「市内のお店は結構閉まってるんですよね。『海の星』もお休みしているから、人のこと言えないんですけど。食べて行くなら駅ビルの中が良いかな。それとも、ご実家にこのままお送りしましょうか」
少し先を歩いていた伊久磨が、言いながら振り返る。静香の遅れに気付くと歩調を緩めて、止まった。
隣に追いついて並んで、静香は「いや、家にはそんなに急いで帰らなくても……何か食べてからで」と答えになるようなならないようなことを言う。
(だめだな……「何食べたい?」ってきかれて「なんでもいいよ」みたいなこういう会話。もっとちゃんと中身あること言わないと)
普段はもっとてきぱきと自分の考えを言えるのに、おかしい。
くしゃっと前髪を片手で潰しながらかきあげて、「ええと」と声を出しつつ見上げる。黙って見つめていたらしい伊久磨の目と目が合ってしまった。
「……どうしたの?」
(何か変だった? なんで見ているの?)
疑問いっぱいで恐る恐る聞いてしまう。
伊久磨は「ええと」と言いながら顔を上げて、視線を泳がす。
それから、静香の方をまったく見ずにぼそっと言った。
「言われ慣れていると思うんですけど。可愛いな、と」
「いわ」
れ、慣れて、なんかないです。
「彼氏に言われたのは初めてです……。前はでもほら、『美人』とか『綺麗』とか、伊久磨くん、ふつーにあたしに対して言い捨ててましたよね……?」
「あれは……。今思うと恐ろしいですね。なんであんな普通に言えたんだろう」
神妙な顔で言われて、静香は唾を飲み込んだ。
(逆に、今は普通じゃないんですか? どう普通じゃないんですか? なんで普通じゃないんですか?)
聞きたいことはたくさんあるが、ありすぎて声にならない。
新幹線の乗降口は、発着時間以外はほぼ人影がない。冬で寒いせいもあって皆急いで去ったのか、すでに周りにはまったく人がいない。
それを伊久磨が考慮に入れていたかは定かではないが。
軽く身をかがめて、顔を近づけてくると思っていたら、唇を奪われていた。ほんの一瞬。
「おかえりなさい。すごく会いたかったです」
こそっと耳元で囁かれる。
かっ
(彼氏の歓迎に心臓がもちません……!!)
足から力が抜けて倒れそうになって、すがるものがなくて、伊久磨の腕を掴んでしまう。倒れかけた気配を感じたのか、逆に腕を掴まれた。ぐいっと強い力で引き寄せられる。
※しばらくお待ちください。
* * *
まさか。
まさか。
周りにひとがいなかったとはいえ、昼日中の公衆の面前で。いや、公衆いなかったけど開けた場所で。まさか。
ひとまず伊久磨の車の助手席に乗り込んでからも、静香はしばらく放心状態だった。
(あたし、新婚さんが「いってらっしゃいのキス」するのも「ちょっと理解できないですね」派閥に属していたんですけど。怖い。自分が怖い。何も信じられない)
一週間会わなかっただけで、再会早々、人目憚らず(いや、人目はなかったけど)キスをするとは。
着実にアレ。世間一般で言うところのバカップルになりつつあるのでは。
(どうして? 自分にそんな素質があったとは思わないんですけど!? 伊久磨くん!? 伊久磨くんのポテンシャルが爆発しているの!?)
いや、ここで片側だけに責任を押し付けている場合ではない。
荷物を持たれてときめいたのは事実だ。認めないわけにはいかない。
キスに関してはまだ頭がついていっていない。現実とは思えない。
なお、真冬にしばらく駐車していた車をいきなり動かすと、エンジンが冷え切っていて負担が大きいので、今は車の暖気中だ。
静香が無言の間、伊久磨も無言だった。
そのことに気付いて、放心している場合ではないと思い直す。
「あのね……。さっきの、ちょっと自分でもびっくりして。自分が人前でああいうことするとは思ってなくて。いや、人いなかったけどね!!」
「さっきの?」
聞き返さないで欲しい。
(これが……羞恥プレイという?)
落ち着きはじめていた心臓が騒ぎ始める。悟られたくなくて、声の平静を保つように気を付けながら、静香はなんとか言った。
「キス」
運転席から、身体ごと向いて聞く姿勢だった伊久磨は、軽く目をしばたいてから、低い声で言った。
「二人になってからだと、それ以上を望んでしまいそうで。密室だと、このくらいかな」
大きく目を見開いて、言葉を失った静香の手を、伊久磨がそっと掬い上げた。そのまま、手の甲に口づける。
「今日も手が冷たいですね」
おっとりと笑っている。
手の甲にキス。手の甲にキス。手の甲にキス。
理解を軽く凌駕した出来事に、静香は驚愕のままほとんど叫ぶように言った。
「前世は騎士ですか!?」
言われた伊久磨は、きょとんとする。
「どうでしょう、覚えていないです。静香は? お姫様?」
(お姫様~~~~~~~~~~~~~~~~!?)
どういう語彙のセンスしているのかと、震えながら静香は首を振った。
「ぺんぺん草じゃないかな!?」
咄嗟に、なんか変なことを言ってしまった。
伊久磨は真剣そのものの顔で聞き返してきた。
「ぺんぺん草ってフローリスト的に何かすごく重要なものなんですか」
(どうしてこういうところは冗談通じない空気なんですかね!?)
追い詰められる。
もはや逃げたい気持ちになって、勢いよく言い切った。
「ぺんぺん草はぺんぺん草ですね!!」
そのとき、伊久磨がふと「そういえば」と言い出した。
(ええっ、そういえばって、ここで話題変えるんですか。あたしまだお姫様ひきずって消化しきれないで胃もたれ胸焼けしていますけど、伊久磨くんには日常語なんですか! お姫様が!)
脳内で喚き続ける静香を置き去りにして、伊久磨はくすりと品よく笑った。
その口から、Vergiss mein nicht、という呟きがもれる。
「勿忘草の。騎士が、愛する女性が欲しがった花を摘み、捧げてから川に落ちて死ぬ伝説だったと記憶しているんですが。静香はフローリストですし、あの花が欲しいとか気になると言われたら、俺も取りに行ってしまいますね、きっと」
それは。
騎士の前世の記憶がよみがえったって意味ですか。
(あたし殺していたんですか、伊久磨くんのこと)
もはや言葉を失った静香の手を軽く握り直して、伊久磨は悪戯っぽく笑った。
「手、少しだけ温まりましたね。車の方もそろそろ大丈夫だと思いますので出発しましょう」
何一つ。
本当に何一つ言えないまま、静香は「はい」とだけ返事をした。