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澄み透って撃たれる(後編)

 海の星が壊滅をどうにか免れた翌日。ランチタイムが終わった頃、犬のぬいぐるみを抱えて、伊久磨がホールをうろうろしていた。


「……犬?」

 まかないのパスタの皿を持ってホールに出て来た幸尚は思わず呟く。

 幸尚の後ろから、ふらりと姿を見せた由春が「ジャックラッセルテリアだな」と、もさっとしながら言った。

 全身白の小型犬風。顔だけ茶色だが、鼻筋は白い。タレ耳。その特徴をちらりと見ただけで、よくも。

「詳しいっすね」

「最近は見ていないけど、秋くらいまではよく朝に散歩しているのを見ていて。ときどき話してた」

 犬と? 飼い主と?

 ざっくりしすぎた情報すぎて何を言っているかよくわからない。

 一方、二人に気付いた伊久磨が困った顔で犬を捧げ持って歩いてくる。


「夜にご予約のお客様が来店されて、お預かりしました。お連れ様にサプライズでお渡ししたいそうで。……貴重品。金庫に入れた方がいいかな」

 そう言って示したのは、犬の首元。首輪にしたロイヤルブルーのリボンに鍵がぶら下がっていた。


「……合鍵?」

 由春と幸尚で、同時に呟いた。

「深見さま。お二人のご予約で『クリスマスディナーをまだ用意できればお願いしたい』と午前中にご相談があってお受けした女性です。おそらくイブか当日、どちらかの用事でデートが流れて……かなと。そしてその時渡しそびれた合鍵を。あっ、何してるんですか、触っちゃだめです。ちょっ」

 由春が、伊久磨の手から犬をひょいっと持ち上げて「鍵だな」と言いながら鍵に触れた。幸尚も、思わず「アクセじゃないですよね。マジの鍵ですよね」と触ってしまった。

 伊久磨だけが、激しい罪悪感に襲われた、ショックを受けまくった表情で「他の男が触っちゃだめでしょう」と言っている。


「プロポーズかもしれないじゃないですか。彼氏の手に渡る前にべたべた触らないでください」

 咎めながら、由春の手から犬を取り戻す。

 怒られた形になった由春と幸尚は一瞬黙り込んだ。先に口を開いたのは由春だった。


「お前、彼女が出来た途端に、ひとが変わったよな」

「はい? なんの話ですか」

「照れがないのは前からかもしれないが。『共感』と『感情移入』というか。肩入れの仕方が」

 横で聞いていた幸尚が「ああ」と頷く。


「ニナさん、彼女が用意してくれた合鍵、他の男に触られたくないんだ」

 それだ、とすかさず由春も重ねて言った。

「鍵だぞ? 鍵でダメなら、彼女に触る男がいたらお前絶対許さないだろう。何か理由があっても……」

 途中までは、からかう口調であったが。

 いやいや、と言いかけていた伊久磨が不意に何かを思い出したように凍り付いて口を閉ざす。

 それを目撃した由春も口をつぐむ。

 気まずさが空間を覆いつくしていく。


「ん……? 何かあったんですか? えーと、ニナさんの彼女ってフローリストさんですよね。ということは、何かあるとすれば香織さんですか?」

 サクサクと話を進めようとした幸尚に対し、伊久磨は何か返そうとはするものの、なかなか言葉にならないらしい。

 由春も完全に失言したという顔をしている。明らかに何かの事情を知っている様子だ。


 そのとき、「おーっす。キッチン借りるぞー」と、裏口から入ってきたらしい聖がキッチンから顔を出した。


 * * *


「午前中に、写真展で協力をお願いしているカフェに挨拶に行ってきた。『セロ弾きのゴーシュ』って。ついでに、近所だったから椿屋さんにも顔出して荷物預けてきた。年末年始宿借りる挨拶。家主、美人だったなー」

 黒いセーターにジーンズ姿で、脱いだ煉瓦色のコートを腕にかけている。肩に流すほどの長く、束ねた髪が目を引くが、毛量をうまく梳いて調節しているようで鬱陶しさはない。

 瞳は青。

 妙な空気になっている三人をじっと見つめて、笑った。


「何かあったのか」

 何かあったと確信している口調だった。


 ――聖さんは、特別。


(好きだった。揚羽のこと)

 可愛いと思ったし、性格も好きだった。

 近所の野良猫、増えては死んでいくのを見ていられなくて、捕まえて避妊手術させていると言ったら、獣医学部の実習だと言って「次からは私に言って」と引き受けてくれた。一緒に働いているからとかじゃなくて、たぶん好きになったのはそのときだ。

 揚羽の特別になりたかった。


 聖の目が幸尚に向けられた。視線が絡む。


 ――ときどき、不思議なことを言うの。うまく言えないんだけど、何かひととは違うものが見えているような、聞こえているような。


(何が見えて、何が聞こえているんだ?)

 青い目に、笑みが閃く。嫌なものじゃない。それでいて、胸が疼く。


「夜に遅れたクリスマスディナー受けているんだが、プロポーズかもしれなくて。犬がプレゼント」

 由春が、嘘ではない説明をする。

 ふうん、と聞いていた聖が近づいてくる。由春と伊久磨をちらりと見てから、幸尚に目を向けた。


「俺は夜の打ち上げ用の仕込みを勝手にさせてもらう。アナナス・ロティ・カラメリゼ作るけど、見るか? 他にも甘いものが必要なら作る。材料は色々用意してきた」

「パティスリーも?」

 海外の有名店をいくつか経験しているとは聞いていたが、料理かと思っていた。しかし、聖はこともなく「そうだよ」と幸尚の問いかけを肯定した。そして、不意に由春にしなだれかかって笑み崩れた。


「こいつさ、全然そっちに興味なくて。やればできるくせに。一番最初に店持ったときのパティシエがよほど良かったみたいで、自分じゃやりたくないって、そればっか。仕方ないから俺がカバーしてやろうかと。早速役に立ちそうだ」

 重い、と由春は聖を腕で押し返そうとするが、聖は一切気にした様子もなく、むしろ腕を伸ばして由春を抱き寄せる。


「できないふりが得意な男だ。その方が周りが助けてくれるって知っているんだ。騙されるなよ。本当は出来るんだ。だから、遠慮なく突き放せ。獅子は我が子を千尋の谷に突き落とすっていうだろ。こんな奴どんどん落としてやればいいんだよ」

 落とせ落とせと言う割に、離す気配もなく捕まえている。スキンシップ過剰。由春はひたすら迷惑そうに「なんで俺が幸尚に落とされるんだよ。逆じゃねえか」とぼそぼそ言っている。

 聖はガン無視してにやにや笑うのみ。

 その瞳は、真っすぐに幸尚に向けられたまま。


 最初に店を持ったときのパティシエは、きっと佐々木心愛だ。今の由春が、どうしても見放すことができない相手。

 海の星で、ずっとパティシエを務めてきたのは幸尚だ。なんだかんだで、片腕だと自負していた。

 だけど。


 ――年明けから、『どこか』行くか。いくつか話は進めてきたんだ。行きたいところがあれば行っていい。その方がお前の為になる


(オレのことはあんまりいらないみたい。もちろんどこかへ行きたいのは嘘じゃない。だけど……)

 店をやめてやるとか、どこかへ行きたいと言った翌日に「そのつもりで話を進めてきた」と言われるのは少し予想外で、胸が突かれるような感覚があった。

 しかも、由春が名を挙げたのは幸尚ももちろん知っている東京の有名店ばかりだった。

 行けるものなら行きたい。それは本当。だけど。


「ハルさん。ハルさんは、無人島に何かひとつだけ持って行けるとしたら、何を持って行きます?」

 くだらないと見下げてきた質問が、不意に口をついて出た。

 お前、なんて言われることはないのは知っている。無人島だ。二人で行っても、客がいない。

 そうだなぁ、と聖にしがみつかれたまま、由春は意外にも真面目に悩んでから答えた。


「フライパンかナイフかなぁ……。食材があっても料理できないと」

(料理馬鹿。そうだ。こいつはひとりでも生きていくんだ)

 料理さえできれば。

 いざとなったら、伊久磨のことさえ必要とせずに、ひとりで店を開いて料理を振舞い続けるのかもしれない。


「俺は? 俺にはきかないの? 俺はね、死んだ妻の思い出かな」

 全然聞いてもいないのに、聖が口の端をつりあげて笑い、何か言っている。

 至近距離で聞かされた由春は「聞いてない聞いていない」と言いながら、聖を押しのけようとしていた。


(思い出なんか、頭の中に詰め込んであるなら無人島に持って行く「ひとつ」に換算する必要はないような気がするんだけど)

 わざわざ言いたいのはどういう心理なんだ、と思いながらふと思う。


 ――聖さんは特別。


 絶対に勝ち目がないと決めつけた。だけど、当の本人はきっと揚羽を見ることはない。今でも、「死んだ妻」にこれほど縛られている。

 揚羽の姉、聖の妻がすでに死んでいることは知っていた。そのとき、それなら揚羽にも望みはあるのかと思っていた。


「俺は死んだ妻より大切なものがないからね。この先もずっと」

 あまりにも当然のように紡がれる言葉。

 澄み透って撃たれる。

 あの目が見ているのは、他の人には見えない何かだ。


 敵わないとか、叶わないとか。

 諦めてきた。

 諦めようとしてきたものが、不意に自分の内側で存在を主張し始める。


(どこか遠くへ、行っていいのだろうか。この場から。後ろを振り返らず)

 海の星のオープン直前に転がり込んだときには、他に行き場所がなかった。そのまま、岩清水由春について、その背中を追いかけてきた。愛着も湧いていた。他のものを選べない程度に。捨てることを躊躇うほどに。


 ――行けよ。自分にとって良い生き方を考えろ。他は気にするな。お前が責任を感じなくても、みんな自分なりに生きていくよ。俺も。


 吐き気を堪えて二人で床に転がっていたときに言われた。行けよ、と。

 いつの間にか、無人島には救助船がついていたのかもしれない。乗ってしまえば一蓮托生だった日々はすぐに薄れて、その先にはまだ見ぬ日々が待っている。

 新しい世界が。


 それでもきっとオレはいつまでも忘れないんだ。

 あのとき、並んで見上げた空に輝いていた目印。

 海の星(ステラマリス)を。

第13話アフターSS「Stella Maris」はこれにて終了です。

幸尚(+聖)の回にステラマリス。でした。



続きは香織VS心愛で終わった第13話その後からですね。

年末年始です。みんなでひとつ屋根の下!

新キャラも間に合えば合流します!

いつも読んでくださってありがとうございます!!

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― 新着の感想 ―
[一言] 聖さん、もはや神の領域ですね。 私はすでに別れてはいますが、それでも嫁にはずっと元気でいてほしいです。 主に子供のためにですけど。 男親は稼ぐ以外に何の役に立たないので。 もしも嫁が死んでい…
[良い点] 「澄み透って撃たれる」…まず、タイトルからして良かったですね。 これほど純文学的なフレーズは最近見たことありませんでした。 そして、流石の構成と描写でした。(もう、見習うところばかりでした…
[良い点] 力が程よく抜けた回でした。幸尚の気持ちも動いていますね。 恋愛でも仕事でもそうですが、こうと自分で決めつけてしまうとそこで終わってしまう。可能性を潰すのは自分自身だと、以前受けた自己啓発…
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